第2章 流れを汲む者
純粋な願いの力

 がちゃり、と扉が開く。
 木之下幽華(きのしたゆうか)が図書館で父、実明(さねあき)の名を出すと、直ぐに部屋へと通された。そこには、麦茶を飲みながら寛いでいる鬼子たちと住職、そして坊主がいた。
 小さくため息をついて、天笠柚紀(あまがさゆずき)が頭を抱えた。
「……あんたら。真面目にやってるのかと思いきや」
 彼女の嘆かわしげな様子に、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が慌てて立ちあがる。
「いや! さっきまで真面目にやってたし、ホントに!」
「柚紀がタイミングわる――ってなんでその人連れてきてるの!?」
 言い訳を連ねていた鬼子たちは、幽華の姿を目にすると、それぞれに身構えた。阿鬼都(あきと)は臨戦態勢に入り、鬼沙羅は涙目になって一歩下がり、逃亡を切望した。
「ふふ。こんにちは」
 にこっと微笑みながら、幽華(ゆうか)が挨拶した。
 しかしそれでも、鬼子たちの警戒が解かれることはない。
 それも当然だろう。今さら愛想よくされたところで、いかほどの信頼が得られるか、当の幽華(ゆうか)も期待などしていないに違いない。
 ざっ。
「幽華(ゆうか)」
 そこで、実明(さねあき)が一歩前に出る。
「……何か用?」
「阿鬼都(あきと)くんと鬼沙羅(きさら)くんは悪さをしているわけではない。を見逃す気は――」
「うるさい! 腰抜けの分際で私に意見するなっ!」
 びくっ。
 幽華(ゆうか)の豹変に、柚紀(ゆずき)と鬼子たちが肩を跳ね上げる。
 一方で、実明(さねあき)と知稔(ちねん)は落ち着いた様子で息をつき、首を振る。いつものことなのか、慣れた様子である。
「き、木之下(きのした)さん……?」
 はっ。
 柚紀(ゆずき)が困惑した表情で声をかけると、幽華(ゆうか)は慌てて笑顔を作った。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
 にこり。
「……………ううん。それより、ここじゃ狭すぎるよね。移動しない?」
「ええ。うちの庭に行きましょう。無駄に広いし、色々壊れても困るのは知稔(ちねん)くらいのものだし」
 柚紀(ゆずき)の言葉に、幽華(ゆうか)がそのように応えた。
 そして、知稔(ちねん)が困るのはいいのか、という突っ込みは一切なく、図書館を出立することとなった。
 みーんみーんみーん。
 蝉が、せわしなく鳴いていた。

 気龍寺(きりゅうじ)には墓参り中の一般の方が何名かいた。しかし、十八時には寺の門を閉めてしまうことを告げると、じきに皆その場をあとにした。
 ちなみに、普段であれば十九時まで門は開いている。本日は特別である。
 寺の庭には松の木が多く植えられていた。また、百日紅や芙蓉などの花も咲き誇っている。池には鯉が泳ぎ、水面に波紋が生じていた。  その光景を瞳に映してから一拍置き、幽華(ゆうか)が尋ねる。
「さて。準備はいい?」
 ぽきぽき。
 阿鬼都(あきと)が指の関節を鳴らしながら頷く。
 鬼沙羅(きさら)はまだ覚悟が決まらないようで、あたふたとしてはいたが、阿鬼都(あきと)と目があうとようやく落ち着いたようだ。ゆっくりと頷く。
「天笠(あまがさ)さんは?」
「少し待って。……実明(さねあき)さん。知稔(ちねん)さん。指輪を」
 声をかけられると、二人は懐に入れていた指輪をそれぞれ柚紀(ゆずき)に渡す。
 柚紀(ゆずき)は阿鬼都(あきと)の宿る指輪を右手の中指に、鬼沙羅(きさら)の宿る指輪を左手の人差し指にはめた。そうしてから、幽華(ゆうか)に瞳を向けた。
「――いいわ。始めましょう」

「オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカ!」
 先手は阿鬼都(あきと)がとった。
 大威徳明王(だいいとくみょうおう)の威を借り、幽華(ゆうか)に向けて力の波を打ち出す。
 しかし――
「オン アロリキャ ソワカ」
 ばんっ!
 幽華(ゆうか)の真言によって簡単に防がれてしまった。不可視の壁が幽華(ゆうか)を護り、阿鬼都(あきと)の打ち出した波はあっさり消え去った。
「ちぇ。こんなじゃダメか……」
「――高天原(たかあまはら) 天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞(ふとのりと) 持(も)ちかが呑(の)むでむ 祓(はら)ひ賜(たま)ひ清(きよ)め賜(たま)ふ」
 続けて鬼沙羅(きさら)が最上祓(さいじょうのはらい)を奏上すると、光が幽華(ゆうか)に向けて集う。光は力になりて、彼女を襲うが……
「祓(はら)ひ給(たま)へ 清(きよ)め給(たま)へ 神(かむ)ながら 守(まも)り給(たま)へ 幸(さきは)へ給(たま)へ」
 すっ。
 幽華(ゆうか)が略拝詞(りゃくはいし)を読み上げると、静かに光は消えていった。
 涼しい顔で双子の攻撃を防ぐ幽華(ゆうか)。彼女の顔には微笑みすらあった。
「阿鬼都(あきと)! 鬼沙羅(きさら)! 今のをもう一回!」
 叫んだのは柚紀(ゆずき)だ。
 双子は戸惑い、声を漏らす。
「え? でも」
「防がれたばっかだよ?」
「いいから!」
 柚紀(ゆずき)が構わずに促す。
 意味が分からないながらも、双子は術に意識を集中する。
「オン シュチリ キャラロハ――」
「高天原(たかまがはら) 天津祝詞(あまつのりと)の――」
「幸魂(さきみたま) 奇魂(くしみたま) 守(まも)り給(たま)へ 幸(さきは)へ給(たま)へ」
 双子の詠唱に重ねて、柚紀が祝詞(のりと)を奏上した。
 すると――
 ぴかあぁあっ!
 彼女の左右の手に在る指輪へと光が宿り、結果として、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)の体に力が満ちた。そして、彼らの放つ力に輝きが相乗する。
「――ソワカ!」
「――幸(さきは)へ給(たま)へ!」
 先ほどよりも強い力の波が幽華(ゆうか)に押し寄せた。その結果、彼女の顔から笑みが消える。
 幽華(ゆうか)は、懐からビー玉を数個取り出し、力を込めて放つ。
 しかし――
 ばきぃ!
 その全てが双子の放った力の犠牲となり、砕け散った。
「くっ!」
 ばんっ!
 力がそのまま幽華(ゆうか)を飲み込んだ。
 爆音が響き、土煙が彼女の立っている辺りを覆う。
「嬢に……当てた……」
「柚紀(ゆずき)くんの――天原(あまはら)の民の力とあの指輪の生み出すリンクが、阿鬼都(あきと)くんと鬼沙羅(きさら)くんの力を増幅したようだね。これまで試したことがあるわけではないようだから、思いつきによる偶然の産物なのだろうが――やるね」
 知稔(ちねん)の感嘆と実明(さねあき)のコメントが入る間にも、阿鬼都(あきと)が動く。
「臨(りん)!」
 鬼子が、ゆっくりとした丁寧な動きで印を組んだ。練習を重ねた結果、印を組む際に速さを求めることには無理があると分かったためだった。
 阿鬼都(あきと)がそのように緊張を解かない一方で、柚紀(ゆずき)と鬼沙羅(きさら)はぼうっと呆けて、弛緩している。先ほどの一撃が決まったことで気が抜けていた。
 しかし――
 ざっ。
 土煙の中から足音が聞こえ、二人は身を硬くする。
「兵(びょう)!」
 阿鬼都(あきと)の声が響く。
 そんな中で、幽華(ゆうか)が笑みを消した表情を携え、土煙の中から姿を現した。そして――
「ノウマク サラバタタ」
 ――不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)!?
 幽華(ゆうか)の詠唱を耳にし、鬼沙羅(きさら)が反射的に手を合わせる。
 ぱぁん!
「高天原(たかあまはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は――」
 幼く甲高い声で、龍神祝詞(りゅうじんのりと)の奏上を始めた。
 そして柚紀(ゆずき)もまた――
「高天原(たかあまはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は 大宇宙(だいうちゅう)根源(こんげん)の御祖(みおや)の神(かみ)にして一切(いっさい)を産(う)み一切(いっさい)を育(そだ)て――」
 鬼沙羅(きさら)の奏上にかぶせるように、やはり奏上を始めた。
 やがて、二人の声がぴったりと重なる。
『龍王神(りゅうおうじん)なるを尊(とうと)み敬(うやま)ひて真(まこと)の六根(むね)一筋(ひとすじ)に御仕(みつか)え申(まを)すことの由(よし)を受引(うけひ)き給(たま)ひて愚(おろ)かなる心(こころ)の数々を戒(いまし)め給(たま)ひて――』
 しかし、彼女たちが龍神(りゅうじん)への奏上を終える前に、幽華(ゆうか)の炎が完成する。
「不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)!」
 ぼおぉおっ!
