第2章 流れを汲む者
憎悪満つる鬼の末

 臥龍(がりゅう)大学のサークル棟は基本的に人でごった返している。しかし、昼休みともなると学生食堂のある中央棟に、その多くが移動するため、閑散とするのが通例だ。
 それゆえ、天笠柚紀(あまがさゆずき)は安息を求めて、サークル棟の4階へとやってきた。神聖事象研究会(しんせいじしょうけんきゅうかい)の部室へと。
 がちゃ。
 案の定、部室内も静けさが満ちている。そこには、お弁当を食べている女子グループがいることもあるのだが、本日に至ってはそれもいない。
「はあぁあ。ここでしばらく休もう」
 椅子に腰掛け、柚紀(ゆずき)が深く息を吐く。彼女の平手により変態が吹き飛んだ事件を契機として、すっかり話題の的になってしまったゆえだ。
 曰く、実は男だ。
 曰く、実はゴリラだ。
 曰く、実は改造人間ユズキーだ。
 散々な噂が飛び交った。ここ1時間のうちに。
 それゆえに、注目を集めるのはもとより、空手部に勝負を挑まれたり、マゾっ気のある者に迫られたり、と騒動が付きまとった。
 そんな中、ようやく見つけた安息の地が、ここなのである。
 勿論、それも短い間のことになるのは目に見えている。
 オカルトとは少し毛色が違うけれども、いまや柚紀(ゆずき)自身が不可思議な存在と化してしまっているのだ。神聖事象研究会会長の皿屋敷巌(さらやしきいわお)にでも見つかった日には、ため息をいくらついてもつきたりない状況になるのは目に見えている。
 この場所への長居も禁物なのである。
「……12時20分か。30分にはここを出ないとなぁ。会長が次の時限に講義なかったら鉢合わせしちゃうだろうし」
「会長って?」
「てゆーか、ここ何の部屋?」
 柚紀(ゆずき)が壁の掛け時計を見ながら呟くと、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が突如出現し、尋ねた。今まで目立たないように、指輪内に引っ込んでいて貰ったのだが、我慢の限界がきたようだ。
 そう言えばこいつらを見られてもまずい、と柚紀(ゆずき)が頭を悩ませている一方で、双子はねーねーとしつこく答えを求めている。
「会長って誰さ?」
「ここって柚紀(ゆずき)の別荘なのー?」
 ひたすらに騒がれても鬱陶しいため、柚紀(ゆずき)はおとなしく応える。
「会長っていうのは、皿屋敷巌(さらやしきいわお)っていう男の人のことで、まあなんていうか、偉い人よ」
 実際にそれほど偉いのかというと、全く偉くないのだが、説明が面倒だったのだろう。
 続けて、鬼沙羅(きさら)に顔を向ける。
「ここは神聖事象研究会っていう会合の仲間が集まる部屋で、お茶を飲む場所よ」
 間違ってはいないが、何か間違っている説明だった。
『ふーん』
 鬼子たちがそれぞれ納得した――その時。
「それが双子の鬼たちね。ふふ。かわいい」
 耳慣れた声が聞こえた。
 ばっ!
 柚紀(ゆずき)が急いで視線をめぐらすと、神聖事象研究会の会員である木之下幽華(きのしたゆうか)が、部室の入り口に佇んでいた。腰の辺りまである黒髪をさらりと揺らし、ニコニコと機嫌よさそうに微笑んでいる。
 彼女の身を包むノースリーブの白いブラウスや、スカイブルー色のロングスカートが、涼風のような爽やかさを酷暑に添える。
「き、木之下さん。あの、この子たちのことは会長には――」
「いいわよ。もちろんヒミツにするわ。でも、もう無駄かもね」
 幽華(ゆうか)は柚紀(ゆずき)の頼みを快諾する――が、続いた言葉はやや不吉なものであった。
「それは……どういう?」
「だって、もう天笠(あまがさ)さん自身が会長の興味の対象だもの。木曾(きそ)くんのこと、聞いたわよ。やっちゃったわね」
 そう口にして、幽華(ゆうか)はクスクスとおかしそうに笑う。
 一方で柚紀(ゆずき)は、これ以上ないほどに肩を落とす。やっぱりかぁと独白し、深い深いため息をついた。頭の中では、会長こと皿屋敷巌(さらやしきいわお)から如何にして逃げ回ろうか、懸命に考えを巡らせていた。
 苦笑交じりの視線をそんな彼女から移して、幽華(ゆうか)は鬼子たちに瞳を向ける。
「あなたたち。お名前は?」
「……阿鬼都(あきと)」
「……鬼沙羅(きさら)」
 幽華(ゆうか)が終始にこやかにしている一方で、双子は心持ち険しい表情である。目つきは鋭く、口元も真一文字に結ばれている。
 そんな彼らには構わず、幽華(ゆうか)はやはり楽しそうに笑う。
「阿鬼都(あきと)くんに鬼沙羅(きさら)ちゃんね。はじめまして」
 いっそ、わざとらしいほど機嫌良さそうに、くつくつと笑んでいる。そして――
「ただ、知り合って早速で悪いんだけれどね」
 残念そうに声のトーンを落とすと、幽華(ゆうか)は少しばかり哀しそうに瞳を伏せ、すぅと薄い唇を開く。
「さようなら」
 びゅっ!
