深夜の気龍寺(きりゅうじ)敷地内にて、音もなく歩みを進める影があった。長く艶のある黒髪が夜風と共にさらりと揺れる。影の正体は着物姿の少女だった。墓石の間を流れるような足取りで進む。
少女は寺の壁へと真っ直ぐに歩みを進め、するりとその壁をすり抜けた。そして、縁側を歩き、ある戸の前で立ち止まる。
がら。
ためらいなくその戸を開け放つと、彼女は部屋の中で雑魚寝している僧侶達をひと睨みした。
そうしてから――
きゅっ。
手にしていた油性ペンのキャップをとる。
くすり。
月明かりのみが照らす薄闇の中、少女が小さく笑い、一歩を踏み出した。
「うふふ。楽しゅうございました。人の世に戻ってきましたらば、やはりまずはお坊様にお相手いただきませんと」
繁華街の一画をしゃなりしゃなりと歩みつつ、少女が楽しげに独白した。
その風体は、ひと言でいえば時代錯誤という言葉に尽きる。それでも、髪は結わずに流すのみ。お歯黒をたしなむわけでもない。着物姿がやや異色という程度であるからして、昼間であったならば目立つこともなかっただろう。しかし、夜の繁華街ともなると、間違いなく場違いだった。
そして、それゆえに皆の目を引き、結果として、悪い虫を引き寄せた。
「かーのじょっ! このあとオレらといいことしない?」
長髪を金に染めて耳と唇にピアスをつけた男性と、タンクトップからのぞく肩に刺青を施した男性、という二人組が、少女に声をかけた。
どう贔屓目に見ても、誠実な人物ではない。
「いいことでございますか?」
きょとんとした表情の少女に、男性二名が下卑た笑いを向ける。
「そ。いいこと」
「クスリもあるから色んな意味でキモチイイよ」
少女は二名の言葉を耳に入れても、やはり不思議そうに首をかしげている。
「薬種問屋の方でございますか? さて。色んな意味で気持ち良いとは、具体的にどのように気持ち良いものなのでございましょう?」
その問いを受け、男達は楽しそうに笑いあう。
頭が緩そうでいいカモだな、と心の中で口にしているのがありありと分かる笑顔だった。
「まあまあ。それは直ぐに分かるよ」
「そうそう。さあ早速ホテルに行こっか」
刺青の男が、少女の腕を取ろうとした。
その結果――
どんっ!
大きな音が響いた。
長髪の男性が不思議そうに眉をひそめる。きょろきょろと視線を巡らした。
そして、音の発生源を見つけるに至る。
「……………え?」
男性が瞠目し、小さな小さな声を漏らした。
二十メートルほど離れた場所にあるゴミ捨て場に、生ゴミにまみれてぐったり倒れている彼の相方がいた。その様子を瞳に映して、男は何が起きたのか理解できずに呆けた。
そして――
がっ!
そんな彼をも異変が襲った。たおやかな少女の手の平が俊敏に動き、男性の腹を突く。
平手は腹にめり込み、まず男性の意識を奪った。しかし、それだけで勢いは止まらず、生み出された衝撃は男性の身体を軽々と吹き飛ばした。彼は相方同様、ゴミ捨て場に沈む。
ばんっ!
