第2章 流れを汲む者
指より出でる邪力

 本日は月曜日。天笠柚紀(あまがさゆずき)は午前10時40分から大学の講義に出る予定である。
 腰を掲げて、手提げ鞄に教科書やノートを入れていると、緩くカールした栗色の髪が顔にかかった。柚紀(ゆずき)は自然な動作でそれを払う。最後に筆記用具を鞄におさめ、通学の準備を終えて――
「あれ? 柚紀(ゆずき)、指輪つけてくの?」
「柚紀(ゆずき)を捨てた男と一緒に買った元結婚指輪、つけてくの?」
 怒気を源として人の世に顕現した鬼子、鬼沙羅(きさら)と阿鬼都(あきと)がそれぞれ言った。艶やかな黒髪が、窓から差し込む陽の光を受けて輝いている。
「……うるさいわよ、阿鬼都(あきと)」
 こめかみに青筋を立てつつ柚紀(ゆずき)は、右手の中指に新郎がつけるはずだった指輪を、左手の人差し指に自分がつけるはずだった指輪をつけた。
「どうしたの? 私たちが来てから初めてじゃない?」
「だよな」
 実際は買ってから初めてつけたのだが、わざわざそのような事実を――からかいのネタになりそうな事実を口にするほど、彼女も間抜けではない。
 そんなことよりも、尋ねられたことに応える。
「このあいだ来た知稔(ちねん)さんがあんたたちのこと狙ってる――っていうのは大袈裟かもしれないけど、まあちょっとまずい感じじゃない? だから家にあんたらだけにしていくのも不安だと思ってね」
「んー。別にあの人が来ても返り討ちにするけど……」
 阿鬼都(あきと)が不満そうに呟いた。出かけることに、ノリ気ではないようだ。
 一方で、鬼沙羅(きさら)は嬉しそうに笑っている。
「私はおでかけ嬉しいなぁ。そうだ! ねぇねぇ、柚紀(ゆずき)。アレに入れてこうよ! あの巾着袋!」
 鬼子の提案に柚紀(ゆずき)は、とんでもない、というように頭を振った。
「袋に入れてこっそり持ち歩いてるのがバレたら『まだ未練あるんだぁ』とか思われかねないでしょ。それよりだったら堂々とつけるわよ」
 ――うわあ、何と言うか
 ――柚紀(ゆずき)らしー
 阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が共に苦笑する。
 そこで人の子は、いま嵌めたばかりの装飾品を見つめ、首を傾げた。
「……そういえば、阿鬼都(あきと)がどっちで鬼沙羅(きさら)がどっち? 今まで気にしたこともなかったけど」
 これまでの会話からも察せられる通り、阿鬼都(あきと)も鬼沙羅(きさら)も指輪に宿る形で人の世に顕現している。
 その鬼子たちはトテトテと歩みを進めて、それぞれ柚紀(ゆずき)の右手と左手を握る。
「僕はこっち、右手につけてる方だよ」
「わたしは左手ね」
 両の手をぎゅっと握られながら、ふーん、と柚紀が適当な相槌を打つ。そして、子供たちの手がようよう離されてから、自身の両手を目の前にかかげ、邪が宿っているという指輪をマジマジと見つめた。当たり前だが、見ただけではさっぱりわからない。
「あ。そうだ」
 何かに気付いたように、阿鬼都(あきと)がポンと手を打った。
 人差し指を立てて、柚紀(ゆずき)に声をかける。
「ひとつ忠告。誰かを殴るなら左手がいいよ。鬼沙羅(きさら)の力の方が少しだけ弱いからさ」
 紡がれた言葉。阿鬼都(あきと)曰く、忠告だ。
 それに対し――
「あのね、阿鬼都(あきと)! いくら私でも、そうそう殴ったりしないわよ!」
 柚紀(ゆずき)が怒号を響かせた。よくわからない点は無視しつつも、失礼な言葉への文句を大音量で紡いだ。
