第2章 流れを汲む者
みんなの休日

 こんこん。
 ある日曜日の昼過ぎ。天笠柚紀(あまがさゆずき)は隣家――長谷部(はせべ)家を訪れた。
 がちゃ。
「はーい。あ、ゆずきさん。ごめんなさい。母はまだねてるんです」
 対応したのは長谷部(はせべ)家の若干6歳の長男、健太(けんた)だ。年齢のわりにしっかりしていると、もっぱらの噂である。
 一方で、彼の言葉の中にあった母親――長谷部(はせべ)家の大黒柱である武美(たけみ)は、基本的にだらしがない。しかしそれだけではなく、家計を支えるために日曜日以外は働きづめ、という真面目な一面もある。そのため今回のように、休日である日曜日は寝て過ごしていることが多い。
「あ、うん。それはわかってる。用があるのは健太くんなんだ」
「ボクですか?」
「うん。あのね。午後暇だったら、うちの子たちと遊ばない?」
「え! きさらさんとですか!」
 突然頬を紅潮させ、健太が叫んだ。あたふたと手足を忙しく動かし、挙動不審なことこの上ない。
 普段落ち着き払っている6歳児の変貌に、柚紀(ゆずき)は戸惑う。
「えと、うん。まあ、鬼沙羅(きさら)だけじゃなくて阿鬼都(あきと)もだけど……」
「え、あ! そ、そうですよね。もちろん、あきとさんもいっしょですよね」
 柚紀(ゆずき)の言葉で若干の落ち着きを取り戻し、健太はこほんと咳払いをする。頬の紅潮もやや押さえられた。
 しかし、本調子とはいかないようで、いまだ視線は泳いでいる。
 ちなみに、健太は阿鬼都(あきと)や鬼沙羅(きさら)とも面識がある。一応という程度の面識ではあるが、それでも顔をあわせた機会は少なくない。
 ゆえに、今さら人見知りということもないと思われる。
「大丈夫? 健太くん」
「え? と、とくにもんだいありませんよ。なにも」
「そう?」
 問題ないようには、とてもではないが見えない。しかし、そう言い張るのだから、それ以上追求すべきではないだろう。
 柚紀(ゆずき)は努めて気にしないようにした。
「それでええと…… ボクはひまなのですけど、母がまだねていますので放っておくわけにも――」
「いいから行って来い」
 大人びた様子で柚紀(ゆずき)の誘いを断ろうとした健太だったが、話題に上っていた母親が彼の言葉を遮った。
 寝ぼけ眼ではあるが、意識ははっきりとしているようだ。
「あ、武美さん。すみません。起こしてしまいましたか?」
「別に。1時間前くらいから寝ぼけた状態で寝っころがってただけだし、起こされたって程じゃねーよ」
 ふあぁあ。
 それでも、十分眠そうに武美があくびをする。
 一方で、しっかりとした動きで健太を外へ押し出す。
「ほれ。行って来い」
「で、でも母ちゃん」
「休みのたびに私の世話ばっかじゃあ、つまらんだろ。たまには羽のばせ」
 武美がぶっきらぼうに言い放ち、健太の手に鍵――おそらくは、玄関の鍵だろう――を握らせる。そして、じゃあな、とひと言だけ口にして、扉を閉めた。
 がちゃっと錠の閉まる音が響く。
「……なんか、しめだされたきぶんです」
「まあまあ。武美さんも気を遣ってるのよ。一緒に遊びましょ、ね?」
「……はぁ。そうですね。では、おことばに甘えます。どうぞよろしくおねがいします、ゆずきさん」
 礼儀正しく頭を下げる所作は、やはり6歳児とは思えなかった――が、顔中に広がる笑みだけは歳相応に見えた。

