第3章 百鬼の行く夜
龍ヶ崎町鬼走譚

 深夜。繁華街で色とりどりの明かりが空を照らす中、陰に身を置いて煙管をふかしている男性がいた。
 筋骨隆々とした巨躯を投げ出して路地裏の地面に座り込み、短く刈られた金の髪をぼりぼりとかいている。
「たくっ! どこにいやがるんだあの野郎!」
 がんっ!
 独白し、男性は転がっていたドラム缶を殴りつける。すると、ドラム缶は大きくひしゃげてしまった。
「保輔(やすすけ)様」
「おう、忠信(ただのぶ)か。どうだ? 首尾は」
 音もなく現れたもう一人の男性に驚くでもなく、保輔(やすすけ)と呼ばれた者が尋ねた。
 尋ねられた男性――忠信(ただのぶ)は慇懃に低頭し、応える。
「状況は芳しくありません。皆、手がかりすら掴めなかった模様です。土蜘蛛(つちぐも)殿の行方は杳として知れません」
「そうか。清姫(きよひめ)はどうしてる?」
「清姫(きよひめ)殿は寺に潜伏し、坊主数名をからかって戯れておいででした。今は街中を見物されております」
 忠信(ただのぶ)の言葉に保輔(やすすけ)が苦笑する。
「ふぅ。何していやがるのやら……」
 そうしながら、彼は真剣な表情を携えて言葉を続ける。
「まあ、姫さんはともかくとして、土蜘蛛(つちぐも)の野郎、何考えてやがるんだ。自らこっちにやってくるたぁよぉ」
 独白し、保輔(やすすけ)は鋭い目つきで空を見上げる。その瞳には、今現在ではなく、遠い過去が映っていた。
 その時――
「……保輔(やすすけ)様。呉葉(くれは)殿に動きがありました」
 忠信(ただのぶ)が視線を遠くへとやり、言った。
 呉葉(くれは)という者の気配を察知しての発言のようだ。
 保輔(やすすけ)もまた、同じ方向へと瞳を向けて、口の端を持ち上げる。
「ふん。紅葉(もみじ)御前が動いたか。あの女は勘がいい。追いかけるぞ、忠信(ただのぶ)――いや、茨木(いばらぎ)!」
「はい。酒呑童子(しゅてんどうじ)様」
 二名は頷き合い、闇に消えた。

