第2章 流れを汲む者
願い願い請い願う

 週の初めに木之下幽華(きのしたゆうか)に襲われて時は経ち、本日は金曜日である。ここ四日間、天笠柚紀(あまがさゆずき)は完全に大学をサボタージュしていた。しかし、しばらくはどの講義でも課題が出されることもないはずゆえ、まあいいかな、と彼女は思っている。
 ――お昼休みはウキウキウォッチ♪
 テレビから流れてきたご機嫌な歌声からも分かるとおりに、昼の十二時をまわった頃合のことである。柚紀(ゆずき)は二人分の昼食を用意していた。そして、ピンポーンとインターホンが鳴り響く。
「はいはい。どうぞ」
 がちゃ。
「お邪魔します」
 玄関先に立っていたのは幽華(ゆうか)だった。彼女は軽く微笑み、スイカを一玉持ち上げて見せた。
「ふふ。おみやげ」
「いや、そんな。悪いわよ」
「四日続けてお昼ご馳走になるし、このくらいは気にしないで」
「……そう? まあ、そういうことなら遠慮なく」
 存外素直に受け取り、柚紀(ゆずき)は悪戯っぽく笑う。浴室の洗面器に水を張り、そこにゴロンと寝かせた。
「そろそろ秋だっていうのに、相変わらず暑いわよね」
「そうね。毎年夏が長くなってる気がするわ」
 幽華(ゆうか)はそのように応えつつ、荷物を置き、礼儀正しくひざを折って床に座る。
 一方で、柚紀(ゆずき)は立ったままで、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取った。
 ぴッ。
 小さな電子音に伴って、クーラーから吹き出す冷風が強くなった。
「設定強くしていいの?」
「外から来たばっかだし暑いでしょ? しばらくしたら、弱に戻しといて」
 ニコリと笑み、柚紀(ゆずき)が言った。そうしてから、キビキビとした動作で台所へ向かう。お昼ご飯の準備を再開した。
 その後ろ姿を見送って、幽華(ゆうか)が軽く俯く。
「……ありがと」
 しばらくしてから上げられた彼女の顔は、とても嬉しそうだった。

 双子の鬼、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)の修行の具合は芳しくなかった。
 阿鬼都(あきと)は九字(くじ)の印を覚えきれず、鬼沙羅(きさら)は戦いへのモチベーションが低いためか、祝詞(のりと)を唱えても術の威力が不安定だった。ここ数日、午前中から木之下実明(きのしたさねあき)、白夜知稔(びゃくやちねん)と共に根を詰めてはいるのだが……
「臨(りん)! 兵(びょう)! 闘(とう)! 者(じゃ)!」
「阿鬼都(あきと)殿。お待ちを。指の角度が――」
「あー! もー! そんな細かいとこまでパパっとできるわけないよ!」
 双子の兄が、坊主に対して八つ当たりを始めた。
「大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)す……」
 小さな小さな声で為された詠唱は、元武道場に涼風のごとき爽やかさをもたらした。冷房の代わりには申し分ないが、しかし、それだけだった。
「ふむ。祝詞(のりと)は完璧なんだけどね。何が悪いのかな」
「……じゃん」
「ん? なんだい?」
 ぼそぼそと呟く鬼沙羅(きさら)を、実明(さねあき)が不思議そうに見つめる。
 彼の視線の先で、鬼子が、涙を浮かべた弱々しい顔を上げた。
「さ、さねさねのせいじゃん!」
「え? わ、私のせい……かい?」
「さねさねの笑った顔があの女と似てるから怖いんだもんッ!」
 あの女というのは、幽華(ゆうか)のことらしい。
 彼女の父親が、笑う。
「えーと、そうかな? 似ているかな? あはは」