 降り注ぐ陽の光。吹き抜ける爽やかな風。
 柚紀(ゆずき)たちが住まうアパートから少しばかり足を伸ばした場所にある川のほとりには、休日を楽しむ人々が散在していた。うっとうしくない程度の盛り具合である。
「さて、ここら辺で遊びましょうか」
『おー』
「はい」
 双子が仲良く応え、健太もまた丁寧に応える。
 そして、健太が鬼沙羅(きさら)に向き直り、軽く紅潮させた頬を伴って声をかける。
「あ、あの、きさらさん。ほんじつはよろしくおねがいします!」
「うん。よろしくねー。あ、鬼沙羅(きさら)でいいよー。『さん』ってなんか変な感じだし」
 笑顔と共に指令が下された。
 健太の顔中を一瞬で紅が駆け抜ける。そして数秒ののち――
「え、あ、その、はい。………きさら」
 男児が苦しそうに声を絞り出した。
 その一方で、鬼沙羅(きさら)は満面の笑みを浮かべて応える。
「うん。よろしくね。健太」
「は、は、は、はい!」
 以上のやりとりにおいて、健太は終始緊張し、鬼沙羅は終始のほほんとしていた。
 中々に面白い対比だ。
「……で? 僕は無視?」
 そこで不機嫌そうに瞳を細め、阿鬼都(あきと)が呟く。
 健太が慌てる。
「あ! いや、その、ごめんなさい。あきとさんもよろしくおねがいします!」
「……まあ、よろしく。てか、僕も阿鬼都(あきと)でいいよ」
 謝罪を受けても、阿鬼都(あきと)の機嫌は完全に直らなかったようで、辺りには苛立たしげな気配が漂っている。
 その空気を敏感に感じてか、健太は先程以上に緊張した様子で、懸命に阿鬼都(あきと)を呼び捨てている。
 一方で、鬼沙羅(きさら)は相変わらず能天気な笑顔を浮かべ柚紀(ゆずき)のもとへトテトテと駆け寄る。
「柚紀(ゆずき)ー。サッカーしよ。ワールドカップ」
「ワールドカップは違うでしょ」
 苦笑しつつ、柚紀(ゆずき)が持参したスポーツバッグからサッカーボールを取り出す。それは彼女の実家にあったもので、弟の慎檎(しんご)が幼い頃に使っていたボールである。
 今さら使うこともないだろうと勝手に判断し、つい先日借りてきたのだ。ちなみにこの場合、返却日はこない。とこしえに。
「健太くん。サッカーやったことある?」
「いえ、あんまり…… ゆずきさんはやられてたことがあるんですか?」
「ううん。初めて」
 予想外の情報開示だった。
 健太は軽く沈黙し、阿鬼都(あきと)に視線を移す。
「あきとはやったこと――」
「ないよ」
 あっさりした回答であった。
「あ。わたしもないよ」
 鬼沙羅(きさら)もまた、同様の回答である。
 …………………………………
 数秒の沈黙ののち、健太が口を開く。
「えと。それでどうしてこのチョイスなのでしょう?」
『テレビでやってたのみて、何かできそうかなって』
 声を揃えてのたまう人の子と鬼の子たち。
 そのように単純なものならば、世のサッカー選手も苦労しないであろう。
 …………………………………………………
 再び沈黙が辺りを支配する。
 そして――
「そ、それじゃあ、ちょっとれんしゅうしてみましょうか。みなさん、少しひろがってください。パスれんしゅうをしましょう」
『はーい』
 6歳児によるサッカー講座が始まった。

