ある土曜日の午後。柔らかい陽射しが全身を包み、爽やかな風が頬を悪戯に撫でていく。誰もが出かけたくなるような天候に表情を緩めながら、ひとりの少女が道を歩いている。
すたすたすた。
少女の長く伸びた黒髪は大きなリボンでまとめられ、背中をさらりと流れていた。そして、その背を含め全体的に華奢な身体は、綺麗な空色のワンピースに包まれている。
ふんふふんふふーん♪
彼女は機嫌よさそうにメロディを口ずさみ、軽快な足取りで先を行く。
すたすたすた。
その少女のあとを少し遅れて坊主が控えている。僧服をきっちりと着込み、笠で坊主頭を隠している。手にしている僧杖がじゃらじゃらとうるさい。
坊主――白夜知念(びゃくやちねん)は、先を行く少女の様子を目にして頬を緩め、口を開く。
「ご機嫌ですな、嬢」
にこり。
声をかけられた少女――木之下幽華(きのしたゆうか)は微笑み、歩みを止めずに振り返って応える。
「当然でしょ、知稔(ちねん)。天笠(あまがさ)さんのおうちにお友達として行くのだもの」
「おや。本日に限らず、今週はいりびたっていたではありませぬか」
知稔(ちねん)が切り返した。
ちっちっちっ。
幽華(ゆうか)が指を振り振り、舌を打つ。
「分かっていないわね、知稔(ちねん)。火曜からこっち、私達は敵同士として対していた。けれど、今日は違うわ。間違いなくお友達同士として対するの。大事なのはそこじゃない」
誇らしげに胸を張る幽華(ゆうか)。
知稔(ちねん)は苦笑しつつも――
「左様でしたな。拙僧の認識が甘く、失礼いたしました」
調子を合わせた。
「まったくよ。ふふ」
くすくす。
そのように機嫌よさそうに微笑み、しかし、幽華(ゆうか)は突然眉をひそめ、ぴたりと歩みを止める。
「っと。嬢?」
「あそこのコンビニでプリン五個買ってきて」
「はい?」
「手土産よ。行ってこい」
にこりと笑い、少女が言い切った。
――ふぅ。相変わらずの内弁慶ですなぁ
小さく息をつき、知稔(ちねん)は苦笑した。そうしてから、承知いたしました、と快活に応えてコンビニへと向けて駆け出す。じゃらじゃらと僧杖をうるさく響かせ、急ぐ。
それを見送り、幽華(ゆうか)は瞳を細めた。
「で? そちらはどなた?」
低く抑えた声を、小路の奥へとぶつける。
すると、その小路から巨躯の男が現れた。がっちりとした体系に加え、金色の髪が逆立った頭。それでいて身を包むのは古風な着物である。その風体は、異様に目だった。
「名乗るほどのもんじゃねえよ。ただ、あんたに見覚えがあったんで探ってただけさ」
「あら。古いナンパ術ね。さすが鬼とでも褒めておこうかしら」
幽華(ゆうか)の言葉に男が瞠目する。
「驚いたな。見た目だけでなく、俺の正体を見破るだけのその力――いや、それでも人違いなのは疑いようがねえか。あれから何百年と経っている。いくら天原(あまはら)の民とて、生きていることはねえはずだ」
「? よくは分からないけれど、人違いだというのならば去りなさい。悪さをしない鬼を調伏したりはしません」
にこり。
微笑み、幽華(ゆうか)がビー玉をかまえる。
先のように口にしながらも、彼女は少しばかりの殺気を発した。
「へっ。怖い怖い。いいぜ。俺も用事があるからな。無駄なことをしてる場合じゃねえんだ。じゃあな」
男は機嫌よさそうに笑い、それからきびすを返した。小路の奥へと向かい、そのまま姿を消した。
ふぅ。
数十秒後、幽華(ゆうか)はひと息つき、ようやく構えを解いた。
「――もう一人も消えたか。邪悪な意思は感じなかったし、とりあえずは捨て置いて大丈夫かな……」
そのように独白し、微笑む。
くすり。
――私が鬼を捨て置く、か。変なの
くすくす。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。入って入って。知稔(ちねん)さんも」
「失礼いたす」
幽華(ゆうか)、知稔(ちねん)ともに、家主の天笠柚紀(あまがさゆずき)に招き入れられてアパートメントの一室に足を踏み入れる。
玄関からまっすぐ進むと綺麗に片付けられた部屋に至った。そこでは、双生の鬼子がぐだぐだと寝転んでいる。
「いらっしゃーい」
「汚いとこだけどごゆっくりどーぞー」
ごろごろごろごろ。
床を転がりながら、双子の鬼――阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が言った。
「こら! 阿鬼都(あきと)! 鬼沙羅(きさら)! 行儀悪い!」
柚紀(ゆずき)が叱咤した。
すると、二人はしぶしぶと起き上がり、床にぺたりと座り込む。
そんな二名を瞳に映し、知稔(ちねん)が微笑んだ。
「ご機嫌いかがかな? 阿鬼都(あきと)殿、鬼沙羅(きさら)殿」
「上々だよー」
「命の危険がない平和な日常。素晴らしいよねー」
平和ボケした表情でのんきに言葉を紡ぐ二者。
彼らを瞳に入れ、幽華(ゆうか)がおかしそうに瞳を細めた。
「あら。あなたがたが何か悪さをするようであれば、今度は容赦なく調伏する気ではあるわよ?」
びくっ!