 ちゅん。ちゅん。
 小鳥のさえずりが響く朝方、木之下幽華(きのしたゆうか)は窓から差し込む光のまぶしさに顔をしかめ、覚醒した。
「うぅん。……まぶしい」
 呟きながら身を起こす。
 ざわざわ。
「? 何だか騒がしいわね」
 部屋の外からざわめきが聞こえてきた。いずれも耳慣れた声である。気龍寺(きりゅうじ)の僧たちが話しているのだろう。
 もはや八時という時間帯であるため、多少のざわめきは許容範囲内である。しかし、休みの日は朝九時、十時まで眠るのが気龍寺(きりゅうじ)の娘――幽華(ゆうか)の日常であり、それゆえに、当寺の土日の朝は静謐に包まれているのが通例だ。
「何かあったのかしら?」
 疑問を覚え、幽華(ゆうか)はパジャマから着替えて部屋を出る。
 がちゃ。
 ざわめいている方へ歩みを進めると、やはり僧たちが顔をつき合わせて話をしていた。彼らの顔は、いずれもおかしなことになっていた。
 額に『肉』と書かれた者。顔中に皺を書き込まれた者。口の周りに黒々とした髭を書かれた者。眉がM字になっている者。様々だ。皆、油性ペンで悪戯書きをされていた。
「……あんたら、何よ、その顔」
 幽華(ゆうか)が呆れた表情を浮かべ、声をかけた。
「お、お嬢さん! おはようございます」
『おはようございます』
 1人の僧に続き、他の者も声を揃えて挨拶した。
「おはよう。で。もう1回聞くけど、何でそんなおもしろい顔してるの? そういう遊び?」
「いえ。皆起きると一様にこの有様で……」
「それでこいつが言うには、夜中に一人の女性が我らの部屋に入ってきて、書いて回っていた、と」
 そう口にしながら四十代半ばの僧が指差したのは、比較的力の強い鬼流(きりゅう)だった。
「女?」
「はい。長い黒髪が目を引く、優美な物腰の女性でした。その女性は眠っている我らをひと睨みしてから部屋に足を踏み入れたのです。私は何事かと思い体を起こそうとしたのですが、ぴくりとも動かず……」
 されるがままに悪戯書きをされてしまった、とのことである。
 被害が悪戯書きのみであるゆえ、大したことでないのは確かである。しかし、その女性の力自体には危機感を覚えないわけにいかないだろう。
 証言をしている僧の鬼流(きりゅう)としての力は、幽華(ゆうか)に遠く及ばない。それでも、それなりのものではある。よく怪談に出てくるような邪霊程度であれば、簡単に調伏することができる実力がある。当然、容易く金縛りに合うはずもない。にもかかわらず……
 ――鬼、かしら? けれど、こいつ程の力があれば、全く動けないなんてことは……
 幽華(ゆうか)がそのように考え込んだ時――
「嬢! 起き抜けに申し訳ござらん! 来ていただけませぬか!」
 白夜知稔(びゃくやちねん)が廊下を駆けてやって来た。
「あら、知稔(ちねん)。眼鏡が似合っているわね」
 彼の目の周りには、他の僧たちと同様に、眼鏡のような悪戯書きがあった。
「……からかわないで下さいますかな」
「はいはい。それで、何の用?」
 尋ねられると、知稔(ちねん)は情けない表情を引き締めて目つきを鋭くする。
「龍ヶ崎(りゅうがさき)署の刑事課の方がお見えです。助力を願いたいとのことです」
 ふぅ。
 知稔(ちねん)の言葉を耳にすると、幽華(ゆうか)は面倒そうに嘆息した。そして、天気のよい外を見やり、言の葉を繰る。
「……零係(ぜろがかり)の奴らか。さて、何が起きているのかしらね」

 とてとて。
 鬼沙羅(きさら)が慎重に皿を運んでいる。皿には彩りとしてレタスやニンジンのソテーが添えてあり、メインには牛と鶏の合挽き肉を用いたハンバーグが盛られている。適度についた焦げ目と、立ち上る香気が食欲をそそる。
 こと。
「うわぁ。すっごいおいしそう!」
「おぉ、本当だな。その歳でこれは大したもんだ」
 皿がテーブルに乗ると、そわそわと料理がくるのを心待ちにしていた長谷部健太(はせべけんた)と、母の長谷部武美(はせべたけみ)が感嘆した。
「えへへー。ありがとー。さ、食べて食べて」
 こと。
 ご飯を盛って運んでくると、鬼沙羅(きさら)は嬉しそうに笑い、言った。
「おう。じゃあ遠慮なく、いただきます」
「いただきまーす」
 手を合わせ、母子がさっそく肉を貪りにかかる。
 共に、口中に広がる肉汁に頬を緩める。
 遅れて、天笠(あまがさ)家の三名――家主の天笠柚紀(あまがさゆずき)、阿鬼都(あきと)、そして、鬼沙羅(きさら)が食卓につく。
『いただきます』
 手を合わせて唱和してから、箸でハンバーグを適度な大きさに切り分けた。それを口に運ぶ。
 ぱくり。
「む。いつもよりおいしー」
「確かに。健太くんたちが来るからって気合入れたわね」
「柚紀(ゆずき)! しーしー!」
 からかいを含んだ言葉に、鬼沙羅(きさら)が慌てた様子で口元に指を立てて、沈黙を要請した。
 少女のその様子に、少年が頬を紅くする。
「え? それって――」
「まったくもう。見栄っ張りなんだから」
「もー、いいでしょ! せっかくだからいいとこ見せたいじゃない!」
 健太が、柚紀(ゆずき)と鬼沙羅(きさら)の会話に肩を落とす。
「……そーですよね。そーいうことですよね。分かってます」
「? どったよ、健太?」
 遠慮なくご飯をおかわりしながら、武美が不思議そうな顔をした。
 なんでもない、と口にしつつも項垂れている息子を瞳に入れて、母はますます不思議そうに首をかしげた。

