ざーざーざーざーざー。
月曜、火曜に続き、本日水曜日もまた雨が降り続いていた。龍ヶ崎町の山野に、天より振り来た雨水が染む。そのように、水の気が満ちる山野の麓に久万月(くまづき)家があった。
久万月(くまづき)の家の長女、久万月薫(くまづきかおる)が、鏡台の前で逆立つ癖毛と格闘している。彼女は、櫛が通らないために茶の髪を手で押さえつけ、ピンを二、三本まとめて使用して無理やり留める。そのようにして、剛毛が何とかまとまりを見せた頃合い、居間から声がかかる。
「薫! 早く朝ごはん食べなさい!」
「はーい」
ぱたぱた。
小走りでダイニングへと向かい、腰を下ろす。そして薫は、食卓に並んでいる各種ペースト状のものを瞳に映した。
「……おかーさん。またジャム作ったの? この前さくらんぼで失敗したばっかじゃん」
「失敗は成功のもと。前回の反省をいかして、今回のりんごジャムはいい感じよ」
得意げな表情を浮かべる弥生に、薫はそれ以上の言及をしない。実際に口にしなければ評価もできない。彼女はトーストを一枚手に取り、母ご自慢のりんごジャムを塗りたくる。
かり。
端から遠慮がちに食べてみると、確かに悪くはなかった。しかし、あくまで『悪くない』だけであった。
「まー、さくらんぼよりはマシだねー」
薫が素直な感想を述べると、母はまなじりを下げて嘆息した。
「……含みがあるわね。可愛くないんだから。お父さんはおいしいって言ってくれたわよ?」
「はいはい。ごちそうさま」
二重の意味で言葉を吐き、薫はトーストをくわえたまま立ち上がる。
「こら。行儀悪いわよ」
「だってこのままだと授業遅れちゃうんだもん」
もぐもぐ。
ジャムトーストを咀嚼しながら、薫は部屋へと向かう。大学へ行く準備をしなければいけない。
弥生も無理に引きとめようとはせず、その場でただため息をついた。
きぃ、ばたん。
部屋へ至ると、薫はショルダーバッグに財布や携帯電話などの小物をつめ、授業で使う教材等をブティックの紙袋に入れる。その二つが彼女の通学アイテムなのだ。
そして、彼女はパジャマを脱ぎ捨て、ジーンズ地のホットパンツをはいて、真紅のキャミソールに袖を通す。更には、若草色に染まったパーカーを着こんだ。着替えを終えて、ショルダーバックと紙袋を手にし、自室を飛び出す。早足でスタスタと廊下を歩いた。
「あ。そうそう。薫、家の周りで大きな蜘蛛って見た?」
居間へと戻ってきた娘に、弥生が尋ねた。
「え? 何、とつぜん」
当然、薫は突然のことに眉をひそめる。
「ご近所の方が言ってたのよ。裏山にすごく大きな蜘蛛がいたって。なんでも三メートルくらいなんだって」
「へー。主婦って暇なんだねー」
玄関で赤い花びらの目立つミュールを履きながら、薫は呆れた表情を浮かべた。
母は苦笑とともに言葉を返す。
「まぁ、だいぶ大げさに言ってるんだと思うけどね。でも、一応気をつけるのよ。三メートルの蜘蛛なんてのはともかく、誰かが飼ってた海外産の巨大毒蜘蛛ってことも考えられなくないんだから」
薫は、それもだいぶ可能性が低い気がするなー、などと思ったが、あまり突っ込まないことにした。付き合いすぎると、本当に授業に遅れてしまう。
「はーい。りょーかいでーす」
返事をしながら、ミュールに小さな足をねじ込む。そうしながら、三メートルの蜘蛛という不思議生物を想像してみる。薫の頬が緩んだ。
「あんたは女の子のくせに、蜘蛛と見ると可愛がる妙なとこがあるし、心配だわ」
さすがは母親である。薫の表情の僅かな変化を察したようだ。
弥生の危惧は適格であった。今も薫は、巨大な蜘蛛を想像し、その雄大さと愛らしさに心奪われていた。珍しい性癖である。
「だ、だいじょーぶだってば。じゃ、いってきまーす」
「……ふぅ。はい。いってらっしゃい」
ばっ。
お気に入りの空色の傘を勢いよく差して、薫が外へと飛び出した。
ざーざーざーざーざー。