「くっ!」
「ひゃあ」
 何かが空気を切る音に続いて、がっと鈍い音が響く。柚紀(ゆずき)が何事かと視線をめぐらすと、先ごろまで阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)が立っていた場所の床に、直径数センチほどの穴が穿たれていた。
 双子は寸でのところでその強襲を避けたようだが、当たっていたなら痛いだけではすまなかっただろう。
「ふふ。おしい」
 柚紀(ゆずき)が視線を向けると、幽華(ゆうか)は両手の指の間にビー玉を挟んでいた。
 よくよく見えると、床の穴の奥にもキラリと光る小さな玉がある。
「……え?」
 呆けている柚紀(ゆずき)を尻目に、幽華(ゆうか)が腕を振るう。
 すると、6個のビー玉が空を切る。3個ずつが、それぞれに双子を襲う。
 だっ!
 阿鬼都(あきと)も鬼沙羅(きさら)も急いで駆け出し、その全てを避けた。
「あら。なかなか素早しっこいわね」
 明らかな戦闘行為に走りながらも、幽華(ゆうか)の顔には笑みが浮かんでいた。その輝きはいまや、安寧どころか不安しか与えてくれない。
 彼女は不安をばらまきつつ、2度、3度、4度と光り輝く玉を弾丸として打ち出す。
「ちょ、ちょっと! 木之下さん。もう除霊っていうか、退治っていうか、とにかく、そういうのいいんだってば!」
 柔らかな笑みを浮かべたまま、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)を攻撃しつづける幽華(ゆうか)を、柚紀はなんとか説得しようとする。
 しかし、幽華(ゆうか)は腕の振りをとめようとはしない。攻撃の手を緩めることなく、言の葉を繰る。
「ホントにお人好しなんだから、天笠(あまがさ)さんは。あのままその鬼たちを捨ててくれてれば、こっそり調伏できたんだけど…… ちょっと乱暴なとこ見せちゃうけど、怖がらないでね」
 にこり。
 彼女は、まるで遊戯に興じている最中のように、柔らかく微笑む。そうして、更に言葉を続ける。
「それに、言ったでしょう? 鬼とは善きことのなき者たち。忌みごとを生み出す――災厄なのよ」
 ぎろっ!
 笑顔から一転、突如、幽華(ゆうか)の表情が鬼の如きものに変じた。憎悪のみがそこには溢れている。
「――っ!」
 柚紀(ゆずき)は生まれて初めて殺気というものを感じた。幽華(ゆうか)の鬼を憎む気持ちの大きさを感じとった。
 それは双子も同じだった。それゆえ――
「柚紀(ゆずき)っ!」
「飛ぶよっ!」
「へ? ひゃああぁああああぁぁあぁあぁぁぁ!」
 彼女たちは窓を開け放ち、そこから――4階から飛び降りた。
「あら、元気」
 幽華(ゆうか)はゆっくりとした足取りで窓辺により、着地を無事成功させて駆けて行く3名を瞳に入れる。
 彼らがすっかり小さくなり見えなくなってから、彼女はやはりゆるやかに歩みを進め、部室をあとにした。

 はぁはぁ。
 川原の土手の中腹に座り込み、柚紀(ゆずき)たち3名は肩で息をしていた。ちなみに、どうでもいいことではあるが、この川を上流へと向かえば柚紀(ゆずき)宅近くの川原へと出ることができる。
「ふぅ。逃げれた、かな?」
「怖かったぁ」
 双子がそれぞれに声を漏らす一方で、柚紀(ゆずき)は混乱して頭を抱えていた。
 先ほどの幽華(ゆうか)の様子を鑑みるに、柚紀(ゆずき)に頼まれたから、という理由で動いているのではないことは明白である。間違いなく、自分の意思で阿鬼都(あきと)や鬼沙羅(きさら)を狙っている。
 しかし、なぜそのようなことをするのであろうか。柚紀(ゆずき)にはわからなかった。
「あんたら、木之下さんに何かしたの?」
「何かもなにも、さっき初めて遭ったんだよ?」
「何もできるわけないし」
 柚紀(ゆずき)の問いに、双子は共に不満顔だ。濡れ衣を着せられているのだからして、それもごもっともであろう。
「まあ、それもそうか。でもならなんで――」
「鬼を屠ることに理由なんて必要?」
 ばっ!