 さわさわ。
 気龍寺(きりゅうじ)の庭を、爽やかな風が駆け抜けていく。木々は葉を揺らし、池にはさざ波がたつ。
 その光景を目にしながら、幽華(ゆうか)が麦茶を口にした。
 こく。
 そして、おもむろに呟く。
「土蜘蛛(つちぐも)、ねぇ……」
「気が進みませぬか? 嬢」
 脇に控える知稔が尋ねた。
「ええ。進まないわね。権力の手先に下るのは趣味じゃないわ」
 幽華(ゆうか)はそう応え、再び麦茶を口に運ぶ。
 こくこく。
「そうは仰いますが、刑事殿の言によれば、土蜘蛛(つちぐも)自身がこれから悪さをすると宣告したとのこと。古の朝廷のように、権力誇示のために討伐しようというのとは違いましょう」
 龍ヶ崎(りゅうがさき)署刑事課零係(ぜろがかり)の刑事は言った。妖怪、土蜘蛛(つちぐも)が町長の元へ現れて山野区一帯に災いをもたらす旨を宣告した、と。それは確かである。しかし――
「人が好いわね、知稔(ちねん)。あの刑事の言葉が真実とは限らないでしょう。よしんばあの刑事は嘘を言っていないにしても、町長の証言は? 疑い出せばきりはないけれど、町長の人気は最近不調じゃない。次の選挙へ向けて策を講じていないとも限らないわ」
 土蜘蛛(つちぐむ)という妖怪の歴史はどす黒い。古の土蜘蛛(つちぐも)討伐において、土蜘蛛(つちぐも)自身に非があったことなどそうそうありはしない。
 古の朝廷は世の凶事を人外の為せる業とし、民衆の怒りの捌け口とした。そして、巨大な蜘蛛というおぞましき姿の妖怪――土蜘蛛(つちぐも)を退治してみせることで、自分たちの力を世に誇示してみせたという。
 しかし、それも世が闇の住人の存在を信じていればこその策だ。
「考えすぎでしょう、嬢。土蜘蛛(つちぐも)討伐で人心を掌握する時代はもう終わっておりましょうや。最早そのようなことを為したとて、笑いものになるのがオチです」
「……まあ、そうなんだけどね」
 肩を竦めて幽華(ゆうか)が呟き、みたび麦茶の入ったコップを傾ける。
 からん。
 氷のみが傾く。中身はなくなっていた。
 すく。
「おかわりを淹れてまいりましょう」
「お願い」
 素早く立ち上がった知稔(ちねん)に、幽華(ゆうか)がコップを渡した。
 僧は足早に台所へと向かう。
 彼を見送り、幽華(ゆうか)は晴天を見上げた。雲ひとつない空。
 しかし、西からは黒い雲が流れてきていた。昼過ぎのニュースでは、午後から雨が降ると言っていた。
「……土蜘蛛(つちぐも)は元来おとなしい妖怪だと聞く。愚者に目的がなく嘘もないならば――残るは恐怖の伴った蔑視、といったところかしらね」
 ふぅ。
 呟き、少女がため息をついた。

「…………………………………………………」
 山中にて、ひっそりと身を潜める影があった。巨大なその影は、ぴくりとも動かずに暗がりに佇んでいた。
 がさり。
 物音がした。獣道で、長い茶髪を麻の紐でひとくくりにした女性が、ゆっくりと歩みを進めている。
 その女性は鋭い瞳を影に向け、まっすぐに進んでくる。
「やっと見つけたぞ、土蜘蛛(つちぐも)よ」
「…………………………………………………」
 影は――土蜘蛛(つちぐも)はわずかに視線を動かし、しかし、応えない。沈黙を続けた。
 女性は構わずに歩を進め、身の丈三メートルはあろうという巨大蜘蛛に寄る。
「馬鹿が。人間に接触したな。恐怖にかられたあやつらに煮え湯を飲まされた記憶は、そう遠い日のものでもあるまい。今の時代、強き者などまずおらんが、お主がこの世にいるのが危険であることに変わりはない。早々に帰ろうぞ」
「…………………………………………………」
 女性が土蜘蛛(つちぐも)に向けて華奢な腕を伸ばす。
 しかし、土蜘蛛(つちぐも)は沈黙を続けたままだ。
「土蜘蛛(つちぐも)?」
「…………………………………………………」
 しゅっ!
 細い糸が何本も何本も、土蜘蛛(つちぐも)の口から飛び出る。糸は女性の腕を絡め、足を絡め、体全体を絡めた。
「なっ!」
 動きを封じられた女性が瞠目する。
 びゅうぅう!
 その時、一陣の強き風が吹き、落葉が舞った。視界が奪われる。
「…………………………………………ごめん」
 小さな呟きが鼓膜を揺らした。