 先日に川原で放たれたものよりも、いきおいのある炎が燃え上がった。それらが凄まじい速度で、柚紀(ゆずき)を避けて、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)だけに襲い掛かかる。
 しかし――
 ぐぐぐ。
「っ!? ……まだ龍神祝詞(りゅうじんのりと)は完成していないのに」
 幽華(ゆうか)が驚愕の声を漏らした。
 彼女の視線の先では、炎が勢いをそがれ、不可視の壁に押し戻されていた。炎と水の相性の問題があろうとも、幽華(ゆうか)の有す強い力であれば、水の妨げを押し切ることは充分に可能なはずだった。
 にもかかわらず、力は均衡している。
『祈願(こひねがい)奉(たてまつ)ることの由(よし)をきこしめして 六根(むね)の内(うち)に念(ねんじ)じ申(まを)す大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)すっ!』
 さあぁあっ!
 流水の如き音が響き、それにともなって、不動明王の炎が消え去った。
 その光景を瞳に映し、幽華(ゆうか)は小さく笑む。
 にやり。
 ――さすがは鬼、そして、天原(あまはら)の民といったところか
「在(ざい)!」
 その時、阿鬼都(あきと)がようやく八字目の印を切った。九字(くじ)の完成はもう直ぐだった。
 しかし、鬼流(きりゅう)が許さない。
 ばあぁあんっっっ!!!
 盛大な物音が響き、強風が庭全体を襲った。木々はぎぎぎと軋み、草花は総じて倒れ伏した。そして、か弱き人と幼き鬼子もまた、地面に倒れてしまった。
 阿鬼都(あきと)は、ぐっと息を詰まらせてしまう。その結果、詠唱と印が途切れた。
「く、くっそー。あとちょっとだったのに」
「……うぅ。今のは?」
 九字(くじ)の完成を途中で止められ、阿鬼都(あきと)がくやしそうにぼやいた。
 そして鬼沙羅(きさら)は、衝撃波を放った幽華(ゆうか)に瞳を向けた。彼女の手には、長方形の紙片が収まっていた。
 柚紀(ゆずき)は、幽華(ゆうか)が手にしているものを目にして、彼女との会話を思い出した。
 ――慣れ親しんだものになら力を込めやすいの。私だったらビー玉とか……
「メンコ…… 今のってもしかして――」
「そう。これを地面にたたきつけただけ。祝詞(のりと)や密教の呪法と違って、詠唱なんて必要ないの。便利でしょ?」
 にこり。
 微笑みながら幽華(ゆうか)は、殺傷力は大したことないのが玉に瑕だけどね、と呟いた。
 そうであったとしても、今の衝撃による影響は大きかった。阿鬼都(あきと)の渾身の九字は無に帰し、柚紀(ゆずき)と鬼沙羅(きさら)もまた態勢を崩されている。  その上――
「臨(りん) 兵(びょう) 闘(とう) 者(じゃ)――」
 ざっ!
 幽華(ゆうか)が間髪入れず、九字(くじ)を切り始めた。阿鬼都(あきと)のそれとは違い、印を切る手に迷いは一切ない。術が完成するのにそう時間は必要ないだろう。
 ――まずい!
 立ち上がりはしたが、阿鬼都(あきと)の足元はおぼつかない。先の暴風を受けて身体を強く打ったのだろう。
 鬼沙羅(きさら)もまた足を痛めたようで、いまだ立ち上がれず右足首を押さえている。
 そのような状況において――
 だっ!
 最初に駆け出したのは柚紀(ゆずき)だった。
「列(れつ) 在(ざい)」
 順調に印を切っていた幽華(ゆうか)。その両の腕は――
 がっ!
 力強く掴まれた。鬼子の邪力が宿った腕によって。
「――臨(りん)!」
 その光景を瞳に映してから、阿鬼都(あきと)は再び九字(くじ)を切り始めた。
「ゆ、柚紀(ゆずき)ぃ……」
 鬼沙羅(きさら)も涙の浮かぶ瞳をぎゅっと閉じ、懸命に祈り始めた。柚紀(ゆずき)へと――指輪へと力を送り込んでいるのかもしれない。
 そんな彼らを瞳に映し、幽華(ゆうか)が口元を歪める。
「ふふふ。往生際の悪い鬼たちね」
 そう口にして、柚紀(ゆずき)の腕を振り払おうとした。
 しかし、柚紀(ゆずき)は離れない。懸命に腕に力を込め、耐える。そして、幽華(ゆうか)を睨みつける。
「鬼なんかじゃない!」
「……?」
「あの子たちは『鬼』なんかじゃない!」
 くすり。
「今さら何の冗談? 信憑性のなさすぎる嘘は滑稽――」
 嘲笑を受けても、柚紀(ゆずき)の瞳から意志の光は揺るがない。
「あの子たちは、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)!」
「……何を言って」
 天原(あまはら)の民の言葉に、鬼流(きりゅう)は瞳を細めて言葉を吐き出す。
 構わず、柚紀(ゆずき)が続ける。
「阿鬼都(あきと)は悪戯好きで皮肉屋で、凄く憎たらしいけど、でも、妹想いの優しいお兄ちゃん! サッカーが好きな普通の男の子なの!」
「闘(とう)!」
 3字目の印を切りながら、阿鬼都(あきと)が小さく笑う。
「鬼沙羅(きさら)もやっぱり悪戯好きでわがままで憎たらしい! だけど、髪が乱れるのを嫌ったり、料理が好きだったり、そんな可愛らしい、普通の女の子よ!」
「柚紀(ゆずき)……」
 指輪に力を送り込みながら、鬼沙羅(きさら)が涙ぐむ。
「二人とも、辛い気持ちに負けそうだった私を元気付けてくれた、大切な子たちなの! 人だとか、鬼だとか、そんなの関係ない! あの子たちは、あの子たちよっ!」
 ……………ぎりっ!
 ――戯言をっ!

