第2章 流れを汲む者
鬼流と天原

 冷房のよく効いた部屋で、部屋の主たる天笠柚紀(あまがさゆずき)と、幼い同居人たる鬼沙羅(きさら)が、並んで台所に立っている。共に、ナスやらシイタケやらイカげそやらに溶いた小麦粉をつけて、揚げている。
 その作業の合間に、柚紀(ゆずき)はふと記憶を呼び起こした。数日前、彼女が指輪を捨てようとした日の記憶を……
「ねえ、鬼沙羅(きさら)。そういえばさ」
「んー。なぁに?」
 ぱちぱちぱちッ。
 油が衣をパリパリに仕上げているなか、鬼沙羅(きさら)は揚げあがり具合を凝視したままで応えた。柚紀(ゆずき)に視線を向けることはない。油を扱っている以上、視線を逸らして対応するのは危ないと判断したのだろう。
 その判断に異論はないようで、柚紀(ゆずき)もまた鬼沙羅(きさら)同様に作業を続けたままで言葉を紡ぐ。
「この間、酒呑(しゅてん)とか茨木(いばらき)とか清姫(きよひめ)とかって話してたじゃない? あれって、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)とその部下の茨木童子(きばらきどうじ)のこと? 清姫(きよひめ)は、安珍(あんちん)・清姫(きよひめ)伝説の清姫(きよひめ)?」
 ぱちぱちぱちッ。
「そろそろいいかな? ……うん。よさそう」
 鬼沙羅(きさら)は最後のタネであったシイタケ3枚を油から取り出し、キッチンペーパーに並べる。そうしてから、コンロの火を止めて柚紀(ゆずき)に向き直った。
「詳しくは知らないんだけど、酒呑(しゅてん)ちゃんといばちゃん、清(きよ)ちゃんは、すっごい昔にこっちで生まれて、しばらくしてから鬼の世に逃げたんだって。だから、こっちの伝説とかに酒呑(しゅてん)ちゃん達の名前が出てるんだとしたら、本人だと思うよ」
「その清(きよ)ちゃん――清姫(きよひめ)はお坊さんにフラれて鬼になったってこの間も言ってたわよね」
「うん。自分で言ってたよ。男の人にフラれて怒ったり泣いたりしたらアレやらソレやらが起きて、それで鬼になったんだって」
 どれだけ感情を昂ぶらせたら、鬼になってしまうような摩訶不思議なことになるのやら、柚紀(ゆずき)には想像もできない、とは言い切れない。怒りを契機として鬼を召び出してしまった身としては……
 それはともかくとして――
「アレやらソレやらって…… 何かアバウトね。本人から話を聞いたんでしょ?」
「そうだけど、何か途中で飽きちゃったんだもん。内容暗くて、うんざりだったし。だから、オチだけざっくり覚えてるの」
 他人の人生に対して散々な評価である。
「鬼の辞書に気遣いの一語はないの?」
「あるよ。遣わないだけで」
 鬼子のあっさりとした返事を耳にして、人は深い深いため息をついた。そうしてから、気を取り直すように頭を横に振る。
「まあ、いいわ。とにかく、今の話からすると、鬼沙羅(きさら)の知ってる清姫(きよひめ)は、こちらで伝説になっている清姫(きよひめ)と同一人物みたいね。それほど詳しくは知らないけど、清姫(きよひめ)は安珍(あんちん)っていうお坊さんに袖にされたのが原因で、鬼とか蛇とかに変身したはずよ」
「ふぅん。じゃー、酒呑(しゅてん)ちゃんといばちゃんは?」
 ぽんぽん。
 天ぷらの油をおとすため、柚紀(ゆずき)はキッチンペーパーをイカげその天ぷらにかぶせ、軽く叩く。
 鬼沙羅(きさら)も見よう見まねで、しいたけの天ぷらに対して同じ作業をはじめる。
「酒呑童子(しゅてんどうじ)と茨木童子(いばらきどうじ)はたしか、大江山っていう山を根城にしてた悪鬼で、源頼光(みなもとのよりみつ)っていうお侍と、彼の部下4人で退治したんだったと思うわ。その時に、鬼沙羅(きさら)たちがいる世界に飛ばされたのかな」
「へー。悪鬼かー。まあ確かに、酒呑(しゅてん)ちゃんもいばちゃんも善い人には見えないかなー」
 キッチンペーパーで油を吸い終えて、柚紀(ゆずき)と鬼沙羅(きさら)は盛り付けをはじめた。大皿に所狭しと、ナスやシイタケ、イカげその天ぷらがバランスよく乗っている。残り物を処分するための天ぷら作戦ではあったが、意外と見た目はよろしい。
「善い人じゃないっていうと、こっちにやってきて人間を、その……食べる、とか?」