ばしゃばしゃ。
龍ヶ崎(りゅうがさき)町界隈には、明日から台風が近づくという。まだまだ雨雲とのお付き合いが続きそうである。
はあぁあ。
龍ヶ崎(りゅうがさき)駅付近のホテル前にて、龍ヶ崎(りゅうがさき)署刑事課零係(ぜろがかり)の係長、櫻田和真(さくらだかずま)と、気龍寺(きりゅうじ)の一人娘、木之下幽華(きのしたゆうか)が揃ってため息をついた。
双方の表情には、めんどくせー、という感情が見え隠れしている。
そんな二名は顔を見合わせ、微笑みあう。
「あら。どういたしました。櫻田さん。ため息をつくと幸せが逃げるといいますよ?」
「お嬢さんこそ憂鬱そうですな。そういえば今日は大学はいいのですかな?」
「困っている方がおられるのでしょう? 私事を優先させている場合ではないかと」
「ご立派な志ですな」
苦笑し、和真(かずま)が一歩を踏み出す。向かう先は、雨天を突き抜けるビルディング――ホテルドラグノである。
先日、当該ホテルの地上九階にて幽霊が出没したとの噂がまことしやかに囁かれた。対応に困り果てたホテル側が零係(ぜろがかり)に相談したのだ。
しかし、零係(ぜろがかり)の人員は土蜘蛛(つちぐも)関連の調査で奔走している最中である。それは、協力要員である気龍寺(きりゅうじ)の僧たちも同様だ。
結果、実動員ではない和真(かずま)と、土蜘蛛(つちぐも)事件にノリ気ではない幽華(ゆうか)にお鉢が回ってきたのである。
「支配人を呼んでいただけますかな?」
ちゃ。
和真(かずま)がドラマさながらに警察手帳を開き、受付のお姉さんに見せる。すると、受付嬢は寸の間おどろき、それから、カウンターの奥へと向かった。
しばらくして、彼女は中年男性をともなって戻ってきた。
「刑事課の方でございますか? わたくしは支配人の二条(にじょう)と申します」
「櫻田です。こちらは気龍寺(きりゅうじ)からの応援で、木之下さんです」
「木之下です」
ぺこり。
それぞれ低頭し、それから、二条の先導でエレベーターへと向かう。
すたすた。
二条が、上矢印がプリントされたボタンを押してから、和真(かずま)と幽華(ゆうか)に視線を送る。
「あの日、幽霊を目撃なされたのは、九階にお泊り頂いておりましたお客様でございます」
「その客は?」
和真が尋ねると、二条支配人は申しわけなさそうに視線をおとす。
「その日の朝にチェックアウトされました」
それもそうか、と和真は嘆息する。幽霊が出現したというのだから、そのまま滞在し続けるわけもない。
ちーん。
エレベータが一階に止まった。
二条が扉を開けてくれている中、和真と幽華は歩を進めて上下する箱に収まる。
全員がエレベーター内に入るのを待ってから、二条は九階のボタンを押した。そして、扉を閉めた。
二、三と、階上へと向かう間に、幽華が口を開く。
「では、当時の状況はわからないのでしょうか?」
うぃーん。
エレベータが上昇を続ける。五階を通過中だ。
「いえ。お客様からわたくしがお話を賜っております。おおまかな状況はわたくしからお話させていただきます」
ちーん。
二条の言葉が終わると同時に、エレベータが九階に止まる。和真、幽華、二条の順で下りた。
「どうだ、お嬢さん。何か感じるか?」
さっそく尋ねた和真に、幽華は小さく首を振る。実際はある種の気配の残り香を感じ取っていたが、そのような事実はおくびにも出さない。
「まだなんとも言えませんね。幽霊が出たというのはどこです?」
尋ねられると、二条は素早く歩を進めて先導する。
「こちらです。お客様が仰られることには、幽霊はこの九〇四号室の扉をすり抜け、邪悪な笑みを浮かべてから壁に溶け込んだとのことです。ちなみに、こちらの壁の向こう側は非常階段となっております」
「こちらの部屋に入れていただけますか?」
九〇四というプレートのついた扉を一瞥し、幽華が尋ねた。
二条は小さく頷き、ポケットからカードキーを取り出す。