大の男の体が宙を舞い、そして、堕ちた。
それを見送り、鋭い瞳の少女が口を開く。
「清(きよ)の体に触れてよいのは安珍(あんちん)様のみにございます。例えあの方に袖にそれましょうと、あれから何百年と経ちましょうと、それはとこしえに変わらぬ理にございます。以後お気をつけ下さいませ」
にこり。
一転、少女が――清姫(きよひめ)が柔らかい笑みを浮かべた。
その夜、龍ヶ崎(りゅうがさき)町の歓楽街の空を、何名かの軽薄な男性達が舞った。
龍ヶ崎(りゅうがさき)署の刑事課零係(ぜろがかり)――霊障などの不可思議な事件を担当する部署に割り当てられた一室では、係長の櫻田和真(さくらだかずま)が紫煙を天井に向けて放っていた。
世間の禁煙ブームなどいざしらず、零係(ぜろがかり)の居室は喫煙オッケーなのである。
はあぁあ。
ため息と共に吐き出された紫煙が中空をたゆたう。
「町長からの通報は胡散臭いわ、気龍寺(きりゅうじ)の協力姿勢はいまいちだわ、胃が痛いねぇ。まったく……」
独白が、和真(かずま)独りの部屋に響く。
和真(かずま)は今年五十になる。白髪の目立つ頭は、若干ながらおでこが広くなっていた。
そのおでこをぺたりと叩き、彼は考え込む。
――住職の実明(さねあき)殿は協力を快諾したが、娘はノリ気じゃなさそうだったな……
気龍寺(きりゅうじ)の責任者である木之下実明(きのしたさねあき)住職は、土蜘蛛(つちぐも)討伐の協力依頼に、首を縦に振った。しかし、その娘である幽華(ゆうか)は明らかに渋い顔をしていた。
木之下幽華(きのしたゆうか)は鬼流(きりゅう)として、気龍寺(きりゅうじ)で一番力が強いとされている。実際、その情報に間違いはないだろう。そんな人物が気乗りしていないというのは、町長にテロ宣告した土蜘蛛(つちぐも)という怪異を退ける上で間違いなくマイナス要素である。
――うちの奴らはただ『視(み)える』のがほとんど。そうなると、退治するためには気龍寺(きりゅうじ)に頼るしかない。あの娘以外にも力のある鬼流(きりゅう)はいるはずだが、さて、土蜘蛛(つちぐも)とは娘以外の鬼流(きりゅう)だけでどうにかなるモノなのか……
はあぁああぁあ。
更なる深いため息と共に大量の紫煙を吐き出して、和真(かずま)は曇り始めた空を見上げた。
木之下実明(きのしたさねあき)は自室で膝を折って座り、気龍寺(きりゅうじ)の僧である白夜知稔(びゃくやちねん)と相対していた。
二名は真剣な表情を携え、零係(ぜろがかり)から協力依頼があった件について話し合っている。
「現在、町に鬼が集っているのは間違いないのだな?」
「はい。昨日、嬢もまたそのように仰っておりましたゆえ、まず間違いないかと存じます。最低五名の鬼が町を跋扈している模様です」
その報告に、実明(さねあき)が腕を組んで考え込む。
「ふむ。その事実は捨て置いてもよいのだろうか? どうだい?」
「邪念のようなものは、その誰からも感じません。拙僧のみならず、やはり嬢も同意見のようです。なれば――」
「……そうか。では、鬼はよいとしよう。問題は、土蜘蛛(つちぐも)だな」
実明(さねあき)は艶やかな黒髪をばっとかきあげる。
「知稔(ちねん)。土蜘蛛(つちぐも)の気配を感じるかい?」
「いいえ……と、断言はできませぬな。正直なところ、分かりません。拙僧の短き生において、土蜘蛛(つちぐも)に遭遇したことなどございませぬゆえ」
「それは幽華(ゆうか)も同じだろうな。となれば、町長殿が土蜘蛛(つちぐも)――巨大蜘蛛を目撃したという証言の信憑性すら検証できぬか……」
ふぅ。
小さくため息をつき、実明(さねあき)がゆっくりと立ち上がる。襖をがらりと開け放ち、縁側に立って中庭を見渡した。
「仮に、土蜘蛛(つちぐも)が実際に顕れたのだとして、彼は何を町長殿へ伝えたのか。やれやれ。調べるべきことが多すぎる」
「……嬢はしばらく動く気はないようでございます。拙僧と他の鬼流(きりゅう)二名で調査にあたりましょう」
知稔(ちねん)が言うと、実明(さねあき)は雨がぽつりぽつりと降り始めた曇天を見上げ、頷いた。
「ああ。すまないが、頼むよ」
「はっ」
むぐむぐ。
スーパーマーケットでこっそり調達した羊羹を一棹まるまる頬張りながら、清姫(きよひめ)が日曜日の繁華街をぷらぷら歩いていた。
「百年ばかり赴かずにいただけでこうも賑やかに、煌びやかに変化してしまうとは…… 人の世とはまこと忙しきことですわ。もっとも、清(きよ)は賑やかなのが好きでございますから、よろしいですけれども」
にこにこ。
機嫌よく微笑み、視線を建物の一つに向ける。そこは、ぽつりぽつりと雫の落ち始めた天候にも関わらず、人の出入りが他と比べて激しかった。
「『怪奇ふぁんたじーだれだれちゃん。本日公開開始』ですか…… いったい何のことでございましょう?」
清姫(きよひめ)が、建物の前に立てられた幟のうち、最も目立つものに書かれた文字列を読み上げた。
本日から公開が開始された人気映画の宣伝であったが、当然ながら彼女のおよび知るところではない。
「もし。こちらはどのような集いでございましょう?」
困り果て、通りすがりの少女に尋ねた。
「え? ぼく? どのような集いって――あぁ、たぶん映画じゃないですかぁ?」
少女は軽く応えてから、背伸びをして人の波の先を見据える。結果、やはり映画館が人々の目的地だと知るに至る。
「やっぱりそうだ。今日から映画のダレダレチャンが公開されるから混んでるんだよ」
「えいが、でございますか? それはいったいどのようなものなのでしょう?」
「へ?」
清姫(きよひめ)の切り返しに、少女は目を点にして黙り込む。
そうしてしばし熟考し――
「えーっと、映画っていうのは……おっきな幕に紙芝居を映してみんなで見る、みたいな?」
懸命に説明した。
彼女の言葉を耳にすると、清姫(きよひめ)が顔を輝かせる。
「まあ! 活動写真のことでございますか?」
「活動写真? ……そーいえば昔はそう言ったんだっけ? うん。たぶんそーですよ」
ぱあぁああぁあ!