 そして、鬼沙羅(きさら)もまた――
「……阿鬼都(あきと)の、ばかぁ! そんなハッキリ言うなんてデリカシーなぁいっ!」
 大声で叫んだ。弱いと言われたのが気にいらなかったようだ。
 彼女たちはひと言では飽き足らず、かしましく苦情を垂れ続ける。
 サラウンドで責めくる文句三昧に、阿鬼都(あきと)は朝から気力を浪費させていった。
「……はぁ」

 タッタッタッタッ。
「はぁ、はぁ……」
 双子と話し込んでいたせいで講義に遅刻しそうになってしまい、柚紀(ゆずき)は駆け足で大学へと向かっていた。
 いつもであれば遅刻しても気にしないのだが、今日は講義のはじめに課題を集めるため、遅れるわけにはいかない。
「はぁ…… はぁ…… きっつ……」
『がんばれー。柚紀(ゆずき)ー』
『がんばってー』
「……あんたたち、楽でいいわね」
 現在、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)は指輪に宿った状態である。そのため、柚紀(ゆずき)とは違って走る必要などないのだ。あたかも閉所にこもっているかの状況ゆえ、こころもち、彼らの声がこもって聞こえる。
 ところが――
 ぽんっ。
「じゃあ、わたしも一緒に走ろっと」
「それじゃ、僕も!」
 双子の声が突然クリアになった。
「ちょ! 阿鬼都(あきと)! 鬼沙羅(きさら)! 外にいる間は指輪から出てこないように言ってあったでしょ!」
「えー?」
「なんでー?」
 クスクス。
 おかしそうに含み笑いをしながら、双子がトテトテと走る。
 そして――
「何でもいいから!」
「やーだもーん」
「鬼さんこーちら。手のなるほぉへ」
「鬼はあんたらでしょーが!」
 クスクス。
「逃げろー」
「きゃー」
 おいかけっこが始まった。

 その後、柚紀(ゆずき)は何とか遅刻せずに講義へと出席した。課題も無事に出すことができ、万々歳である。
 しかし――
「きゃー! かわいい!」
「お名前は何ていうのかな?」
 講義が終わると同時に、友人たちに囲まれたのはあまり喜ばしくない。
 彼女たちの目当ては阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)の鬼子たちである。その幼い見た目は、一般的には実に好ましいようで、皆わいわいと集まってくる。
 柚紀(ゆずき)も、その反応が迷惑、とまでは言わない。
 しかし、何がきっかけで双子の正体がバレてしまうかわからない現状は、困りものだった。
 ――阿鬼都(あきと)も鬼沙羅(きさら)も、余計なこととか言わないといいけど……
 人の子が不安げにしているなか、鬼子――阿鬼都(あきと)が机に腰掛けて、つまらなそうに年上女性たちを見返す。
「阿鬼都(あきと)だよ。こっちは鬼沙羅(きさら)」
「……………」
 兄が堂々としている一方で、妹は片割れの陰に隠れて、ひたすらに沈黙している。表情はこわばっており、濃い緊張の色が見える。どうやら、人見知りをしているらしい。
「あのさ、柚紀(ゆずき)」
 そこで柚紀(ゆずき)に声をかけたのは、友人の一人だ。彼女は興味深々な様子で、顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、柚紀(ゆずき)へと迫る。
 興味の対象たる人の子は嫌な予感を覚えたが、努めて気にせずに尋ねる。
「……何よ?」
「この子たち、柚紀(ゆずき)の子供?」
 ずーん。
 怒るのも忘れて、柚紀(ゆずき)は項垂れた。
