第3章 百鬼の行く夜
怪異散りばみ和が綻ぶ

 しとしと。
 駅前にあるホテルの一室で、着物姿の女性が、窓を打つ雨の音と共に覚醒した。眠たそうに両の目をこすり、小さくあくびをする。
 しばらくそのような様子で寝ぼけていたが、おもむろに立ち上がり、洗面所に向けて歩を進めた。
 しゅっしゅっ。
 そして、鏡の前で自前の櫛を懐から取り出し、御髪を整えた。
 ふぅ。
「雨とは厄介ですわ。本日は鳥に変化して土蜘蛛(つちぐも)様の捜索をいたしましょうかと思っておりましたのに…… 清(きよ)は、濡れるのは嫌いです」
 丁寧に髪を梳かしつつ、女性――清姫(きよひめ)が独白した。頬を膨らまして腕を組む。そうして、しばらく考え込む。
「……仕方がありませんね。これは天からの啓示なのでございましょう。捜索はまた後日といたしまして、本日も町中を見物するといたしましょう。さて、そうと決まりましたら、傘をどこかで調達しなければいけませんわね」
 にこり。
 鏡に向かって微笑み、清姫(きよひめ)は楽しそうに回れ右した。洗面所から出て、扉へ足を向ける。
 すたすたすたすた。
 そして、ドアノブに手を伸ばすことなく――
 すっ。
 扉をすり抜けた。
「きゃああぁあ!!」
 悲鳴が上がった。
 清姫はぱちくりと瞳をしばたたき、叫び声の聞こえた方向へと視線を送る。そこには、恐怖に顔を歪めている女性がいた。
「ゆ、ゆゆ、幽霊……?」
 ――ああ、それでお叫びになられましたのね
 女性の独白を耳にし、清姫(きよひめ)は得心した。
 にこり。
 女性へと向けて丁寧に微笑み、清姫(きよひめ)がぺこりと頭を下げた。そうしてから、目の前の壁を――
 すっ。
 再び、すり抜けた。
『いいいやああぁああああぁあああぁああ!!』
 先程よりも大きな悲鳴が、壁の向こう側から聞こえてきた。
 壁をすり抜けた先――非常階段を下りていきながら清姫(きよひめ)は、おかしそうに口元を押さえた。
 くすくす。

 がさがさ。
 柚紀(ゆずき)はノートや教科書を鞄にしまい、立ち上がった。
 正午過ぎ、臥龍(がりゅう)大学B−302講義室でのことである。
「ユズキング。学食いこ」
「……ぶつわよ」
 声をかけてきた学友に、柚紀(ゆずき)は青筋を立てて言葉を返した。拳を力いっぱい握っていた。
 しかし、学友は柔らかく微笑み、手をひらひらと振る。
「やだなー、もー。冗談でしょー」
「見過ごせる冗談と、見過ごせない冗談があるのよ、薫(かおる)」
 先週の月曜日にあった、変態をぶっ飛ばした事件に起因して、柚紀(ゆずき)にはいくつかのあだ名ができていた。
 一つ、改造人間ユズキー。しばしば改造人間は省略され、ユズキーのみで呼ばれる。
 二つ、ゴリ子。ゴリラの女の子という意味らしい。
 三つ、女帝ユズキング。やはり女帝は省略され、ユズキングと呼ばれる。
 当然ながら、柚紀(ゆずき)はそのどれも許容していない。授業が始まる前から何度かそれぞれの呼び名で呼ばれているが、女性から呼ばれれば鬼すらも逃げ出す眼力でねめつけ、男性から呼ばれれば問答無用で殴った。その結果、異名を口にする者はほとんど居なくなった。
 しかし、どのような場合にも例外は居る。それが、今現在、柚紀(ゆずき)の前に佇む少女である。
「ま、ともかくご飯いこうよ」
 学友――久万月薫(くまづきかおる)が微笑み、言った。彼女は、柚紀(ゆずき)の睨みを正面から受けても動揺しない、少しばかり天然はいっている十九歳だ。クセのある淡い茶の髪を、色の派手な髪留めでまとめている。本人の談によれば、本日のような雨天の際には、セットに一時間近くかかってしまうのだそうだ。
「そうね。他の皆は?」
 常であれば、五、六名で学食に赴くのであるが、本日は薫(かおる)しか居ない。
 尋ねられた薫は可笑しそうに声を立てて笑い、ぱちりと片目を瞑ってみせた。
「朝のひと睨み利いたみたいで、みんな今日は遠慮するって。さっすが『ユズキー』だね」
 ギロリ。
 懲りない薫(かおる)に、柚紀(ゆずき)がやはり鋭い視線を送った。
 しかし、例外たる久万月薫(くまづきかおる)その人は、別段気にも留めずにこりと笑った。
「あはは。こわーい」