彼女の言葉に、鬼沙羅(きさら)が肩をはねあげて震えあがる。駆け出して、柚紀(ゆずき)の背に隠れた。
「ちょ、ちょっと木之下さん。あんまり怖がらせないでよ」
「ふふ。ごめんなさい。つい」
幽華(ゆうか)がおかしそうに笑う。
一方、妹とは異なり、兄は挑戦的に年上の少女を睨む。その表情は恨み妬みからくるものでは決してなく、どちらかといえば楽しげであった。
「僕はそういう展開は大歓迎だよ。昨日のアレだと、幽華(ゆうか)の九字(くじ)は全力じゃなかったみたいだし、一度本気でやって負かしたいね」
「こら! 阿鬼都(あきと)! そういう物騒なこと言わない!」
「はーい」
柚紀(ゆずき)に注意されて、素直に返事をする阿鬼都(あきと)。しかし、彼の瞳はまだ幽華(ゆうか)にそそがれていた。命を賭すかはともかくとして、勝負の白黒をつけたいという気持ちは消えていないようだ。
――まったく……
柚紀(ゆずき)が呆れたように息をついた。
一方で、幽華(ゆうか)はおかしそうに微笑む。そして、柚紀(ゆずき)の背に隠れて怯えている鬼沙羅(きさら)に、瞳を向ける。手を合わせて、申し訳なさそうにまなじりを下げた。
「ごめんね、鬼沙羅(きさら)ちゃん。プリン買ってきたから機嫌直して。ほら、知稔(ちねん)」
「こちら、お納めください。来る途中で贖って参りました」
知稔(ちねん)が手にしていた袋を開いてプリンを手に取り、鬼沙羅(きさら)に見せる。
それを目にすると、鬼沙羅(きさら)はゲンキンにも満面の笑みを浮かべた。
「わー、ありがとー!」
「悪いわね。昨日もスイカ貰ったのに」
「ううん。気にしないで」
にこり。
ぴんぽーん。
そこでインターホンが鳴り響いた。
「あ。きっと健太(けんた)だ」
そう口にし、阿鬼都(あきと)が玄関へと急ぐ。
「健太?」
「ああ。お隣に住んでる長谷部(はせべ)健太くんよ。阿鬼都(あきと)とサッカーする約束が――ってどうしよ。そういえば私、夕食の用意しないといけないからついていけないわ」
阿鬼都(あきと)が健太と遊ぶためには、誰かが指輪を持って引率しなくてはいけない。
そのような事情を察して、幽華(ゆうか)が打開策を提示する。
「鬼子――阿鬼都(あきと)くんが自分で指輪を持てばいいんじゃないの?」
「あ、そっか。……い、いやでも、さすがに子供だけで行かせるのは不安が」
一度は納得しかけた柚紀(ゆずき)であったが、直ぐに常識的な思考と共にうなる。脳を酷使するが、よい代替案は浮かばない。
すたすた。
「別に、僕は健太と二人だけでいいけど?」
玄関口から戻ってきた阿鬼都(あきと)は、部屋の片隅に転がっていたサッカーボールを手に取りつつ、言った。
しかし、柚紀(ゆずき)は渋い顔を見せる。
「世の中、物騒なのよ? この辺で事件なんてそうそうないとはいえ……」
阿鬼都(あきと)が――鬼が物騒な事件にまきこまれたとして、寧ろその事件の犯人こそが危ない目にあいそうではあるが、それでも、一概に安心できはしない。どんなに力ある存在であろうと、見た目はただの子供だ。心配してしまうのも仕方がない。
考え込んでいる柚紀(ゆずき)を瞳に映すと、阿鬼都(あきと)は小さく息をついて――
「おっけー。じゃあ、幽華(ゆうか)についてきてもらうよ」
『え?』
柚紀(ゆずき)と幽華(ゆうか)の声が重なった。予想外というように、目を瞠っている。
彼女たちの様子など気にもせず、阿鬼都(あきと)は出かける準備を進めながら、知稔(ちねん)へと視線を移す。
「知稔(ちねん)も来なよ。二人とも、夕飯できるまで暇だろ?」