 しばらくして、風が止む。最早、巨大な蜘蛛の姿は消えていた。
 女性はしばらく呆けていたが――
 びりっ!
 直ぐに怒り顔になり、全身に力を入れて蜘蛛の糸を引きちぎった。
「あの、馬鹿が……っ!」
 唇をかみ締めて言葉を吐き出す。
 がさがさっ!
 その時、さわがしく山中を駆け、男性が二名現れた。
「紅葉(もみじ)御前! 土蜘蛛(つちぐも)はいたか!?」
「遅いぞ! 酒呑(しゅてん)! 茨木(いばらぎ)! この木偶の坊どもがっっ!!」
 現れた酒呑童子(しゅてんどうじ)を、女性――紅葉(もみじ)が間髪入れずに怒鳴りつけた。目つきが鋭く、鼻息は荒い。
「な、なんだぁ…… いつも以上に怖えな」
「ご機嫌斜めで御座いますね、呉葉(くれは)殿」
 面食らった様子の酒呑童子(しゅてんどうじ)、そして、落ち着き払った様子の茨木童子(いばらきどうじ)が、それぞれ呟いた。
 その二名を瞳に映して、紅葉(もみじ)――もしくは、呉葉(くれは)とも呼ばれる――はイライラした様子で舌打ちする。
「貴様らがあと数刻早く着いておれば、土蜘蛛(つちぐも)を逃がさずに済んだのだ。役立たずどもめ」
「何! ここにいたのか!?」
「何度も言わすな! このうつけが! ……まったく!」
 呉葉(くれは)が腕を組み、目つき鋭く立ち去ろうとする。
 その後を二名が追う。
「おい。土蜘蛛(つちぐも)はどこ行った?」
「知るか! それが分かれば苦労はせん!」
「呉葉(くれは)殿は土蜘蛛(つちぐも)殿の気配を読めているのかと……」
 ぎろり。
 茨木童子(いばらぎどうじ)の言葉に、呉葉(くれは)が目つきを鋭くする。
「それが出来れば誰がこのように歩き回る必要がある!」
 どしどし!
 足音を響かせ、呉葉(くれは)が山のふもとへと向かう。町中へと向かうようだ。
 土蜘蛛(つちぐも)は身体の大きさを手の平大まで縮めることができる。町に身をひそめることも十分考えられた。
「これ以上話すことなどなかろう! 散れ! うつけども!」
「へいへい」
「御意に」
 呉葉(くれは)の怒鳴り声を合図に、鬼達はそれぞれ思い思いの方向へ駆け出した。
 当てのない捜索。焦りがそれぞれの顔に浮かんでいた。

「いやあ。平和ねー」
「うんうん。そうだねー」
「いいことだよねー」
 天笠(あまがさ)家の面々は長谷部(はせべ)家の二名が帰ったあと、床に寝転んでゆるりと過ごしていた。
 龍ヶ崎(りゅうがさき)町をとりまく状況などお構いなしで、のん気なご様子だ。
「ふあぁあ。眠くなってきちゃった」
「うーん…… 僕もー」
「そうねー。じゃあ、昼寝でもしましょうか?」
『さんせー』
 言うが早いか、三名はうとうとと瞳を閉じる。そして――
 すやすや。
 夢の国へと旅立った。

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