 郊外の廃墟ビルを、三名の僧侶が見上げていた。その視線の先にはガラスの割れた窓があり、降りしきる雨がそこからビルの中に浸入していた。
「ここに一人潜伏しておるようですな。知稔(ちねん)殿」
「うむ」
 右隣の僧の言葉に、白夜知稔(びゃくやちねん)が頷いた。
「しかし、鬼は土蜘蛛(つちぐも)の件に関係あるのでしょうか? よしんば関係していたとして、我らの話を聞いてくれるものか……」
 左隣の僧が独白した。
 彼の言葉は、知稔(ちねん)の考えを代弁していた。
「もっともな疑問であるな。しかし、拙僧らには情報が少なすぎる。土蜘蛛(つちぐも)の気配を直接追えないならば、同時期に現れた怪異――数多の鬼の気配から追い、手がかりを掴むしかあるまい」
 ざっ。かち。
 知稔が一歩踏み出して廃墟ビル内に至り、さしていた傘を閉じた。他二名もそれに続く。
「さて、邪悪な気配でないとはいえ、みな気を引き締めよ」
『応』
 かつかつ。
 足音を響かせながら、三名がビルを上っていく。二階、三階、四階と踏破し、いよいよ最上階へ足を踏み入れる。
 すると――
「主ら。何用じゃ。わらわの気配を目指して来たのであろう?」
 唐突に声がかかった。
 声の主である女性は、壊れかけた椅子に腰掛けている。彼女のひと睨みは、僧侶たちの足を恐怖で止めるのに充分であった。
 ――邪気はない。しかし、この力は、嬢以上……
「なんだ。わざわざやって来おったというに、だんまりか」
 にやり。
 そこで、女性は僧侶たちに向けていた力の波を止める。それにより、僧三名はいくぶん緊張を解いた。
「し、失礼いたした。拙僧らは気龍寺(きりゅうじ)の僧です。名を、白夜知稔(びゃくやちねん)、根津英俊(ねづえいしゅん)、上谷安孝(かみやあんこう)と申します。力弱きが、これでも鬼流(きりゅう)であります」
「ふん。そのくらいは分かるわ。何用かと訊いている」
 つまらなそうに息をつき、女性は自身の栗色の髪の毛先を指で弄る。
 知稔(ちねん)は再び緊張で体を強張らせ、しかし、圧倒されることなく言の葉を繰る。
「貴女たち鬼が幾名もこの地に集っておりましょう。いかなる用向きでしょうか?」
 そこまで口にし、数秒のあいだ黙り込む。
 そして――
「土蜘蛛(つちぐも)の出現と関係あるのですか?」
 ぴくり。
 知稔(ちねん)の疑問に、女性がはじめて動揺の色を見せた。
「……そうか。奴のことは既に人の間に広まっておるのか」
 独白してから、女性は立ち上がる。
 ぱんぱん。
 若草色のロングスカートについた埃を叩いて払い、すっと背筋を伸ばす。
「鬼流(きりゅう)どもよ。質問に応えよう。この地に集った鬼は全て同じ目的をもっている。土蜘蛛(つちぐも)を保護するという目的をな」
 宣言し、女性がすたすたと歩みを進める。
 がらっ。
 窓際に寄り、窓を勢いよく開け放った。雨が浸入して、床がしとしとと濡れる。
「お主らがどういうつもりで土蜘蛛(つちぐも)や鬼を追うのかは知らん。しかし覚えておけ」
 ぎろり。
 女性のひと睨みが、鬼流(きりゅう)らの体に緊張を走らせる。
「場合によってはわらわが――平安の世に恐怖を撒いた鬼『紅葉(もみじ)』が、主らの存在全てを抹消してやろうぞ」
 ばっ。
 呪いの言葉を残し、鬼――紅葉(もみじ)が中空に飛び出した。彼女の体はふわりと浮かび、雨の降りしきる天を舞って去る。
 残された三名は圧倒的な力を全身に受けた結果として、その場にただただ立ち尽くした。
 雨がアスファルトの床を濡らし、染みを作る。ゆっくりとゆっくりと、老朽化した床が黒く染まっていった。

