第2章 流れを汲む者
禍き概念が生む哀しき子

 むすー。
 びくびく。
 その日、天笠柚紀(あまがさゆずき)宅は空気が悪かった。それというのも、前日に理不尽な暴力による理不尽な制裁があったためだった。木之下幽華(きのしたゆうか)による理由のわからない強襲は、阿鬼都(あきと)の鬼としてのプライドを傷つけ、鬼沙羅(きさら)にこの上ない恐怖を植えつけていた。
 白いベッドシーツにどかっと寝転んでいる阿鬼都(あきと)は、短い黒髪を指先でいじりながら唇を尖らしていた。苛立たしげな態度でベッドの縁を、トントントントンと素早くリズミカルに叩いてもいる。右手で髪を、左手でベッドの縁を、と何とも慌ただしい。
「阿鬼都(あきと)。別に惨敗したからってそう不機嫌にならなくても…… 相手はあんたより年上なんだし」
「……ふん」
 取り付く島もなかった。
 はぁ。
 柚紀(ゆずき)はため息をつき、鬼沙羅(きさら)に向き直る。
 鬼沙羅(きさら)は部屋の隅で、枕を抱きかかえて座り込んでいる。ぶるぶると小刻みに震えてぬばたまの黒髪を揺らしている様は、天敵に怯える小動物のようである。柔軟剤の匂いが香る枕に顔を埋めて、不安を何とか押しとどめているようだった。
「ほら、鬼沙羅(きさら)。木之下さんは私のうちを知らないはずだし、そんなに怯えなくても大丈夫だから」
「そ、そんなの分かんないじゃない。あんな凄い人だもん。きっと簡単にここのことなんて分かっちゃうよ。それで……それで……うわあぁあんっ!」
 余計に怯えてしまった。
 はぁ。
 再びため息をつき、柚紀(ゆずき)は窓の外に視線を送る。
 正直なところ、柚紀(ゆずき)もまた、鬼沙羅(きさら)と同じことを心配していた。
 鬼流(きりゅう)の力というのがどこまでのことを為せるものなのか、それは彼女には分からない。けれど、彼女の昨日の超人ぶりを思えば、阿鬼都(あきと)や鬼沙羅(きさら)の気配を追って柚紀(ゆずき)宅を突き止めるくらい容易に思えた。そうでなくとも、共通の友人に聞き込んで住所を知ることなど、もっと容易だろう。
 そこで柚紀(ゆずき)は、幽華(ゆうか)と共通の友人であり、なおかつ柚紀(ゆずき)宅を知っている人物は誰だっただろうか、と熟考する。当てはまる人物が一人でもいたならば、すぐさまどこかに避難する必要がある。
 しかし、柚紀(ゆずき)は気づいた。柚紀(ゆずき)との共通の友人どころか、幽華(ゆうか)の友人として、誰も思い当たらないことを。
 ――いや、でも、誰かいるでしょ。あんなに人当たりよくて、誰にでも優しくて…… あれ? でも……
 やはり誰も思い当たらなかった。
 皿屋敷巌(さらやしきいわお)などは友人として分類してもいいのか迷うが、分類してもいいのならば唯一思い当たる人物だった。しかし、幸いながら、彼は柚紀(ゆずき)宅など知らないはずである。
 柚紀(ゆずき)はそこでひと安心し、しかし、なにやらすっきりしない表情で再び考え込む。
 ――私、木之下さんのことあんまり知らないなぁ。神聖事象研究会(しんせいじしょうけんきゅうかい)以外でもたまに話すのに…… ちょっと薄情だよね。でも、あんなことされたわけだし…… いや、でも……
 そのような思考に入り込み、柚紀(ゆずき)が落ち込んだ。なんとも人が好い。
 むすー。
 びくびく。
 ずーん。
 それぞれに陰気な様子の阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)、そして、柚紀(ゆずき)だった。柚紀(ゆずき)宅はすっかり暗くなってしまった。
 そんな中――
 ぴんぽーん。
 びくッッッ!!!