 ――わたし、あの子のうち『きりゅう』だから遊ぶなっておじいちゃんにいわれた
 ――ぼくもいわれた。『きりゅう』はばけものなんだって。こえー
 ――うわ。こっち見てるぜ。見んなよ、ばけもの!

 ――聞いたか? 沙優佳(さやか)さん、病院をたらいまわしにされたって
 ――ああ。やっぱあれかね。病院なんかは今でもしつこく穢れを嫌うし、鬼流(きりゅう)だから拒否されたってことなのかね
 ――おい、やめろよ! 幽華(ゆうか)ちゃんに聞かれたらどうする! 多感な年頃なんだぞ!

 かつてあったこと。その辛さをかみ締め、幽華(ゆうか)は腕に力を込める。
「鬼であることが、そして、鬼流であることが、それがどんなことかも知らないくせに!」
 怒気の、そして悲哀の満ちた叫びだった。
 その叫びを、柚紀(ゆずき)はをまっすぐな瞳で受け止める。
「知らないわよっ! そんなことっ! あいにく私は、自分が天原(あまはら)の民っていうやつだってのも知らなかったっ! 何も知らなかったっ!」
「だからあなたは!」
 ――能天気でいられるんだっ!
 幽華(ゆうか)がそう叫ぼうとした。憧憬を瞳の奥に、悲哀を心内に秘めて……
 しかし――
「だから私は! あなたが鬼流(きりゅう)だからって、そんなことどうだっていいっ!」
「……………え……………」
 鬼の末は目を瞠り、声をこぼした。

 ――な、なにすんだよぉ。柚紀(ゆずき)。そいつばけものなんだぞ!
 ――ばっかじゃないの! さっさと消えないとまたぶんなぐるからねっっ!!