 ――まあ、誰かに言われるとは思ったけどね
 予想済みだったため、それほど腹も立てていないようだ。鉄拳がうなることはなさそうである。
 しかし――
「うん。柚紀(ゆずき)ママが小学生の時に僕らを産んだんだ」
「んんなわけあるかああぁあ!」
 阿鬼都(あきと)の言葉には流石に声を荒げた。
 怒気が教室に満ちた。しかし、直ぐに散る。
 柚紀(ゆずき)は怒りを抑えて、急ぎ言い訳をする。
「し、親戚の子よ。ちょっとのあいだ預かってるの」
「ふーん」
 かなりいい加減な説明だったが、その場にいる全員が納得した。
 小学生の妊娠・出産に比べれば、はるかに真実味があったためだろう。親戚というにはあまりに似ていないのが難点ではあったが、積極的に疑うほどの理由にはなるまい。
 ふぅ。
 ひと安心して柚紀(ゆずき)が息をつく。その時、気づく。
「あれ? ところで鬼沙羅(きさら)は……」
 いつの間にか、鬼沙羅(きさら)の姿が見えなくなっていたのだ。つい先ごろまで、阿鬼都(あきと)の後ろに隠れていたのだが……
 教室が同級生でこみ合っており、柚紀(ゆずき)の瞳も、阿鬼都(あきと)の瞳も、すぐには鬼沙羅(きさら)を捕えない。ひょっとすれば、もうこの場にはいないのかもしれない。
 ――人見知りして、こっそり指輪の中に戻ったのかしら
 そのように考えて、柚紀(ゆずき)はひとりで納得しかけた。
 しかし、違った。
「ハァハァ…… おおお、お嬢ちゃん、可愛いねぇ…… お兄ちゃんと一緒に、あっちの暗がりで、い、いい、い、いいことしないかい?」
 柚紀(ゆずき)の耳に届いた、怪しすぎる声。
 ギュンっと首を動かして、柚紀(ゆずき)は急いでその声の主を探す。形相はとりわけ険しい。
 その索敵行動の結果、皆が集っている位置から少しばかり離れたところに、長身、長髪の男の後ろ姿を見つけた。
 その男はこの学び舎――臥龍(がりゅう)大学で一、二を争う有名人だった。ちなみに、名が売れているのは、悪い意味でである。
 彼の名は木曾雅哉(きそまさや)。すらりと通った鼻筋や、涼しげな目元、さらりとした黒の長髪など、容姿的側面という観点で論じるならば、間違いなく眉目秀麗という評価がふさわしい。
 しかし、そのような好意的評価の全てを損なうほどに彼は――変態的だった。
 雅哉(まさや)を表す単語としては、次のもので事足りる。すなわち――幼女趣味(ロリコン)である。
 その度合いは危険のひと言に尽き、彼がお昼のニュースに顔を出す日もそう遠くない、ともっぱらの噂だ。
 当然ながら柚紀(ゆずき)は、危機感を覚えて直ぐに駆け出す。
「い、いやぁ……」
 鬼沙羅(きさら)はその男の陰になる位置にいた。大きな瞳に涙を浮かべて、ガタガタと震えていた。顔色はこれ以上ない程に青い。
 現状として、幼女趣味(ロリコン)による変態的な行為は始まっていない。しかし、状況証拠から鑑みるに、雅哉(まさや)が許されざる犯罪行為に走ることは、時間の問題と見えた。
 このままでは間違いなく、取り返しのつかないことになる。
「鬼沙(きさ)――」
 阿鬼都(あきと)がようやく気づいて駆け寄ろうとするが……
「なにやってんのよ! このド変態っ!!」
 ばちぃいんっ!
 柚紀(ゆずき)が素早く雅哉(まさや)の背後へと至り、平手で思い切り殴った。室内に小気味よい音が響いた。
 しかし、女が男を殴っただけなのだ。せいぜいが床に倒れるくらいかと誰もが考えた。
 事実、そうなる――はずだった。
 ばぁんっ! ガラガラ!