 雑談とはいえ、さすがに口にするのを憚られる単語であったため、柚紀(ゆずき)はすこしばかり口ごもる。
 一方で、鬼沙羅(きさら)はきょとんとした顔で、つぶらな瞳をぱちくりしている。そうしてから、苦々しく笑う。
「やだなー。柚紀(ゆずき)ってば勘違いしてる。わたしたちってそこまで酷くないよ。そりゃあ昔はやんちゃな鬼がいたみたいだけど、今はもっと平和的だよ? まあ、昔の酒呑(しゅてん)ちゃんといばちゃんがどうだったかまでは責任もてないけどさ」
「そうなの? てっきりあんたらが鬼として変わってるのかと思ってたけど……」
 くすくす。
「柚紀(ゆずき)ってばおっかしー」
 両手で口元を隠して、鬼沙羅(きさら)がくつくつと笑う。
 どうにも、柚紀(ゆずき)の同窓生、木之下幽華(きのしたゆうか)がもたらした情報との齟齬があるようである。
 彼女は柚紀(ゆずき)にこう言った。
 ――鬼とは善きことのなき者達
 そういった人間側の認識が、旧時代的なものなのだろうか。
 その可能性はあるだろう。人の社会は、永く妖怪のような闇から遠ざかってきた。鬼の社会情勢が数百年で刷新されたのならば、人の持つ情報が古いというのも道理だ。
「なにぼーっとしてるの? 早くご飯にしよ。お兄ちゃん待ってるし」
「……へ? あ、そうね」
 鬼沙羅(きさら)に声をかけられて、柚紀(ゆずき)は頭を切り替える。天ぷらの乗った大皿を自分で持ち、炊飯器を鬼沙羅(きさら)に持ってくるように指示する。その後、味噌汁を注いだお椀や、取り皿、醤油、塩など、いくつかのこまごましたものを鬼沙羅(きさら)と協力して運び、夕餉の時となった。

「そういえば、話は戻るけどさ」
「うん?」
 ばくばくと順調に食卓の上のものを減らしつつ、阿鬼都(あきと)が反応した。
 鬼沙羅(きさら)もまた、もぐもぐご飯を食べながら柚紀(ゆずき)に視線を向ける。
「酒呑童子(しゅてんどうじ)とか茨木童子(いばらきどうじ)、清姫(きよひめ)のことだけど、特に危ない人――じゃなくて、鬼ってわけでもないのよね?」
「まあ、それはそうだけど…… なんか話が急な気がするんだけど……」
 阿鬼都(あきと)が訝りながら言った。
 なるほど、彼が先ほどの柚紀(ゆずき)と鬼沙羅(きさら)の会話を知らない以上、その反応も当然であろう。
「ああ、ごめんごめん。さっき鬼沙羅(きさら)とそういう話をしてたのよ」
 ふーん、と阿鬼都(あきと)が適当に相槌をうつ。天ぷらを口に運んで、続けて、味噌汁に口をつける。
 まったくもって、どうでもよさそうだ。
「っていうか、柚紀(ゆずき)。またその話もちだして、どしたの?」
 鬼沙羅(きさら)が箸をおいて尋ねた。
 柚紀(ゆずき)もまた一旦箸をおき、話し始める。
「うん、あのね。特に危ないわけでもないんだったら、ちょっとうちに招待できたりしないのかなぁと思ってさ」
 そう口にしつつ、彼女はぼーっと考える。生きる歴史に触れるチャンスだわ、と。
 柚紀(ゆずき)は大学で、一応ながら日本文学を学んでいる。それほど熱心に学んでいるわけではないといえ、そのような学問を専攻したくらいであるから、当然ながら、古い創作や歴史、文献に少なからずの興味を持っている。酒呑童子(しゅてんどうじ)や茨木童子(いばらきどうじ)、清姫(きよひめ)が生きた時代や、彼らが関わった物語――というよりも、正史に語られざる歴史とでもいうべき事実に、関心を向けるのは当然の感情だろう。それゆえの、先の発言であった。
 彼女の発言を受け、阿鬼都(あきと)がうなる。
「うーん、どうかな。鬼流(きりゅう)とか天原(あまはら)とか、召び出すことが出来る人間はいるとは思うけど、酒呑(しゅてん)たちが来たくなければつっぱねるだろうし」
「清(きよ)ちゃんは女の子に召ばれたらすぐに来るだろうけど、酒呑(しゅてん)ちゃんといばちゃんは来なそうだよねー」
「だなー。あいつら、どっちかといえば人間嫌いだし。ま、清姫(きよひめ)は清姫(きよひめ)でやや男嫌いだけどさ」
 双子によって紡がれた言葉たちが部屋に満ちる。そのいくつかは耳慣れないものであったため、柚紀(ゆずき)は疑問を投げかけるために口を開いた。
「鬼流(きりゅう)と天原(あまはら)って?」
 阿鬼都(あきと)が白飯をたいらげながら説明する。