 馬鹿が居た。
「何ニヤニヤしてるのよ、親ばかぁ! うわーん!」
 双子の妹が、当り散らして泣きわめいた。

 シャク、シャク。
 昼ごはんを食べ終わた柚紀(ゆずき)たちは、幽華(ゆうか)が持参したおみやげのスイカを頬張っていた。小気味のいい音が部屋に響いている。
 そんな中――
「そろそろ鬼子たちは強くなってきた?」
 ここ数日で初めて、幽華(ゆうか)が戦いを示唆するような発言をみせた。
 柚紀(ゆずき)はおもわず肩をびくつかせる。そして、存分に視線を泳がせつつ、口を開く。
「えーと…… どう、かな?」
「くすくす。あんまりなんだ。天笠(あまがさ)さん、正直」
 ぽりぽり。
 頭をかき、柚紀(ゆずき)がため息をつく。そうしてから、幽華(ゆうか)をまっすぐに見た。
「戦うの?」
「いいえ。――滅ぼすの」
 冷たく笑い、幽華(ゆうか)が言い切った。そこには、自身の勝利を疑わない、絶対の自信が見え隠れしていた。
 ここ数日の平和な状況は、執行猶予期間だったのだろう。
 滅びの刻など、急がずともいつでももたらすことができるゆえの。
「……なぜ、鬼を憎むの?」
「あら。あの腰抜けに聞いてるのかと思ってた」
 腰抜けというのは、彼女の父である実明(さねあき)のことだ。
「実明(さねあき)さんは、確かに話そうとしたわ。火曜日にここを訪れたとき」
 柚紀(ゆずき)の言うとおり、木之下実明(きのしたさねあき)は三日前の火曜日にこの部屋を訪れたとき、幽華(ゆうか)の過去を、鬼という幻想に振り回された日々を、話そうとした。
 しかし――
「でも、聞かなかった。貴女以外の口から聞くことじゃないと思ったから」
「……そう」
 柚紀(ゆずき)の言葉を耳にし、幽華(ゆうか)が小さく笑んだ。
 そして、沈黙によってもたらされる長い長い静寂が、部屋を満たす。
 その静けさを破ったのは、幽華(ゆうか)だった。
「天笠(あまがさ)さん。信心深い老人にとって、鬼流の名は穢れなの」
「穢れ?」
「そう。考えてもみて。鬼流(きりゅう)とは、災厄の代名詞ともいえる鬼の末裔。忌むべき存在。誰が好きこのんで関わるの?」
「そ、そんなの――」
 思わず反論しようとする柚紀(ゆずき)を、幽華(ゆうか)は手で制す。
「現代を生きる者は比較的、そういう穢れを許容できる。けれど、神の国日本という時代を生きた信心深い老人たちは違う。穢れに敏感であり、かつ、穢れとの関わりを避けようと苦心する」
「……………」
 全く覚えがないとは言えず、柚紀(ゆずき)は黙り込む。
 父の田舎やご近所に住まうの老人たちは、信心深く神に祈り、恐ろしい怪(あやかし)の話を子供に話して聞かせていた。とりわけ、鬼が住まうとの言い伝えがある場所をおどろおどろしく表現し、幼い柚紀(ゆずき)や他の幼子を恐怖させたものだった。
 それは子供への教訓でありながら、半ば、彼ら自身を律する恐怖の鎖でもあったのだろう。
「ねえ、天笠(あまがさ)さん。子供は大人――老人の影響を受け易いもの。だから……」
 ニコ。
 その先が言葉として紡がれることはなかった。
 しかし、もう十分だった。柚紀(ゆずき)には、幽華の歩んだ子供時代がどのようなものであったか、容易に想像できた。
 ……………………………………ぴッ。
 沈黙のあと、幽華(ゆうか)がクーラーの設定を弱に下げた。
 そうしてから、弱弱しく微笑む。
「鬼さえいなければ、私は鬼流(きりゅう)ではなかった。鬼流(きりゅう)として生きずともよかった。私は、人だった」
「それは……そうかもしれないけど……」
 くすり。