 皆が一斉に立ち上がる。そして振り返ると、土手の頂上には話題に上った当人――木之下幽華(きのしたゆうか)が佇んでいた。
 柔らかな笑みを携え、口元を右手で隠している。
「逃げるなんて酷いわ、天笠(あまがさ)さん。私、傷ついちゃった」
「……木之下さん」
 ばっ!
 弱弱しく呟いた柚紀(ゆずき)の前に、阿鬼都(あきと)が立ちはだかる。
「お前、もしかして鬼流(きりゅう)か?」
「……あら。年上の女性に向かってお前だなんて、ダメよ?」
「答えろよ!」
 にこやかに注意した幽華(ゆうか)に対し、阿鬼都(あきと)が声を荒げる。それでも、幽華(ゆうか)は余裕の表情で微笑み、それから――
「そうよ。私は鬼流(きりゅう)と呼ばれるモノ。木之下は元々鬼の下と書いて鬼之下(きのした)。1000年もの長きに渡り、連綿と鬼の血脈を受け継いできた家系よ」
 幽華(ゆうか)が右手の人差し指を立てる。すると――
 ぼっ!
 彼女の右ふともも付近に、拳大の炎が生まれた。
「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ」
 さらには、彼女の耳慣れない言葉の波にともない、炎が彼女を中心に時計回りにどんどんと生まれ出でる。
「センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」
 ぼっ! ぼっ! ぼっ!
「ちょっ! それ、ただの霊感少女の域を超えてない!?」
「もう、柚紀(ゆずき)っ! そんなこと言ってる場合じゃないってばぁ! お兄ちゃんっ!」
「ああっ!」
 阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)は両の手を前方に突き出し、力を込める。すると――
 ぶんっ!
 不可視の壁が彼らを覆った。
 それと時を同じくして、幽華(ゆうか)の周りに炎が満ちる。
「不動明王(ふどうみょうおう)、火界咒(かかいじゅ)」
 ばあぁあ!
 彼女の小さな呟きが契機となり、集っていた炎が一斉に阿鬼都(あきと)たちに向かう。
 ばんっ! ばんっ!
 炎弾は間断なく彼らを襲い、不可視の壁に衝撃を与える。
 そんな時間が幾秒か、ひょっとすれば幾分続き――
 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……
「あら、防ぎ切るとはね。ふふ、すごい」
 炎の強襲が途切れた。
「……ふん。鬼流(きりゅう)なんかに負けないよ」
「……ちょ、ちょっと疲れちゃったけどね」
 息切れしながらも、双子が言った。
「くすくす、さすがね。けど――」
 すぅ。
 幽華(ゆうか)が小さく息を吸う。そうしてから、両の手が印を切る。
「臨(りん)・兵(びょう)・闘(とう)・者(じゃ)」
「九字(くじ)!?」
 阿鬼都(あきと)が焦りとともに叫んだ。
 彼が鬼の世で習ったことが事実であれば、人の世で生み出された術のうちで最も強力であると言われるのが、九字(くじ)である。天原(あまはら)の民が大陸から導入した陰陽道という技術の中で、最高峰の力を誇るという。
「皆(かい)・陣(じん)・列(れつ)」
「そ、そんな強力なの、今うたれたらぁ……」
 鬼沙羅(きさら)が涙目で呟いた。
「在(ざい)」
 しかし、そんな彼らには目もくれず、幽華(ゆうか)は八字目を口にする。
 そして――
 ざっ。
「ぜ……」
 九字目でその言葉を止め、幽華(ゆうか)と双子の間に立った人物を見据える。
「天笠(あまがさ)さん。どいてくれない?」
「嫌よ!」
 手足を震わせながらも、柚紀(ゆずき)は凛とした声で拒否した。
 ふぅ。
 幽華(ゆうか)が小さく息を吐く。
「あのね、天笠(あまがさ)さん。私の術は悪鬼(あっき)や怨霊(おんりょう)のみを調伏する心霊術じゃない。少し特殊なだけで、柔術や空手と同じ現実的な技なの。避けないと――」
 にこり。
「死ぬわよ?」