 たっぷり2時間ほど身体を動かし、柚紀(ゆずき)たちは帰路についた。
 一度、鬼沙羅(きさら)が指輪から離れすぎ、倒れてしまったことを除けば、平和に過ぎた休日だったといえよう。ちなみに、指輪は柚紀(ゆずき)のスポーツバッグに忍ばせてあった。
「きさらがたおれた時はびっくりしたよ」
「本当よ。まったく……」
「えへへー。ごめんなさーい」
 鬼沙羅(きさら)が笑いながら謝罪した。
 しかし、彼女に懲りた様子はない。この分だと、近い未来同じことが起きるだろう。とはいえ、楽しそうににこにこと微笑んでいるのを目にすると、まあいいかという気分になる。
「それより、楽しかったなー。サッカー」
 言ったのは阿鬼都(あきと)だ。こちらもにこにこと楽しそうにしている。
 最初はさすがに、彼らの練習風景はぎこちなかった。しかし、数分もすれば皆それなりに慣れてきて、元気な声が飛び交うようになった。
 とりわけ阿鬼都(あきと)は、サッカーをいたく気に入ったようで、健太と次の約束までとりつけていた。
「目指すは世界だな!」
「あきと、たんじゅんだね」
 少しばかり険悪だった彼らの雰囲気も、すっかり良くなっている。
「んー。わたしはしばらくいいかなー、サッカーは。柚紀(ゆずき)と一緒に料理してる方がいいや」
 柚紀(ゆずき)の手をとりながら、鬼沙羅(きさら)が言った。
 その言葉に、健太が過敏に反応を示す。
「え? きさら、りょうり出来るの?」
「うん。最近のマイブームはハンバーグ。肉をこねるのが楽しいの」
 胸を張って、鬼沙羅(きさら)が得意げにしている。
 そんな彼女を、健太はキラキラとした瞳で見つめる。
「へー、すごいや。た、食べてみたいかも」
 なぜかまたもや、健太の柔らかそうな頬が紅潮し始める。特別暑い日というわけでもないのだが……
 当然ながら、彼に相対している鬼沙羅(きさら)も暑そうにはしていない。涼しげな様子で嬉しそうに、にっこりと笑う。
「いいよー。今度作ってあげる。ね。いいでしょ? 柚紀(ゆずき)」
「ええ、勿論よ」
 柚紀(ゆずき)が笑顔でそう応えると、鬼沙羅(きさら)、健太(けんた)共に満面の笑みを浮かべる。
 なんとも微笑ましい光景であった。

『じゃーねー』
「ばいばーい」
 アパートに帰り着き、子供たちが笑顔で別れる。
 心が和む平和な光景。ああ、日曜日。
 がちゃ。
『ただいまー』  そして、皆無事に帰り着く。
 物騒な事件が続く昨今において、なんとも喜ばしき事実であろうか。
 バタバタバタバタ。
 ばふっ。
「ふわぁ。疲れたー」
「ごくらくごくらくー」
 鬼子たちがベッドに倒れこむ。
 たっぷりはしゃいだためか、少しばかり疲れたようである。
 そのまま瞳を閉じ、つつましく今日という日が終わる――かと思いきや……
「こら! ベッドに寝転ぶ前に泥を落としなさいっ!」
 怒声が響いた。
 双子は頬を膨らまし、ぶーぶー抗議の声を立てる。
「やだー」
「めんどくさーい」
 ばたばたとベッドの上で騒ぎ立てる鬼子たち。
 柚紀(ゆずき)のこめかみに青い筋が引かれた。
「あんたらっ! 外面ばっかよくしてんじゃないわよっっ!!」
 本日、普段と比較して嫌味もわがままも少なかった鬼子たちに正当な評価が下された。
 しかしそれは――
『柚紀(ゆずき)もじゃん』
「うるさいっ!」
 これまた、正当な評価だった。

 一方、アパートの隣室――長谷部家では、健太が天笠(あまがさ)家の騒ぎを耳にし、苦笑していた。
 彼は母親に言われるでもなく、シャワーで泥を落とし、手洗いうがいをする。
 そして、テレビのある部屋へ行くと――
「おう健太。楽しかったか?」
 さすがに目を覚ましていた母親――武美が声をかけた。
 健太はにっこりと笑い、
「うん!」
 元気よく頷いた。
 つつましく、日曜日が終わり行く。

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