「拙僧は構いませぬが……」
知稔(ちねん)が快諾する一方で、幽華(ゆうか)は思い悩んでいた。サッカーなどに行かず、できれば、友と――柚紀(ゆずき)と楽しいひとときを過ごしたいところであった。
しかし――
「まあ、友達のいない幽華(ゆうか)に団体競技は荷が重いかもしれないけどねー。そんなら無理には誘わないから正直に言いなよ」
「い、行くわ!」
阿鬼都(あきと)の憎まれ口を耳にして、彼女は思わず叫んだ。
――はは。木之下さん、意外と負けず嫌い
柚紀(ゆずき)が、知稔から受け取ったプリントを冷蔵庫にしまいつつ、苦笑した。
彼女の後ろをちょろちょろとついて回っていた鬼沙羅(きさら)は、ぴしっと手を上げて、
「わたしは柚紀(ゆずき)と一緒にお夕飯つくってるね」
言った。
阿鬼都(あきと)はサッカーに熱を入れ、鬼沙羅(きさら)は料理に心血を注ぐ。双子といえど、男児と女児。趣味にも違いは出るようだ。
兄がサッカーボールを抱えて、さっさと玄関へ向かう。
「じゃー、行こうよ。幽華(ゆうか)。知稔(ちねん)」
たったったっ。がちゃ。
「行ってきまーす。じゃーなー、柚紀(ゆずき)、鬼沙羅(きさら)」
玄関を勢いよく開け放ち、阿鬼都(あきと)が外へと飛び出した。その際に健太の顔が見えたが、挨拶をしようとする彼を、鬼子が強引に手を引いて連れて行った。健太としては、少々不満だったことだろう。
それはともかくとして、部屋に残った者がはっと何かに気付いて玄関口へと急ぐ。
「ちょ、ちょっと、阿鬼都(あきと)! 指輪! ってもう行っちゃったし。……まったく。ねえ、木之下さん、持ってってくれる?」
走り去った阿鬼都(あきと)へと呆れた視線を送り、それから柚紀(ゆずき)は、部屋の内に戻る。そして、しまっていた指輪を手にとって、やはり同じ場所にしまっていた巾着袋の中に入れる。それを幽華(ゆうか)へ差し出す。
しかし、頼まれた幽華(ゆうか)は、何やら思案顔で佇んでいた。走り去った阿鬼都(あきと)、そして、鬼沙羅(きさら)を交互に見つめ、胸を押さえている。
知稔(ちねん)がその様子に疑問を覚えて、尋ねる。
「嬢? いかがいたした?」
「え? あ、いや、なんでもないわ」
幽華(ゆうか)が慌てた様子で応え、それから柚紀(ゆずき)に向き直る。笑顔で手を差し出し――
「任せて。……ゆ……えっと、天笠(あまがさ)さん」
「? うん。お願い。あ、それから、二時間くらいで帰ってきてね」
「ええ。了解」
にこりと笑い合う二者。
彼女達を瞳に映し、知稔(ちねん)だけは幽華(ゆうか)の心内を察して苦笑した。
幽華(ゆうか)、知稔(ちねん)、そして健太(けんた)は、道中で初対面の挨拶を軽く済ませていた。
しかし、サッカーをするために川原に着いた三者は改めて向き合い、親睦を深める。
「今日はよろしくね。健太くん」
「拙僧も、よろしくお頼み申す。サッカーに関しては素人ゆえ、ご迷惑をおかけするであろうが……」
「いえ、ぼくこそよろしくお願いします。それから、ぼくもしろうと同然ですから」
それぞれ丁寧に頭を下げつつ、幽華(ゆうか)と知稔(ちねん)、そして、健太(けんた)が言葉を交わした。
彼らの様子を横目で見つつ、阿鬼都(あきと)が頬を膨らませる。
「ほらほら、そこー。かたっくるしい話してないでさー。とっととサッカーはじめようよー」
「あきと。あいさつは大事だよ。サッカーの試合だって、さいしょにせんしゅ同士であいさつするんだからね」
不満顔で騒ぎ立てた阿鬼都(あきと)に、健太が注意した。