 インターホンが鳴り響き、柚紀(ゆずき)たち三名は、それぞれ盛大に肩を跳ね上げる。
 鬼沙羅(きさら)などは早々に姿を消し、指輪の中に引っ込んでしまった。柚紀(ゆずき)の左手人差し指に嵌るそれは、心なし小刻みに震えているようだった。
 一方で、阿鬼都(あきと)は臨戦態勢に入り、玄関から死角となる場所で何やら構えをとっている。右手に力を込め、不可視の弾丸を練っているようだ。
 そして、柚紀(ゆずき)がゆっくりとした足取りで玄関口へ向かい、尋ねる。
「……はい。どちら様ですか?」
 その問いに、何某かの声がすぐさま応える。
「突然の来訪、申しわけ御座いませぬ。先日お邪魔いたした、白夜知稔(びゃくやちねん)です。本日は話を聞いていただきたく、はせ参じた次第です」
「……知稔(ちねん)さん?」
「知稔(ちねん)って、あのお坊さん?」
 柚紀(ゆずき)と阿鬼都(あきと)が、顔を見合わせる。そうしてから、ゆっくりと扉を開けた。
 するとそこには――
 にこり。
「こんにちは」
 白夜知稔(びゃくやちねん)に加え、痩身の中年男性がいた。にこやかな表情を彩る艶やかな黒髪が印象的だった。彼の放つ空気は、柚紀(ゆずき)に誰かを連想させる。
「こ、こんにちは」
「天笠(あまがさ)殿。こちらは気龍寺(きりゅうじ)の住職であらせられる、名を――」
 生真面目な態度で知稔(ちねん)が紹介をしようとしたところ、当の中年男性が腕を上げて制した。そして、すぅと息を吸い、自身で言の葉を繰り出す。
「はじめまして。私は木之下実明(さねあき)。幽華(ゆうか)の父です。娘がご迷惑をおかけしています」
『……………は?』

「はっはっはっ! いきなり攻撃とは元気な子供だ」
「す、すいません。ちょっと今、気が立ってて」
 阿鬼都(あきと)の不可視の弾丸を腹に受けて先ほどまで呻いていた実明(さねあき)は、存外機嫌よさそうに笑った。ちなみに、阿鬼都(あきと)はきちんと手加減していたようで、実明(さねあき)の怪我のほどは大したことがなかった。
「おじさん。ほんとにあの女の父さん? 弱すぎるよ」
「ねー。こんなんじゃ、わたしでも勝てるし」
「こら! 阿鬼都(あきと)! 鬼沙羅(きさら)!」
 柚紀(ゆずき)が慌てて双子の口を塞ぐが、完全に後の祭りである。
 しかし、実明(さねあき)も知稔(ちねん)も機嫌よさそうに笑んでいる。
「なぁに。いいんだよ。子供とはそういうものだろう。幽華(ゆうか)は中学、高校くらいから、もっと辛辣だからね」
「は、はぁ……」
 苦笑交じりの実明(さねあき)の言葉に、柚紀(ゆずき)が曖昧に笑う。彼女が普段目にしている幽華(ゆうか)からは、辛辣な様子など微塵も想像しえないが、昨日の河原での様子からならば像を結べる。
 どこか頼りなさげな父親に厳しい言葉を浴びせる娘、という光景は、どこか物悲しくなる。
「それに、私は木之下の家に婿入りしただけの力なき者ゆえ、本来ならば鬼流(きりゅう)と呼ばれるほどの力もない。いち僧である知稔(ちねん)の方が、鬼流(きりゅう)として腕が立つくらいだ」
「何を仰いますや。お戯れを」
 知稔(ちねん)の言葉に、やはり実明(さねあき)が楽しそうに笑う。よくよくご機嫌な中年である。しかし、そのように笑い続けられても話が進まない。
 柚紀(ゆずき)が小さく手を上げ、尋ねる。
「あのぉ…… それで、どういったご用件ですか?」
「おお、そうだったね。話が横道にそれて申し訳ない。用というのは他でもない。幽華(ゆうか)のことだよ」
 そりゃそうだ、と柚紀(ゆずき)は苦笑する。
 昨日の今日で父親がやってきておいて、あの件が全く関係ないわけがない。
「阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)のこと、退治しないように仰っていただけたのでしょうか?」
 期待を込めて、柚紀(ゆずき)が訊く。
 しかし、実明(さねあき)はあっさりとかぶりを振った。
「そのことは勿論言いつけた。けれど、あの子は私の言うことなど聞かない。あの子は、力なき私をただの腰抜けとしか思っていない。言うことを聞くはずがない」
 なんともコメントのしづらい発言だった。
 柚紀(ゆずき)が慎重に言葉を選んでいるなか――
