第2章 流れを汲む者
嵐を控えた静謐

 ぴんぽーん。
 気龍寺(きりゅうじ)の住職、木之下実明(きのしたさねあき)が天笠柚紀(あまがさゆずき)宅を訪れた日の正午過ぎのことである。午前中に次いで再び、インターホンが鳴り響いた。
「はーい」
 ぱたぱた。
 パソコンの画面を注視していた柚紀(ゆずき)は、疲れた目を軽く揉んでから玄関口へと向かった。
「どちら様ですか?」
「天笠(あまがさ)さん。木之下幽華(きのしたゆうか)です」
 がちっ!
 外から聞こえてきた声に、柚紀(ゆずき)は思わず、普段使わないドアチェーンをかけた。当然ながら、錠は下ろしたままだ。
「な、何の用?」
「警戒しなくてもいいわ。乱暴しにきたわけではないから。どうせ鬼たちは今いないでしょう?」
 その言葉に次いで、扉の外からはおかしそうな笑い声が聞こえてきた。
 インターホンを鳴らした当人――木之下幽華(きのしたゆうか)の言葉のとおり、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)は柚紀(ゆずき)宅にいない。
 実明(さねあき)と白夜知稔(びゃくやちねん)が指輪を手にして、龍ヶ崎町(りゅうがさきちょう)の町立図書館へと阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)を連れて行った。
 そこで、鬼子たちは不可思議な術の練習をしている。
 図書館には、気龍寺(きりゅうじ)が寄贈した書物が多数あるという。また、人目を気にせずに済む部屋も貸してもらえるとのことである。幽華(ゆうか)に対抗するための修行には、ぴったりの場なのである。
 ちなみに、阿鬼都(あきと)はノリノリであったが、鬼沙羅(きさら)はやや気後れしていた。戦うよりは逃げたそうだった。
「……どうして知っているの?」
「知稔(ちねん)とあの腰抜けが動いているのは知っているわ。あの人たちが私に敵わないのは明らかだし、なら、鬼子たちに何か教えてあげて……というのが妥当な策かと推理したの」
 幽華(ゆうか)の言葉に、なるほど、と柚紀(ゆずき)が納得した。
 一方で、まだ入室を許可されていない女人が、苦笑と共に言葉を続ける。
「ところで、天笠(あまがさ)さん。開けてくれない? せっかくだし、少しお話しましょう?」
 彼女は、そのように提案した。
 しかし、柚紀(ゆずき)は承諾しかねた。昨日の今日である。やはりながら、少しばかりの恐怖が残っていた。
 どうしようかなぁ、と家主が悩んでいると……
「ノウマク サラバタタギャテイビャク――」
 がちゃがちゃ、ばんっ!
「いいい、いらっしゃいっ! どうぞ入ってえっっ!!」
 出火原因が不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)、という不可思議な火事を発生させるわけにもいかず、柚紀(ゆずき)は急いで扉を開けた。
「ふふ。ありがとう」
 機嫌よさそうに笑う幽華(ゆうか)を瞳に入れて、柚紀(ゆずき)が唇を噛む。
 ――このアマ。いい性格してやがる……!
 心の中でのみ毒づき、玄関に並ぶ靴を脇にどける柚紀(ゆずき)。
 彼女の気遣いに礼を言って、幽華(ゆうか)が微笑んだ。
「お邪魔します、天笠(あまがさ)さん」