「天笠(あまがさ)くん!」
 柚紀(ゆずき)が薫(かおる)と共に午後の授業へ向かおうと歩みを進めていたところ、ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら皿屋敷巌(さらやしきいわお)が駆けてきた。彼は神聖事象研究会というサークルの代表者であり、不可思議な現象に目がない。
 ――うわ。遂に見つかった
 瞳をランランと輝かせている巌(いわお)を目にして、柚紀(ゆずき)がげんなりとしてみせる。しかし、そんな様子をみせたところで巌(いわお)は手加減してくれない。
「男子を殴り、なおかつ壁をぶち破って見せたというのは本当かね? とてもではないが人間技とは思えん。正直に言い給え。悪魔と契約したのだろう? でなければ宇宙人とコンタクトを取ったのか? いずれにしても一度詳しく話を――」
「か、会長! 私これから授業なので! それじゃ!」
 巌(いわお)の耳にした噂が若干大げさになっているとか、そういう細かいことに突っ込みを入れる余裕はなかった。柚紀(ゆずき)は慌てた様子で手を振り、薫(かおる)の腕を取って走り出そうとする。
 しかし、巌(いわお)がそれをただ見送るわけがなかった。ぱしりと、腕を掴まれる。
「待ち給え! 授業など二の次だろう? 君は神聖事象研究会の一員として協力する義務がある! さあ! 部室へ行こうじゃないか!!」
 ばしゃばしゃばしゃばしゃ!
 水溜りを勢いよく踏みしだき、柚紀(ゆずき)、薫(かおる)、巌(いわお)の三名が、大学構内を早足で行く。
 その間、柚紀(ゆずき)と巌(いわお)のあいだで盛んに言葉が飛び交っているのだが、生産性のない応酬が延々と続いているのみであるため、割愛する。
 一方で、薫(かおる)は雨天の空向こうにある山裾へと瞳を向け、独白する。
「……なんだろ。胸のあたりがきゅーってする」
 ぎゃーぎゃー。
 やかましい神聖事象研究会の会員たちには意識を向けず、久万月薫(くまづきかおる)が胸を押さえて、言葉を詰まらせた。苦しいのか、悲しいのか、判然としない、そんな不可思議な気持ちを抱えて、まなじりを下げていた。
 とてもとても、不思議だった。

 夜中の七時。柚紀(ゆずき)がぐったりとして帰宅した。
「……た、ただいま」
『おかえりー』
 迎えた双子は首をかしげて疑問を口にする。
「どしたの?」
「戦士、柚紀(ゆずき)は戦いに明け暮れる一日を過ごしたのだった、みたいな?」
「違う」
 阿鬼都(あきと)のふざけた発言に短く応えて、柚紀(ゆずき)はベッドに倒れこむ。
 どさり。
 そして、泣きそうになりながら苦々しげに言葉を吐き出す。
「ふふふ…… 平和って――続かないものなのね」
『??』
 再度首を傾げ、鬼子たちが顔を見合わせた。意味が分からなかった。

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