「鬼流(きりゅう)っていうのは、もぐもぐ、鬼の流れと書いてきりゅう。かつて人と共に暮らすことを選んだ鬼、そして、その鬼と人の間に生まれた子、子孫のことを指すんだってさ。もぐもぐもぐもぐ、ごくごく」
 鬼子はひと通り語って、しいたけの天ぷら、白飯を交互に口に運び、続けて、麦茶を飲み込む。
 そんな阿鬼都(あきと)の代わりに、鬼沙羅(きさら)が説明を次ぐ。
「それでね。天原(あまはら)っていうのは、ただの人間なんだけど不可思議な力を使える人のことを言うの。人の間では天原(あまはら)の民って呼ばれてたのを、鬼の間では略して天原(あまはら)って呼ぶんだよ。詳しくは知らないけど、高天原(たかまがはら)っていうのが語源なんだって」
 鬼沙羅(きさら)の説明に、柚紀(ゆずき)は苦笑する。
「高天原(たかまがはら)とは大きく出たわね。まあ、不可思議な力を持った人たちが肯定的にとらえられたら、神に準ずるものだと考えられるのも自然といえば自然でしょうけど」
「ふえ? 何で急に神様?」
 突然の柚紀(ゆずき)の発言に、今度は鬼沙羅(きさら)が疑問を覚えた。
「高天原(たかまがはら)っていうのは、日本神話において天の神様がおわしたとされる場所なのよ。ま、実際にはそんな場所ないんでしょうけどね」
 聞く者が聞けばとんでもない問題発言となりそうなことをあっさりと口にして、柚紀(ゆずき)が苦笑した。
 そのような柚紀(ゆずき)を瞳に入れて、鬼沙羅(きさら)は、へー、と感心している。
 一方で、阿鬼都(あきと)は会話を意識の端でとらえつつも、黙々と夕食をたいらげている。あまり興味がないようだ。
「しっかし、鬼流(きりゅう)に天原(あまはら)ねぇ。そんな知り合いはいないし、鬼を召び出すのは無理っぽいわね。てか、あんたたちは召べないの?」
「僕らは元々向こうにいたからね。無理」
 端的な阿鬼都(あきと)の説明に、柚紀(ゆずき)は疑問符を浮かべる。
 そんな人の子の様子を察してか、鬼沙羅(きさら)がずずっとお味噌汁をひとすすりしてから言葉を紡ぐ。
「召ぶってゆーのは自分たちの領域に異分子を入れるっていうことだから、こちら側でそもそも異分子であるわたしたちは、むこう側にいる酒呑(しゅてん)ちゃんたちを召べないの。ほら、家の主人じゃなくてお客さんが他のお客さんを招きいれる、なーんておかしいでしょ?」
 そう言ってから、彼女は遠い目をして、まあ、規格外の例外はいるけど、と小さく呟く。
 鬼の召喚などという非日常に限らず、世の中とはそういうものだ。如何なる道にも例外はあり、決まって、深く踏み込まない方がよい蛇の道だ。ゆえに、柚紀(ゆずき)は努めて気にしないことにする。わけ知り顔で苦笑した。
「なるほど…… けど、そうなるとやっぱ酒呑童子(しゅてんどうじ)たちをご招待っていうのは無理なのね。少し残念」
 もぐもぐ。
 そう呟いてから人は、白飯をかっこみ、咀嚼する。
 そして――
『ごちそうさまでした』
 夕食が終わった。

 かちゃかちゃ。
 3人全員で食器などを台所に運ぶ。そんな中、阿鬼都(あきと)がおもむろに口を開く。
「っていうか、柚紀(ゆずき)さー。いくら人間の男が見つからないからって、とうとう鬼の男を連れ込もうとは――堕ちたもんだよねー」
「……………はぁ!?」
「えっ! そういうことだったの、柚紀(ゆずき)?」
「いや、ちが――」
「そりゃそーだろ。あーやだやだ。寂しー女だなー」
「ほんと。寂しー女だねー」
 寂しー寂しーと、双子が連呼する。
 柚紀(ゆずき)は必死で否定する。
「だから違うし! そんなじゃないし!」
「そんな嘘つかなくていいって。ここ数ヶ月で、柚紀(ゆずき)がモテないのはわかってるし。チャレンジ精神は大事だよ。無駄だろーけど」
「そーだよ。色々な可能性を模索するのはいいことだよ。無駄だろーけど」
 生暖かい目で微笑む2名。
 可哀想な生き物を見るかのようなその表情に、柚紀(ゆずき)もいいかげん堪忍袋の緒が――
 ぶちっ!
「違う言うとるじゃろおぉがあぁあっ!!」
 ぶち切れた。
 怒声が夏の宵に響き渡る。しかしながら、前例を持つ彼女の憤りをもってしても、伝説に名を連ねる者たちが召ばれることはなかった。非日常はそうそう何度も顔を出さないようだ。

PREV TOP NEXT