「こちらをお使いください。ご住職」
「感謝いたします。館長」
 図書館へと向かった実明(さねあき)たちが通された部屋は、ちょっとした運動をするのに十分な広さを有していた。元は武道場か何かだったのだろう。
「汚ーい」
「なにここー?」
「気龍寺(きりゅうじ)の僧が杖術などの武術稽古をする際に利用させていただいている場所だよ。屋内の方が人目も避けられるしね」
 双子の不満そうな声に、にこりと笑って実明(さねあき)が応えた。
 どさっ。
「実明(さねあき)殿。密教や神道の古文書をひと通り揃えてきました」
 別行動を取っていた知稔(ちねん)が、古臭い書物を多数抱えて戻ってきた。その背表紙に書かれた文字はどれも、容易には読めない形状をしていた。少なくとも、現代文ではない。
「ありがとう、知稔(ちねん)。さて、何から手をつけたものかな……」
「九字(くじ)! 九字(くじ)教えろー!」
 思案顔になった実明(さねあき)に、阿鬼都(あきと)が詰め寄る。
 鬼沙羅(きさら)は古文書をぱらぱらとめくり、首をかしげている。
「九字(くじ)ですか…… 知稔(ちねん)、あなたは――」
「拙僧は扱えませぬが、印の組み方ぐらいは指導できましょう」
 微笑み、知稔(ちねん)が応えた。
 実明(さねあき)は頷き、古文書の山をあさる。しばらくすると、そのうちの一冊を抜き出して、阿鬼都(あきと)に渡した。
「阿鬼都(あきと)くんには知稔(ちねん)が教える。そして、これが密教の書だよ。九字(くじ)のみでなく、真言の五大明王に関する禁術が記載されているから、知稔(ちねん)で至らぬなら、最悪、こちらを見てくれるかな?」
 ふーん、と古文書を見つめ、それから阿鬼都(あきと)は、知稔(ちねん)を一瞥する。
「つーかさー。知稔(ちねん)って頼りなさそう。だいじょぶ?」
「はっはっはっ! 大役、勤めさせてもらおう。任せよ、阿鬼都(あきと)殿」
 阿鬼都(あきと)の発言に、知稔(ちねん)は怒ることなく、おかしそうに大きく笑う。そうしてから、胸をどんっと強く叩いた。
 その一方で、実明(さねあき)は鬼沙羅(きさら)に視線を向ける。
「さて、鬼沙羅(きさら)くん。君にはこちらを」
 やはり書物の1冊を手に取り、差し出した。
 彼の手におさまっていたのは、神道の教本であった。
「祝詞集? なんか他のより簡単そーだね」
「うん。密教の禁術などと違って、神道の祝詞は現在でも一般的に需要のあるものだからね。こんな風にわかりやすい書物もある」
 そのように説明してから、実明(さねあき)はぱらぱらと頁を繰る。
「この教本の――ここだよ」
「龍神祝詞?」
 頁を繰る手が止まったのは、鬼沙羅(きさら)が口にした通り、龍神祝詞という掲題の箇所であった。
「ああ。水の神である龍神を尊び敬う祝詞――これで、幽華(ゆうか)の不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)に対抗してもらいたい」
「んー。祝詞ってそんなに強力なの? 詳しく知らないんだけど……」
 鬼沙羅(きさら)が小首をかしげて尋ねると、実明(さねあき)はにこりと微笑む。
「そこは強い信心の、いや、願う心の出番だね。術の類はみな、それが肝要だ。強い願いこそが力を生み出し、強い願いこそが想いを遂げる。何を為すにしても純粋に願うことが、願い続けることが大事なのだよ」
 言い切って、彼は苦笑した。
「そのように、先代住職の義父は仰っていた。勿論、鬼流(きりゅう)や天原(あまはら)の民、そして、鬼の力があってこそだけれどね。その点、君たちは鬼だ。資格は充分。ゆえに、あとは懸命に願えばいい。想えばいい。何を願い、何を想うか。その結果として何を為すか。それは、君たち次第だよ」
『……ふーん』
 双子が自身の手を見つめて、呟いた。そして――
「たかあまはらにましまして てんとちにみはたらきをあらわしたまうりゅうじんは…… むぅ、読みづらーい……」
「臨!」
「ああ、違いますぞ。人差し指を伸ばして。そうそう」
 それぞれに修行を始めた。