 幽華(ゆうか)がおかしそうに笑う。
 けれど、柚紀(ゆずき)はこれっぽっちも笑えなかった。心が深く沈み、淀んでいた。
 かまわずに、幽華(ゆうか)は更に言葉を紡ぐ。その顔には、笑みが――不自然な笑みが浮かんでいた。
「そして、鬼流(きりゅう)でなければ、鬼の末でなく、穢れを身に宿していなければ、きっと母も――死なずにすんだの」
 どくん。
 ひときわ大きく、心臓の鼓動が響いた。
「………………………………………え?」

「さてと。一度休憩しようか」
『……はーい』
 ばたり。
 間延びした返事をして、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が床に寝転んだ。
 カタ。
「粗茶ですが」
「お。ありがと。知稔(ちねん)」
「ちねちゃん、ありがとー」
 冷えた麦茶を差し出した知稔(ちねん)に、鬼たちはそれぞれ礼を述べた。
 ぐびぐびぐび。
 一気に飲み干す。
『ぷはー。もういっぱーい』
「おぉ、よい飲みっぷりだ」
 こぽこぽ。
 やかんから注がれる茶は、よく冷えていた。
「いやー、夏は麦茶だねー」
「だねー」
「はっはっはっ! まだまだありますからな。どんどん飲むがよい」
 快活に笑い、知稔(ちねん)が言った。
「私ももらおうかな。知稔(ちねん)」
「ええ。今お注ぎしましょう」
 こぽこぽ。
「ありがとう」
 その後も、知稔(ちねん)は細かい世話を色々と焼いた。麦茶が無くなれば新たに手配し、タオルの替えなどを所望されれば、たちどころに用意した。
 その様子をぼーっと眺めつつ、阿鬼都(あきと)が呟く。
「知稔(ちねん)。奥さんみたいだね」
「うんうん。ちねちゃん、さねさねの奥さんぽい」
 鬼沙羅(きさら)も同意した。
「い、いやいや。それは流石に訂正させて頂きたいですぞ」
「はっはっはっ!」
 知稔(ちねん)が疲れた表情を浮かべている一方で、実明(さねあき)はおかしそうに笑った。さほども気にした風ではない。
 そのような実明(さねあき)を瞳に映し、阿鬼都(あきと)が尋ねた。
「ていうかさー。実明(さねあき)の本妻は?」
 知稔(ちねん)は妾、と認識したようだ。
 実明が困ったように微笑む。そして、応える。
「妻は、死にました」
「あ。ごめん」
 素直に阿鬼都(あきと)が謝った。鬼沙羅(きさら)も居心地悪そうにしている。
 一方で、実明(さねあき)は気分を害した風もない。
「なぁに。いいさ。もう六年も前のことだしね」
 そう口にしながらも、彼は瞳を落とし――
 はぁ。
 ため息をついた。そして、独白する。
「もっとも、幽華(ゆうか)にとっては未だ許し得ぬことだろうが……」
 その言葉に疑問を覚え、鬼沙羅(きさら)が首をかしげる。伴って、ぬばたまの髪がふさりと揺れる。
「『許さない』って誰を?」
「鬼流(きりゅう)を拒む人々。我ら、鬼流(きりゅう)自身。そして、鬼」
 そのように端的に応え、実明(さねあき)は遠い目を窓の外へ向ける。
「妻は――幽華(ゆうか)の母、沙優佳(さやか)は、重い病を患っていた。長くもっても半年と言われていた。だから、彼女の死は免れなかった……」
 それだけならばよかった。しかし――
「自宅療養をしていたある日、沙優佳(さやか)の様態が急変して救急車で運ばれた。しかし、近所の病院で受け入れを拒否されてしまった。体制が整っていないと、他の病院に回された。その実態がどのようなものだったのか、正直なところわからない」
 言葉どおりの意味であったのか。それとも、鬼流(きりゅう)の名が――穢れが邪魔をしたのか。確かめる術はない。