一応、阿鬼都(あきと)の方が年上ではあるのだが、あまりそういう風に見えない。
「そうですぞ、阿鬼都(あきと)殿。サッカーに限らず、スポーツにて肝要であるのは健全なる精神。挨拶などは基本中の基本」
「……知稔(ちねん)。あなた、スポーツ観戦とか好きだっけ?」
何やら恍惚とした表情で語りだした知稔(ちねん)に呆れた視線を向け、幽華(ゆうか)が尋ねた。
知稔(ちねん)は照れた様子で頭をかく。
「実は拙僧は昔、野球少年でありましてな」
『うわ。似合わね』
遠慮など一切なく言い放ったのは、阿鬼都(あきと)と幽華(ゆうか)だ。
健太だけはそんな二名を瞳に映し、苦笑している。
「嬢も阿鬼都(あきと)殿も、あんまりなお言葉……」
「はいはい。で? 知稔(ちねん)は素人みたいだけど、幽華(ゆうか)のサッカー熟練度はどんな感じさ?」
むせび泣く知稔(ちねん)を適当にあしらい、阿鬼都(あきと)が尋ねる。
それを受け、幽華(ゆうか)が得意そうな顔になる。腰に手を当てて、どこか自慢げだ。
「ふふ。こう見えて私はサッカー歴十年。ボールさばきには自信があるわ」
「ええ? す、すごいです、幽華(ゆうか)さん!」
素直に感心したのは健太(けんた)だけだ。
他二名は微妙な表情を浮かべている。
「どーせ、リフティング専門だろ?」
「見栄を張るのはみっともないですぞ、嬢」
阿鬼都(あきと)と知稔(ちねん)は、ため息混じりにそんなことを言った。
にこり。
一転、幽華(ゆうか)はすぅっと静かな笑みを浮かべて……
「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク――」
「嬢ぉぉぉおっ! いくらなんでも人の目の多いこんな場所でそれはまずいですぞおぉお!」
慌てて叫び、知稔(ちねん)が幽華(ゆうか)の口を塞いだ。口を塞がれた少女は、瞳を吊り上げてもごもご何か言っている。
その光景を瞳に映し、健太が戸惑い顔を阿鬼都(あきと)に向ける。
「……あきと。あれ、なにごと?」
「あの二人。ちょっと痛い大人なんだ。生暖かい目で見てやってよ」
満面の笑みを浮かべ、鬼子はのたまった。
とんとんとんとんとん。
軽快な包丁の音が響く。鬼沙羅(きさら)の生み出すリズムだ。
こねこねこねこねこね。
肉団子をこねる音も響く。こちらは柚紀(ゆずき)の生み出すコネリズムだ。
「鬼沙羅(きさら)の包丁さばきも、すっかり様になってきたわね」
「えへへー。そうかなー?」
ふんふんふーん♪
声をかけられると、鬼沙羅(きさら)は嬉しそうに笑み、鼻歌交じりに包丁を、とんとんとん、とより一層、軽快に操る。
彼女の様子を微笑みを浮かべて見守り、柚紀(ゆずき)が蛇口をひねる。
じゃー。
水を流して手を洗った。
そうしてから、戸棚を開いて大きめの鍋を取り出す。本日は鍋にする予定のようだ。
「柚紀(ゆずき)ー。お野菜、切り終わったー」
「さんきゅ。あとは皆が帰ってきてから煮込めばいいし――」
そこで、柚紀(ゆずき)は時計を瞳に映す。
サッカー組が出かけて一時間半ほど経っていた。
「野菜はこっちのボウルに、肉、魚はそっちのボウルに入れて……」
鬼沙羅(きさら)と作業を分担し、食材をそれぞれボウルに入れる。そうしてから――
「皆が帰ってくるまで休んでましょ」
「はーい」
宣言して、だらだらと休日をかみしめた。
『いただきまーす』
手を合わせてご唱和し、一斉に鍋に飛びつく五名――柚紀(ゆずき)、阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)、幽華(ゆうか)、そして知稔(ちねん)であった。