「まあまあ! 以前こちらへ参りました折は観覧できませんでしたのよ。なんという素晴らしきめぐり合わせでしょう」
両の手を組んでうっとりしている清姫(きよひめ)。
一方で、少女は苦笑して手を振る。何だか変な人だな、という感想を抱いて頬をひきつらせる。
「……よ、よかったですねー。それじゃーぼくはこれでー」
「はい。ご教授下さいまして、誠に有難うございます。大変お世話になりました」
ぺこり。
きっちり六十度に曲げられた腰、丁寧に下げられた頭に、少女は再度苦笑してから歩き出し、去った。
彼女を見送ってから、清姫(きよひめ)はいそいそと目標の建物の裏手に向かう。窓も扉もない箇所に手を添え――
にこり。
嬉しそうに微笑んだ。そして、そのまま彼女は、壁をすり抜けて姿を消した。
『午後から降り出した雨は、これから二、三日はぐずつくでしょう。加えて、南海に発生した台風が近づいており、木曜から金曜にかけて日本列島を直撃する見込みです。来週は傘が手放せない日が続きます。お出かけになられる方はご注意下さい。以上、来週のお天気でした』
テレビから聞こえていたお天気キャスターの言葉は、どう贔屓目に見ても喜べない内容だった。
ゆえに、天笠柚紀(あまがさゆずき)は読んでいた雑誌から顔をあげ、不満げに顔をしかめた。
「一週間ずっと雨って…… やだなぁ。大学さぼりたい」
「さぼっちゃえばー?」
「どうせ今週さぼってたじゃん」
柚紀(ゆずき)の呟きに、鬼沙羅(きさら)、阿鬼都(あきと)がそれぞれ言った。
二人とも、どうでもよさそうな態度が共通している。
「そうしたいけど、来週は課題が出る予定の授業がいくつかあって、休めないの」
はああぁあ……
大きなため息をついた柚紀(ゆずき)。
そんな彼女を瞳に映して、鬼子たちが苦笑する。
「意外と真面目だよね。柚紀(ゆずき)って」
「ほんと『意外と』ね」
「よーし。いい度胸だ」
双子の言葉を耳にして、柚紀(ゆずき)が立ち上がった。押入れの扉を開けて、収納していたハタキを手に取る。
ぶんっ!
振るわれたハタキには、不思議な光が――若干ながらの力が宿っていた。幽華(ゆうか)がビー玉やメンコに力を込めていたのと同じ道理だろう。掃除をすることが好きな柚紀(ゆずき)らしい、力の発現方法である。
ふわり。
「うわっ。ちょっと柚紀(ゆずき)! 力を使っての折檻は流石にちょっと……」
「せめて怒鳴るくらいで……」
にやり。
飛んで避けた二名に、柚紀(ゆずき)が意地の悪い笑みを向けた。
「問答無用!」
どたばた。がたがた。
「うきゃー。柚紀(ゆずき)こわーい」
「よっ。ほっ。うわっと、あぶなー」
積もった埃ならぬストレスを幾分かは掃おう、という柚紀(ゆずき)の奮闘は五分ほど続いた。