 どくん。どくん。どくん。どくん。
 柚紀(ゆずき)の心臓は早鐘のようになり続ける。冷や汗は滝のように流れ、悪寒が全身を駆け巡っていた。
 しかし、それでも――
「ど、かな、い……」
 震える声を絞り出す。
 彼女の顔色は青を通り越して土気色をしていた。手足は痙攣しているかのように大きくぶれている。
 それでも、彼女の瞳は幽華(ゆうか)を睨み続ける。
 さらさら。
 水の流れる音だけが響く。
 そんな時が幾ばくか過ぎた頃――
 くすくす。
「ふふ。気がそがれちゃった。天笠(あまがさ)さんのことは嫌いじゃないし、ここは引いてあげる」
 幽華(ゆうか)はそう口にし、構えを解いた。そして、柔らかく微笑む。
「また遭いましょう。鬼子たち」
 彼女はすたすたと歩きだす。無防備な背中を柚紀(ゆずき)たちにさらし、去っていった。
 憔悴した者たちはそんな彼女を見送り――
 ばたっ。
 土手に倒れ伏した。
 さらさらと、さらさらと、水の流れだけが人と鬼の耳をかすめた。

 すたすたすたすた。
 機嫌よさそうに微笑みながら、街道を行く女性がいる。鼻歌でも歌いだそうかという様子である。
「嬢(じょう)」
 そんな彼女に、僧服に身を包んだ坊主が歩み寄って、声をかけた。比較的歳若い佇まいと、整った顔立ちが印象に残る。
 名を、白夜知稔(びゃくやちねん)と言った。
「あら、知稔(ちねん)。控えていたのなら手をかせばいいでしょうに」
 くすくす。
 楽しそうに笑った女性――木之下幽華(きのしたゆうか)に、知念(ちねん)は眉を顰めて苦言を呈す。
「何ゆえあのようなことをいたします?」
「あのような……こと?」
「あの鬼子たちのことです」
 数日前のこと。知稔(ちねん)は彼自身の目で双生の鬼子を検分した。その結果、力の有無はともかくとして、危険性はないという判断を気龍寺(きりゅうじ)の住職へと伝えていた。
「彼らは調伏せぬと、手を出さぬと、ご住職――貴女のお父上がお決めになられたではございませぬか。それを――」
 がっ!
 知念(ちねん)の言葉が止まる。彼の喉が押し潰されたためだった。
 幽華(ゆうか)の右手が知稔(ちねん)の胸倉を掴んでいた。そして、幽華(ゆうか)は、知念(ちねん)の体をビルディングの壁に力いっぱい押し付けた。
「その口を閉じろ、知稔(ちねん)。私をあのような腰抜けと――力なき臆病者と一緒にするな……っ!」
「ぐっ! がぁ……!」
 苦しそうに声を漏らす知稔(ちねん)には構わず、幽華(ゆうか)は独白を続ける。彼女の瞳は憎しみに満ち満ちており、あたかも鬼女のようであった。
「鬼を屠るのに何の遠慮がいる……! あのような汚らわしき異端など、災厄の申し子など、滅ぼし尽くせばいいのよ……!」
「……っ! ………っ!」
 声にならない声を漏らした知稔(ちねん)を目にし、ようやく幽華(ゆうか)は手を放す。一度うつむいて、数秒の時を経た。
 そして、ようよう顔を上げた彼女は、不気味なほど機嫌よさそうに、にこりと微笑んだ。
「あら。ごめんなさい、知稔(ちねん)。つい力が入ってしまったわ。許してちょうだいね、ふふ」
「がはっ! かはっ! はぁはぁ」
 すたすたすた。
 顔を顰めて咳をする知稔に、可笑しそうな視線を向け、それから、幽華(ゆうか)は再び歩き出した。
 そして、やはり楽しそうに、くすりと微笑む。
「久しぶりの鬼退治ね。楽しくなるわよ。ねえ、知稔(ちねん)」
「……………」
 喉元を押さえ、知稔(ちねん)は先を行く女性を見据える。その瞳は、とても哀しそうだった。
「けれど、今日のところは――」
 幽華(ゆうか)が振り返る。満面の笑みを浮かべ、知稔(ちねん)を見つめる。そして、笑みを浮かべたその唇からは――
「帰りましょう。私たち――鬼流(きりゅう)の家、気龍寺(きりゅうじ)へ」
 鈴の音の如き声音が、零れ落ちた。

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