ぐつぐつ。
鍋の煮える音が響く中、はふはふと熱い食材を食す面々。夏も終りに近づき、本日は比較的涼しい。それでもさすがに、鍋を食すとなると皆暑そうにしている。しかし、これはこれで夏らしいといえよう。
「むぐむぐ。まだまだ暑い中、これはどうなのかと思ったけど、結構ありだね。汗をかいたあとの麦茶がなんとも……」
「でしょ。鍋といえば冬だけど、夏の鍋だって捨てたもんじゃないのよ? ……まあ、もう秋に近いけど」
「ねえねえ。幽華(ゆうか)。ちねちゃん。お野菜、わたしが切ったの。おいしい? おいしい?」
「ええ、美味ですぞ。大きさも食べやすく、気遣いが感じられますな」
「ほんと、おいしいわ。それに、皆でひとつの鍋をつつくのって何か楽しい。鍋なんて小さい頃に数度しか食べたことなかったから、知らなかった」
幽華(ゆうか)の独白を受け、柚紀(ゆずき)が軽い疑問を抱く。
「木之下さんちって、あんまり鍋しないの?」
「ええ」
にこり。
微笑んで応え、幽華(ゆうか)が更に言の葉を紡ぐ。
「あの腰抜けと同じ鍋だなんて寒気がするわ」
腰抜けとは、彼女の父親たる木之下実明(きのしたさねあき)のことである。
「……そ、そう」
――反抗期? アレかな。年頃の娘は難しいってやつかな
苦笑する柚紀(ゆずき)。
知稔(ちねん)もまた、野菜を食しつつ、乾いた笑いを浮かべている。その視線は遠くを向いている。
一方で、幽華(ゆうか)は機嫌よさそうに肉団子を食す。
「お肉もおいしい」
「あ。それは柚紀(ゆずき)がこねこねしたの」
鬼沙羅(きさら)が、しゅたっと右手を挙げて言った。
彼女へと視線を向け、幽華(ゆうか)が緊張した面持ちで固まる。ほのかに頬も染める。少し暑いのやもしれない。
「……ゆっ……ゆっ…… 天笠(あまがさ)さんが?」
「? そう。柚紀(ゆずき)がこねこね」
変な間があったためか、鬼沙羅(きさら)がきょとんとした顔で復唱した。
「そ、そう……ゆず、ゆ、天笠(あまがさ)さんがね」
「?? うん。そーだよ」
妙なやり取りだった。
『ごちそうさまでした』
そう口にしてから、全員で自分の受け皿と箸を台所へ持っていった。
そして、柚紀(ゆずき)がそのまま残って洗い物の片付けにとりかかる。
じゃー。きゅっきゅっ。
鬼沙羅(きさら)は他のこまごまとしたもの――七味やポン酢、醤油などを片付ける。
かちゃかちゃ。
更に幽華(ゆうか)は、空の鍋を手にして台所へ向かう。
がたっ。
「あ、木之下さん。別にゆっくりしててよかったのに」
「ご馳走になったし、何かしないと悪いなって思って」
にこり。
微笑む幽華(ゆうか)に、柚紀(ゆずき)も微笑み返す。
「ありがと。木之下さん」
「う、うん。その、あの、ゆず、ゆ――天笠(あまがさ)さん」
玉の汗を浮かべ、幽華(ゆうか)が言葉を搾り出した。その額に浮かぶ光が、鍋のせいでないのは明らかだ。
そして、彼女のそのような様子と、先の不自然な言葉から、さすがの柚紀(ゆずき)も察せた。
「もうホントにいいから。あとはあっちで阿鬼都(あきと)や知稔(ちねん)さんと寛いでて。ね?」
そこまで口にし、彼女は優しく微笑む。友に笑顔を向ける。
「幽華(ゆうか)」
びくっ。
柚紀(ゆずき)の呼びかけに、幽華(ゆうか)が肩を跳ね上げた。瞠目して、柚紀(ゆずき)を見つめる。時が止まったかのように微動だにしなくなる。
しかし、しばらくすると――
ぱああぁああっ!