「へたれ親父だね」
「役立たずだね」
 阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が一切の遠慮なく言い放った。
「ちょっ!」
 再び、柚紀(ゆずき)が彼らの口を塞ぐが、やはり遅すぎた。
 しかし、やはり実明(さねあき)は、気分を害した様子がない。
「はっはっはっ! 正直な子たちだ! 知稔(ちねん)に聞いていた通り、可愛らしいね」
「は、はぁ」
 柚紀(ゆずき)自身は、あまり可愛らしいとは思えなかったため、曖昧に返事をする。そうしながら、再度尋ねる。
「あの、それで、木之下さん――幽華(ゆうか)さんを説得していただけたわけでないのなら、いったい何故ここに?」
 そこで、実明(さねあき)と知稔(ちねん)が顔を見合わせる。そうしてから、すまなそうに眉を潜める。
「あなた方に、強くなっていただきたい」
『は?』
 柚紀(ゆずき)と阿鬼都(あきと)、そして、鬼沙羅(きさら)が、仲良く聞き返した。
 実明(さねあき)は難しい表情を浮かべ、言葉を続ける。
「あの子は強すぎる。気龍寺(きりゅうじ)の歴史の中でも群を抜いている。憎しみに因って育てられた技が――業が深すぎる」
 ご住職のその言葉は気になる。しかし、それ以上に先の発言の方が気になった。柚紀(ゆずき)は実明(さねあき)の言葉を遮って、声を荒げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! それはいいとして、それで何で、私たちに強くなって欲しいだなんて! ちょっと意味がわからないのですけど……」
 幽華(ゆうか)の力が強いのは、河原での一件で身に染みていた。しかし、だからといって、柚紀(ゆずき)たちが――少なくとも柚紀(ゆずき)が強くなる必要性は見当たらない。何かの間違いか冗談ではないか。柚紀(ゆずき)はそう思った。
 しかし、実明(さねあき)は前言を撤回しない。
「それしか、君たちを守る術がないからだよ。我らが気龍寺(きりゅうじ)の総力を上げても、幽華(ゆうか)の力には遠く及ばない。気龍寺(きりゅうじ)はもともと鬼流(きりゅう)の集う寺ではあったけれど、今や、力のある鬼流(きりゅう)は幽華(ゆうか)とここにいる知稔(ちねん)、そして、他数名のみ。その数名も知稔(ちねん)とそう大差ない力しか持たない。知稔(ちねん)の力を軽く凌駕している幽華(ゆうか)を止めることなど、出来はしない」
「…………………………」
 改めて幽華(ゆうか)の力を知ることになり、柚紀(ゆずき)は沈黙を余儀なくされる。
 まだ柚紀(ゆずき)自身はいい。昨日の様子からして、幽華(ゆうか)が柚紀(ゆずき)に危害を加える可能性は低いだろう。しかし、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)については、どう贔屓目に見たところで、無事に済むとは思えない。
 ぎり。
 奥歯をかみ締め、柚紀(ゆずき)が渋面を浮かべる。
 実明(さねあき)は、彼女のそのような様子を瞳に映し、それから、阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)を順番に見渡す。
「しかし、あなた方ならば、幽華(ゆうか)が相手だとしても或いは…… 鬼である阿鬼都(あきと)くんと鬼沙羅(きさら)くん、そして――」
 そこで、実明(さねあき)が言葉を区切る。微笑みを浮かべて、柚紀(ゆずき)を見やる。
 そうして、はっきりとした口調で言う。
「柚紀(ゆずき)くん。君であれば――神の御使いと称される天原(あまはら)の民であれば、幽華(ゆうか)にも劣らぬ力を、得られるやもしれない」
 言の葉が響いた。

「…………………………はい?」
 永き沈黙のあと、柚紀(ゆずき)が間の抜けた声を上げた。だらしなく口をあけ、呆けている。
 実明(さねあき)は、彼女の様子に首を傾げる。
「どうしたのだい?」
「あ、いや、そのぉ…… 私が……何ですって?」
 尋ねられると、実明(さねあき)は再び眉を潜める。
「天笠(あまがさ)家の娘さん――つまり、君は天原(あまはら)の民なのでは?」
「……………………………………はああぁあ!?」
 びくっ!