 実明(さねあき)が、言葉を続ける。
「そのあと少し離れた病院に運ばれた。けれど、手遅れだった。その病院に搬入され、しばらくして……」
 みーんみーんみーん。
 秋に指しかかろうかという時期に、夏の名残ともいうべき蝉が鳴いていた。
「死に顔が安らかだったのは、せめてもの救いだったよ。その病院の医師は、対応が早ければまだ生きられたかもしれないと言ってはいた。だけど、きっと誰が悪いわけでもない。哀しいけれど、天命だったのだと納得したさ」
 それは諦観だった。どうしようもないことだと、先に進むためには諦めねばならぬのが人生だと、大人は涙を飲んで、共に、運命を憎む気持ちをも呑み込む。
 しかし――
「幽華は……違ったってわけだね」
 ぐびっ。
 麦茶を口に含みながら、阿鬼都(あきと)が実明(さねあき)の言葉を次いだ。
 実明(さねあき)が頷く。
「あの子はもとから鬼流(きりゅう)の血と鬼の血、そして、人に絶望していた。そんな中、『鬼流(きりゅう)であるがゆえに治療を拒否された』と思えてしまう『悲劇』に直面してしまった」
 過去は悲劇だった。けれど、きっと、全てが悪しき想いで満ちていたわけではない。彼女の瞳こそが、彼女の心こそが、最悪を見せていたに過ぎない。
 さわさわ。
 開け放たれた窓から、そよ風が入ってくる。
「それが、あの人の囚われているモノなんだ……」
 鬼沙羅(きさら)が呟いた。
 そんな鬼子を、知稔(ちねん)が見つめる。
「虫がよいかもしれぬ。しかし、お願いする。嬢を憎まないでいただきたい」
「……うん」
 ……………………………………………
 長い沈黙ののち、風の音と蝉の声だけが部屋に響いていた。
 ごくごくごくごくごくっ!
「ぷはぁー」
 阿鬼都(あきと)が手に納まっていた麦茶を一気に飲み干した。
「お、お兄ちゃん……」
「たっぷり休んだし、やるぞ。鬼沙羅(きさら)」
「……でも、わたし」
 暗い顔を浮かべる鬼沙羅(きさら)。
 阿鬼都(あきと)はその頭をくしゃくしゃと撫でた。
「やるしかないよ。僕らが鬼であることは変えようがない。あの女が、幽華(ゆうか)が鬼流(きりゅう)であることも変えようがない。でも――」
「……そうだね。わかってるよ。死ねない」
 こくり。
 双子は顔を見合わせ、真剣な表情で頷いた。

 長い告白が終わった。幽華(ゆうか)はくすりと笑い、柚紀(ゆずき)を見つめる。
「人を憎み、鬼流(きりゅう)の血を憎み、鬼を憎んだ。だから私は、鬼を滅ぼすの」
 柚紀(ゆずき)は寸の間沈黙し、辛そうに顔を顰める。
「――それで、木之下さんはいいの?」
「ええ。それが、私の願い」
 すたっ。
 微笑み、応え、幽華(ゆうか)は立ち上がった。バッグを手にして、肩にかける。
「行きましょう、天笠(あまがさ)さん。鬼の元へ案内して」
 柚紀(ゆずき)は逡巡した。阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)の修行の状況が芳しくないことは聞いていた。
 しかし――
「……わかった」
 頷いた。
 そして、迷いない瞳で――
「でも、私たちは負けない。阿鬼都(あきと)も鬼沙羅(きさら)も、死なせない」
 言い切った。
「ふふ。頑張ってね」
「……そこで笑われるとむかつく」
「あら、ごめんなさい」
 くすくす。
 それでも、幽華(ゆうか)がおかしそうに笑った。
 彼女をますっぐと見つめ、柚紀(ゆずき)は拳を握りしめる。
 ――私が、願うこと……

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