表情を輝かせ、言葉もなく何度も何度も、こくこくと頷いた。顔には常に満面の笑みを浮かべている。そして、数秒ののちにようやく、言葉を紡ぐ、という人としての基本的な能力を取り戻す。
「うんっ! うんっ! ありがとっ! 柚紀(ゆずき)ッッ!!」
たったったっ。
幽華(ゆうか)が小走りで去っていく。その頬は緩みきっており、あたかも恋する乙女であるかの如くあった。
彼女のそのような様子を見送り、柚紀(ゆずき)はくすくすと含み笑いをする。
「あはは。可愛い。何というか、抱きしめたくなるわね」
思わず呟いた柚紀(ゆずき)。
ちょこまかと食器類を片付けたりしていた鬼沙羅(きさら)は、その音の波を拾うと思わず立ち止まった。そして、呆れた表情で料理の師匠を見つめ――
「柚紀(ゆずき)。おじさんの発想じゃない、それ?」
「――う゛。……そ、そんなことないし! ……たぶん」
自信のひと欠片も見当たらない御言葉だった。
それから小一時間ほど雑談とともに過ごし、午後九時になろうかという頃合に解散することとなった。
幽華(ゆうか)と知稔(ちねん)が玄関先に立ち、にこやかに頭を下げる。
「ごちそうさま、柚紀(ゆずき)」
「ご馳走になり申した」
柚紀(ゆずき)はそんな彼らに微笑みかけ、二、三、言葉を返している。
その一方で――
「ふああぁあ。さっさと帰れば。僕、もう眠い」
「わたしもー」
ごしごし。
目を擦りつつ、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が言った。礼儀も何もあったものではない。
「こら! 2人とも!」
「ああ。よいよい、天笠(あまがさ)殿。お気になさらずに。阿鬼都(あきと)殿、鬼沙羅(きさら)殿、ごゆるりと休まれるとよい」
注意しようとした柚紀(ゆずき)を知稔が手で制し、それから、幽華(ゆうか)へと視線を向けた。
「では、嬢。帰りますかな」
「ええ、そうね。じゃあ、柚紀(ゆずき)。また大学でね。おやすみなさい」
にこっ。
柚紀(ゆずき)が息をのむ。自分の名を呼ぶ幽華(ゆうか)の様子が、少し緊張して、頬を赤く染め、妙に可愛らしかったためである。慣れるまでこんな調子なのだろうか、と彼女は少し不安になる。奇妙な具合の噂が生まれやしないかと、少しばかり危惧した。このところ、天笠柚紀(あまがさゆずき)は実は男だ、などという口さがない噂が生じているだけに、熱愛発覚などというとんでもない話になりかねない。
「う、うん。おやすみ、幽華(ゆうか)」
笑みがぎこちない。
知稔(ちえん)は、柚紀(ゆずき)と幽華(ゆうか)の様子から、何となく察した。苦笑してから、丁寧に頭を下げる。
「拙僧も失礼いたします。天笠(あまがさ)殿。阿鬼都(あきと)殿。鬼沙羅(きさら)殿」
『うん。ばいばーい』
ぶんぶん。
寝ぼけ眼で双子が手を振った。
ふるふる。
それに応えながら、知稔(ちねん)が扉をゆっくりと閉める。
がちゃ。
かんかんかんかん。
甲高い音をさせてアパートの階段を下り、気龍寺(きりゅうじ)組が無言で帰路につく。
すたすたすたすた。
そして、柚紀(ゆずき)宅から充分に離れた頃合――
「嬢。気づいておりますか? この気配は……」
知稔(ちねん)が夜空を見上げ、呟いた。
幽華(ゆうか)もまた彼の視線の動きを追って、緊張した面持ちと共に言の葉を紡ぐ。
「鬼の気配が一、二…… 三はいるわね。昼間、二人ほど目にしたけれど、あいつらの気配はない。気配を消しているのでしょう。とするなら、少なくとも五。他にも気配を消している者がいるのならば、それ以上」
「その昼間の二名というのは――」
「おそらくは相当な手熟れよ。邪念はないようだったけれどもね」
そう応え、幽華(ゆうか)は沈黙する。
知稔(ちねん)もやはり、思案顔で黙り込んだ。
…………………………
そのような時が幾ばくか過ぎて一転、幽華(ゆうか)がにこりと微笑む。
「ふふ。まあ、今は静観するとしましょう。皆一様に、気配はすれども邪気はないよう。きっと、観光にでも来たのよ」
彼女の発言に、知稔(ちねん)は一度言葉を詰まらせてから、苦笑する。
「観光、ですか。こんな田舎町に……物好きですな」
くすり。
「そりゃあ鬼だもの。人並みにとはいかないわ」
「はっはっはっ! そうかもしれませぬなぁ!」
「ふふふ」
機嫌よさそうに笑いながら、幽華(ゆうか)、知稔(ちねん)の双方、瞳にだけは険を残していた。
彼らの中に、何かの予感がわだかまっていた。