 突然の叫び声に、皆、一様に肩を跳ね上げる。
「もぉ、柚紀(ゆずき)ってばうるさーい」
「落ち着きないなー」
 双子が唇を尖らせた。
 そんな彼らを軽く睨みつけ、柚紀(ゆずき)が声を荒げる。
「落ち着けるわけないでしょ! 突然こんなこと言われて!」
 人の子の不平に対して、鬼が肩をすくめる。
「別に突然でもないじゃん」
「そーそー」
 双子はそのようにのたまうが、柚紀(ゆずき)としては不意に訪れたとしか思えない。
「どう考えても突然でしょ!」
「質問その一」
 声を荒げる柚紀(ゆずき)に対し、阿鬼都(あきと)はぴっと人差し指を立てて、尋ねる。
「柚紀(ゆずき)は僕らをどうした?」
 単純な問いである。答えに窮する謂れもない。しかし、何故そのようなことを改めて訊くのか、それが分からない。
 柚紀(ゆずき)が戸惑いつつも、答える。
「っと…… 召び出した?」
「正解」
 にっこりとほほ笑み、阿鬼都(あきと)が親指と人差し指で丸を作った。
 ぴぴっ!
「質問その二」
 続けて、鬼沙羅(きさら)が人差し指と中指を立て、訊く。
「ただの人間に鬼は召び出せますか?」
 ……………………………………
 ふぅ。
 長い沈黙のあと、柚紀(ゆずき)がため息をついた。
 彼女もそこまでいくと、流石に理解した。よくよく考えなくても、自分が普通ではないことを。
「……召び出せません」
「ぴんぽーん」
 にぱっと破顔して、鬼沙羅(きさら)が両手で大きな丸を作った。そして、兄と顔を見合わせて、くすくすと笑う。
『はい、天原(あまはら)けってー』
 柚紀(ゆずき)を指差し、双子が声を揃えて言った。
 突き付けられた指と、その向こうにある可愛らしくも憎らしい二つの顔を瞳に入れて、人の子が嘆息する。首にまとわりつく茶髪を触りながら、口を開いた。
「あんたら、気づいてたの?」
 鬼子たちがあっさりと頷いてみせる。
「まーね。召び出されたその時にさ」
「鬼流(きりゅう)とどっちかなーって思ってたけどねー」
 くすくす。
 双子が顔を見合わせておかしそうに笑う。
 ふぅ。
 息をついて、柚紀(ゆずき)がうなだれた。
 ――確かに、もうちょっと早く勘付いてもいいかも、私
「……天笠(あまがさ)くんは自分が――自分の家が、天原(あまはら)の家系だと知らなかったのかい?」
 実明(さねあき)が瞠目しつつ、訊いた。
「……ええ、まあ」
 アイデンティティの崩壊する音が脳内で響く中、柚紀(ゆずき)は両の手を見つめる。彼女の指に嵌る指輪がある以上、そして、阿鬼都(あきと)や鬼沙羅(きさら)がこの場にいる以上、受け入れがたくとも、受け入れないわけにはいかないだろう。
 しばらくは、夢心地で過ごすことになりそうだった。
 一方で、実明(さねあき)は現実的な思考を巡らしていた。難しい顔で、遠くを見つめる。
「幽華(ゆうか)も……そう育てるべきだったのかもしれないね。鬼流(きりゅう)だなどと、そんな事実は知らせず」
 非日常の足音を知ることと知らぬこと。そのどちらがよいのか、柚紀(ゆずき)にはわからない。
 しかし、先の発言からすると実明(さねあき)は知らぬことを是としているようだ。そしてまた、娘を非日常に踏み込ませたことを悔いているようにも聞こえる。
「……? なぜそう思うのですか?」
 その真意を図れずに、柚紀(ゆずき)が尋ねた。
 すると、実明(さねあき)は哀しそうに微笑む。辛そうに眉を潜め、言の葉を繰った。
「――鬼を憎まず、現実を生きて欲しいからだよ」

 ぴぴぴぴぴぴぴぴ、かちゃ。
 甲高い音を響かせていた目覚まし時計がようよう沈黙し、静謐が部屋を支配した。
 ふわぁ。
 小さくあくびをして、部屋の主、木之下幽華(きのしたゆうか)がベッドから身を起こした。ピンク色のベッドシーツに広がっていた、艶やかで細い黒髪がさらりと揺れる。
 彼女の枕元にある時計の長針と短針は、午前10時を指していた。
「そろそろ準備して行こうかな」
 そう独白して微笑み、窓辺に歩み寄ってカーテンを開け放った。
 陽の光が部屋に射し込み、幽華(ゆうか)は瞳を細めた。
「いい天気。鬼退治日和ね。なーんて」
 くすくす。

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