「穢れだとか鬼流(きりゅう)だとか、そんな言葉にどんな意味があるのよ! 私はあなたが木之下幽華(きのしたゆうか)っていう、優しくて、いつも笑顔で、人当たりがよくて、そのくせ、いつだってどこか本心を隠している、辛い気持ちを抱えたただの女の子だってことを知ってる!」
 幽華(ゆうか)の腕から力が抜けていく。
 柚紀(ゆずき)は彼女の腕を離す。

 ――あなた、あんまり見ないかおだね。わたし、柚紀(ゆずき)。えっと、名前、聞いていい?
 ――ゆ、幽華(ゆうか)

「辛いことがあるならいつだって愚痴ってくれればいい! 泣きたいんだったらいつだって私の手をひっぱってくれればいい!」
 ぎゅっ。
 胸の前で両手を強く組み、幽華(ゆうか)は顔を歪める。『笑顔』が消える。

 ――幽華(ゆうか)ちゃんっていうの?

「鬼だとか、鬼流(きりゅう)だとか、そんなことに囚われないで。あなたはあなた。私は、私の料理を嬉しそうに食べてくれたあなたが好き。木之下幽華(きのしたゆうか)という、可愛らしい私の友達が――」
 下唇を噛み、幽華(ゆうか)がうつむく。

 ――ともだちになろうよ

「大好き」

 ばんっ!
 幽華(ゆうか)の腕のひとふりで、柚紀(ゆずき)が弾き飛ばされた。
「柚紀(ゆずき)っ!」
「在(ざい)!」
 鬼沙羅(きさら)が心配そうに叫び、阿鬼都(あきと)が焦りの交じる八字目を切る。
 実明(さねあき)と知稔(ちねん)は急ぎ、倒れる柚紀(ゆずき)の元へ向かう。
 そして、幽華(ゆうか)は――
「臨(りん) 兵(びょう) 闘(とう) 者(じゃ) 皆(かい) 陣(じん) 列(れつ) 在(ざい)」
 素早く九字(くじ)を切る。
 そして――
『前(ぜん)!』
 阿鬼都(あきと)と幽華(ゆうか)の口から、同時に力強い言葉が吐き出された。
 強い輝きが双方から放たれ、その中間地点にて相まみえる。輝きは双方引かず、せめぎ合いを始める――はずだった。
 ぱあぁんっ!
 しかし、片方の光が四散した。力なく消え去った。
 その光は――
「幽華(ゆうか)の九字(くじ)が、競り負けた!?」
 実明(さねあき)の叫びを耳にいれながら、幽華は優しく微笑んでいた。自己を守るでもなく、他者を蔑むでもなく、ただただ、笑っていた。
 ――ああ、そうか

 ――幽華(ゆうか)。いいの? お友達になれそうな子がいたんでしょ?
 ――ううん。いいの。私といっしょだと、あの子も『きりゅう』だと思われちゃう。だから、いいの
 ――それでいいの? それがあなたの願いなのね?
 ――うん
 ――そっか。なら何も言わない
 ――お母さん……
 ――ねえ、幽華(ゆうか)。どんな力も純粋なものよ。鬼流(きりゅう)も、天原(あまはら)の民も、そして、鬼(おに)でさえも
 ――みんな、純粋?
 ――そう。それゆえに、力はあなたの願うことだけを為してくれる。だからね。お願いよ