「ふーん。綺麗にしてるんだ」
 きょろきょろ。
 物珍しそうに部屋の中を眺め、幽華(ゆうか)が言った。
 柚紀(ゆずき)は麦茶をコップにそそぎながら応える。
「そう? 普通だと思うけど――って、あんまりきょろきょろされると恥ずかしいんだけど」
「あ、ごめんなさい。他人の部屋って初めてだから、つい」
 幽華(ゆうか)が慌てた様子で謝った。そうしながらも、やはり物珍しげに視線を巡らしている。ついつい、無意識に目を向けてしまうようである。
 昨日川原で恐怖を振りまいた者と同一人物とは思えない。柚紀(ゆずき)は、そんな感想を抱きながら、テーブルにコップを2つ置く。水滴が側面を流れ落ち、コースターへと吸い込まれていく。その夏らしい様が、外気の暑さを象徴していた。
「えっと、初めてって……?」
「え? ああ。ほら。私、友達いないから。ふふ」
 突然の、幽華(ゆうか)のぼっち宣言だった。
 思わず、柚紀(ゆずき)は沈黙してしまう。
 ごく。
 幽華(ゆうか)がお礼を口にして、麦茶を飲み下した。喉を潤す音だけが部屋を満たす。
 しかし、ずっと口を閉ざしているのも決まりが悪いため、柚紀(ゆずき)は懸命に、否定の言葉を紡ぐこととした。
「いやいや、そんな。木之下さん、結構みんなと仲いいじゃない。神聖事象研究会(しんせいじしょうけんきゅうかい)の人とか」
「ううん。仲いいっていうか、話はするかなってレベルよ。きっと、友人というよりも知人ね」
 再び、柚紀(ゆずき)が沈黙してしまう。
 その一方で、幽華(ゆうか)は心持ち機嫌よさそうに微笑み、机の上のノートパソコンに瞳を向けた。そのディスプレイには、開きっぱなしのウェブページが表示されていた。
「あら。不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)ね」
 ウェブページには、幽華(ゆうか)が呟いたとおり、不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)の呪文が記されていた。
 阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が実明(さねあき)らと出かけているあいだ、柚紀(ゆずき)はウェブページで不可思議な術について勉強することにした。そして、とりあえず、幽華(ゆうか)が使っていた術――不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)について調べていたのだった。
「どう? 使えた?」
 くすくす。
 おかしそうに笑いながら、幽華(ゆうか)が尋ねた。
「……全然ダメ」
「だと思った。天笠(あまがさ)さんって、不動明王(ふどうみょうおう)ってイメージじゃないもの」
 くすくす。
 やはりおかしそうに言葉を紡ぎ、幽華(ゆうか)がパソコンにつながれたマウスに手をつける。そして、ウェブページの検索画面を開いた。
 大祓詞(おおはらえのことば)。キーボードからそう打ち込み、検索を開始する。数秒で4万件ほどのウェブページが検索結果として羅列され、幽華(ゆうか)はそのうちの一番上位にあるページを表示する。
「おおはらえのことば?」
「祝詞のひとつね。天笠(あまがさ)さんは密教の禁術よりも、こういう神道系の祝詞の方がいいかも。なんていうか、まとう空気が明るいもの」
「……?」
 柚紀(ゆずき)が首を傾げる。おそらくは相性の問題ということなのだろうが、まとう空気がどうのと言われても実感が沸かないのが実際だった。ただ、密教の意味不明な言葉と比べると、祝詞は日本語らしい体をとっていたため、とっつきやすそうには思えた。
「あとはそうね。何か得意なこととか好きなことってある?」
 幽華(ゆうか)が尋ねた。突然の質問だった。
 柚紀(ゆずき)は面くらいながらも、考え込み、応える。
「うーん。家事かな? 掃除が特に好きよ」
「なら、箒とか使うと術を使いやすいかも。慣れ親しんだものになら力を込めやすいの。私だったらビー玉とかヨーヨー、メンコ。昔から独りで遊ぶ時に使ってたから」
 有益な情報とともに、再びコメントしづらい発言が為された。柚紀(ゆずき)はみたび、沈黙してしまう。
 一方で、幽華(ゆうか)は特に気にした風もなく、他のウェブページを検索しだした。祝詞集という表題のウェブページを開き、そこをブックマークに入れている。
「ここのページなんかは読み方も丁寧に書いてあるし、現代語訳も載ってる。祝詞のウェブページとしては読みやすいかも。よかったら使って」
「あ、うん。ありがと」
 にこり。
 柚紀(ゆずき)の感謝の言葉に、幽華(ゆうか)は機嫌よさそうに微笑んだ。そして、言葉を続ける。
「昔から伝わる言葉には力があるわ。そして、言葉そのものだけでなく、その意味も大事。でもね。一番大事なのは、強く強く、請い願うこと。天笠(あまがさ)さんが望むことをただただ懸命に想うこと。言葉に備わる力が、それを手助けしてくれる」
「――木之下さんの望むことって、何?」
 思わず、柚紀(ゆずき)が尋ねた。願いが、想いが、大切だというならば、幽華(ゆうか)の炎は何に因るものなのか。
 幽華(ゆうか)が寸の間沈黙する。そうしてから、簡単に呟く。
「鬼という災厄の滅び」
 …………………………………………
 長い沈黙が落ちた。
 すっ。
 幽華(ゆうか)が踵を返して、玄関へと向かう。
「そろそろ帰るわ。ごめんね。邪魔して」
 彼女はにこりと微笑み、すたすたと歩みを進める。その姿は少しばかり寂しそうだった。
 それゆえ、柚紀(ゆずき)は――
「ちょっと待って」
 ぴた。
「お昼まだだったら食べてかない? 簡単に冷やし中華でも作るつもりなんだけど」
 そう言った柚紀(ゆずき)を瞳に映して、幽華(ゆうか)が瞳を細める。
「敵同士よ。私たち」
「木之下さんも、『敵』のはずの私に色々教えてくれたわ。それに――」
 にこり。
 歯をむき出して、元気よく柚紀(ゆずき)が破顔した。
「私は木之下さんのこと、友達と思ってるから」
 その言葉を耳にし、幽華(ゆうか)は目を瞠る。