「……え?」
 その呟きは誰のものであったか。破壊音の轟く教室に、むなしく響いた。
 破壊音の正体は、変態の体が教室前方の黒板に打ちつけられたものだった。黒板が見るも無残に砕けていることから、幼女趣味(ロリコン)の受けている痛みは相当なものに間違いない。
 雅哉(まさや)は、痛みに耐えるように顔を顰める。そして、ばたりと床に倒れ伏し、苦しそうに言葉をひねり出す。
「……ぼ、僕が倒れても……世に女児がいる限り……幼女趣味(ロリコン)は……幼女趣味(ロリコン)は……! 永久に――不滅だ……ッ!」
 ガクリ。
 感動的な要素など皆無の、とてつもなく残念な遺言だった。
 誰もがあきれ果てている――かと思いきや、皆、それどころではないようで、口を大きくあけてぽかんと呆けている。
 ………………………………………………
 長い、長すぎる沈黙がおちた。
 それというのも、目の前で非日常と評するに値する事象が展開されたためだった。
 変態男たる木曾雅哉(きそまさや)が、柚紀(ゆずき)の平手で――曲がりなりにも女性である柚紀(ゆずき)の平手打ちで、概算20メートルほどもぶっ飛んでしまったのだ。
 どのように体格差があろうとも、人は人に殴られて飛んだりしない。仮にそのようなことがあったとして、それはきっとワイヤーワークのたまものに違いない。
 友人の一人もそのように考えたのだろう。柚紀(ゆずき)と雅哉(まさや)をつなぐ直線上を注意深く観察している。しかし、結局そのようなものは見つけられなかった。
 つまり、非日常を認めざるを得なかった。
 ………………………………………………………………………………………………
 沈黙の嵐が訪れる。とてもとても静かな嵐だ。
 その静寂を破ったのは――
「……うわああぁあぁあん! 柚紀(ゆずき)ぃ! よくわかんないけど怖かったああぁあ!」
 鬼沙羅(きさら)だった。
 先ほどからぐずっていた彼女が、いよいよ本格的に泣き出したのだ。
 そうして、いっそ厳かとさえ言えた微妙な空気感は取り払われた。
 しかし、鬼沙羅(きさら)の泣き声以外の音がもたらされるには、まだしばらくの時間がかかるだろう。
 あり得ない事実が存在してしまった以上、現代を生きる常識的な者どもの頭に混乱が生じてしまうのは仕方がない。非日常を許諾するには、幾ばくかの時を要するのが常である。
 とはいえ、そういった不慣れに依る静謐も、残り僅かで終わりを告げるものと予想できる。直ぐに、非日常に対する好奇の視線と、興味本位の言葉たちが、教室を飛び交うことになるはずだ。
 その事実に思い至り、騒動の当事者になることが確定している人の子は独り、深いため息をつく。
「はあああぁあぁ……」
 柚紀(ゆずき)は疲れた様子でゆっくりと視線を巡らす。そして、倒れている雅哉(まさや)を瞳に映す。
 ぴくぴくと死にかけた虫のような痙攣をしてはいるが、素人目には大丈夫そうに見える。一応、安心してもよさそうである。
 しかし、勿論ながら、そのようなことで柚紀(ゆずき)の心は晴れない。
 今朝の阿鬼都(あきと)の言葉――柚紀(ゆずき)や鬼沙羅(きさら)から非難されまくっていた彼の言葉は、この非日常を意味していたのだ。
 ――誰か殴るなら左手がいいよ。鬼沙羅(きさら)の力の方が少しだけ弱いからさ
 指輪には鬼の力が宿っているがゆえ、指輪をつけた者には数奇な怪力がもたらされる。彼の言葉には、そのような一風変わった事情が込められていたのだ。
 鬼沙羅(きさら)は、鬼としての力が阿鬼都(あきと)よりも弱い。そんな彼女の指輪をつけた左手で殴る方が、問題は起きないはずだと、そう阿鬼都(あきと)は忠告していたのだ。
 しかし、今さらそれが分かったところで――遅い。
 もはや柚紀(ゆずき)は、超怪力女の異名を欲しいままにすることが義務付けられてしまった。
「あーあ。だから言ったのに」
「はああああぁああぁ……」
 超怪力女が再び、盛大なため息をついた。

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