 ――いつでも優しい願いを持っていてね

 くすり。
 ――これが今の私の――木之下幽華(きのしたゆうか)の願いなんだ
 少女は、ゆっくりと瞳を閉じた。

 ぴんっ。
「いたっ」
 幽華(ゆうか)は強い衝撃に身を備えていた。しかし、そんな彼女を襲ったのはごくごく弱い衝撃だった。おでこに軽い痛みが――でこぴんのような痛みが訪れただけだった。
「……………?」
 おでこを押さえ、幽華(ゆうか)は眉をひそめる。
 一方で、実明(さねあき)と、彼に支えられ身を起こしている柚紀(ゆずき)、そして知稔(ちねん)、鬼沙羅(きさら)がぽかんとして呆けている。
「じょ、嬢。ご無事――ですな」
「え? よかったけど……何事?」
「お兄ちゃん、また印を間違ったの?」
 誰もが戸惑っている中で、術を放った阿鬼都(あきと)がゆっくりとした足取りでやってきた。唇を尖らし、少しばかり不機嫌そうである。しかし、もはや戦う意思はないようだった。
「間違ってないよ」
 まず、鬼沙羅(きさら)の発言をきっちり否定してから、彼は幽華(ゆうか)を睨みつける。そして――
「お前のことはむかついてるし、この間のお礼もしなくちゃいけないと思ってる。でも、お前――いや、幽華(ゆうか)は、柚紀(ゆずき)の友達なんだろ? 鬼流(きりゅう)として僕らを襲ったお前は嫌いだ。でも、柚紀(ゆずき)の友達の幽華(ゆうか)まで嫌いなわけじゃない。なら、傷つけたくなんてない。それが僕の――願いだ」
 阿鬼都(あきと)はそうとだけ口にし、べーっと舌を出して挑発してから柚紀(ゆずき)の方へと駆け寄った。
 その様子をぼーっと見つめていた幽華(ゆうか)は――
「ひっ」
 突然しゃくりあげた。
 鬼の末がただの少女と成り、その心が軽くなる。
「わあぁあっ! うわああぁああっ!」
 泣き叫ぶ幽華(ゆうか)。
 その様子を瞳に映して、柚紀(ゆずき)が微笑む。
 ふらふら。
 彼女はおぼつかない足取りで友へと歩み寄り、その手をぎゅっと握った。
「明日、またうちに来てよ。私と木之下(きのした)さんと、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)。みんなでご飯を食べよう。鬼でも天原(あまはら)の民でも、鬼流(きりゅう)でもない。私たちみんなで」
 そう口にして、柚紀(ゆずき)が幽華(ゆうか)を抱きしめる。
 幼子のように、ただの子供のように、しゃくりあげて泣く少女は、装いなく、偽りなく、言葉を絞り出す。
「ひっ! う、うんっ、行くよっ! 必ず、行くからっ!」
「うん。約束ね」
 にこり。
 微笑んだ柚紀(ゆずき)。
 幽華(ゆうか)は更に泣き出し、友に強く強く抱きついた。

 ――あの子が、幽華(ゆうか)が大変な時は、天笠柚紀(あまがさゆずき)ちゃんを頼ってみて。きっとどうにかしてくれると思うわ

 実明(さねあき)は、妻が病床の中で微笑みながら紡いだ言葉を思い出していた。
 ――私はあの言葉を、天笠(あまがさ)家の、天原(あまはら)の民の力を借りろ、と。そういう意味だと解釈した。けれど……
 自嘲し、実明(さねあき)は目頭を押さえる
 ――あの言葉はそのままの意味だったのか。何のレッテルもない、ただ彼女として、柚紀(ゆずき)くんが幽華(ゆうか)を救ってくれるだろう、と……
 肩書きも力も関係ない。人はただ人として、人を救える。
 ――やれやれ。これだから私は、鬼流(きりゅう)としても、そして、人としても、沙優佳(さやか)には到底敵わない。幽華(ゆうか)の『腰抜け』も、いつ撤回して貰えるものかな
 実明(さねあき)が深くため息をついた。その瞳には、しかし、ただ喜びの光だけが宿っていた。

 気龍寺(きりゅうじ)――かつて鬼の末裔と蔑まれた、鬼流(きりゅう)の集う寺。
 しかし、そのような呪縛を現代においても背負っているものは――もういない。
 時は平成。この国には――この町には、平和ボケした人々が似合っている。

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