 ――幽華(ゆうか)ちゃんっていうの? ともだちになろうよ

 かつての記憶が去来した。
 くすくすくす。
「やっぱり天笠(あまがさ)さんなんだ」
「?」
 幽華(ゆうか)の突然の呟きに、柚紀(ゆずき)はきょとんとしている。
 一方で、当の幽華(ゆうか)は嬉しそうに、本当に嬉しそうに、笑った。
「ありがとう。いただくわ」

 ところ変わって龍ヶ崎町(りゅうがさきちょう)の図書館である。阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が修行を始めてから、数時間が経っていた。
「臨! 兵!」
「違いますぞ。そこは指を、こう!」
 知稔(ちねん)が阿鬼都(あきと)に注意した。
「――萬物(よろづのもの)を御支配(みしはい)あらせたみゃっ! ……うぅ、舌かんだゃ」
「おや。大丈夫かい?」
 実明(さねあき)が鬼沙羅(きさら)に心配そうな視線を向けた。
 鬼子たちの進捗具合は共に、芳しくないようである。

 再びところ変わって柚紀(ゆずき)宅である。
「うふふ」
「どうかした? なんかすごく嬉しそう」
「ううん。ただ、おいしいから」
「そ、そう?」
「うん。凄くおいしい」
 ぱくぱく。
 ――何かかわいい
 これ以上ないほど機嫌よさそうに冷やし中華を食べる幽華(ゆうか)を瞳に入れ、柚紀(ゆずき)はそんなことを考えた。
 対立しているはずの二者が囲む食卓であるにもかかわらず、見事なまでに平和な光景であった。

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