しゅっ。
かちゃ。
開錠の音が響いてから、二条はドアノブに手をかける。扉はすんなり開いた。
「当時、こちらの部屋は空き室でございました。しかし、調べるとベッドには何者かが身を沈めた跡があり、洗面所も濡れておりました」
「……それは、幽霊というよりは不法侵入者なのでは?」
和真のもっともな疑問に、しかし、二条は首を振るう。
「この部屋の鍵はわたくしの持つマスターキーの他には、フロントに保管しております部屋固有のカードキーのみです。そちらのカードキーは間違いなくフロントにありましたので……」
「なるほど。そうすると幽霊……ですか。幽霊とははたして眠り、風呂に入るものなのか? どうなのだ?」
和真が幽華に向けて疑問を呈した。
しかし、そんな疑問などいざ知らず、幽華は部屋の内にて『幽霊』の残した気配を色濃く感じ取り、嘆息した。そこにあったのは、鬼の世特有の気配だった。
無賃宿泊というセコイ犯罪を為す、見ず知らずの鬼にあきれ果て、一人の鬼流(きりゅう)が頭を抱える。
――ふぅ。まさか本当に観光に来たのかしら。ともかく、鬼の末たる鬼流(きりゅう)として、この事実を公表するのはちょっと御免こうむりたいわね……
そのように考え、一転、幽華は満面の笑みを浮かべる。
にこり。
「幽霊とひと口に申しましても、その力の大小はさまざま。力強き霊は現世俗物に直接影響を与えうるのです。当然ながら、ベッドに寝転べばシーツは乱れましょうし、湯浴みをする変わり者もおりましょう」
常に完璧な笑顔を貼り付けて、幽華が堂々とした態度で言い切った。
和真は少しばかりの違和感を覚えたが、二条は感心した様子で疑うそぶりも見せない。
「そしてご安心下さい。こちらのお部屋にとどまりましたのは、邪悪な霊ではございません。先日お亡くなりになり、四十九日を待っておりました善良なる霊魂にございます。生前にこちらのホテルを気に入り、現世の最後の思い出にといらしたのでしょう。これから同じことが起きることはございません」
「さ、左様でございますか。では、お祓いなどもせずともよいのでしょうか?」
二条の問いに、幽華が小さく頷く。
「ええ。必要ないかと。しかし、どうしても気にかかるようでしたら、お清めはなさった方がよいでしょう。病は気から。霊障もまた然りです」
「なるほど…… それでは、お願いいたします。従業員の中には、先ほどの説明で納得しない者もおりましょう」
考え込んだ二条が、そのように結論づけた。
幽華は微笑み、言葉を続ける。
「諒解いたしました。では、櫻田さん。そちらの手配はおまかせします」
突然声をかけられ、和真が肩を跳ね上げる。そうしてから眉をひそめた。
「今、お嬢さんがやればよいのでは?」
できれば仕事を増やしたくなかった。この場で済むのならば、それに越したことはない。
しかし、幽華が和真の意に沿うことなく、首を左右に振る。
「私のような小娘がやったところで、それらしくないのです。僧侶然とした者、もしくは、神主然とした者でなければ、人々の心に安寧をもたらすには至りません。先ほども申しましたとおり、病は気からです。見た目というのは、存外大事なのですよ。そして、零係(ぜろがかり)ならばそちらへの――寺や神社への顔は広いでしょう? 我が気龍寺(きりゅうじ)は今、せわしいことですし」
その言葉を耳にすると、和真は小さく嘆息してから納得した。確かに、私服姿の少女が、お祓いやそれに準ずる行為をして見せたところで、どこか滑稽でしかない。気龍寺(きりゅうじ)が忙しいというのも、土蜘蛛事件の調査を依頼している当人の和真ならば、当然、了解している。
「わかった。龍神寺(りゅうじんでら)辺りを手配しておこう。支配人、明日でよろしいか?」
「ええ。お願いいたします」
話が決まった。
これで、鬼がせこい犯罪に手を染めたという事実が明るみに出ることはない。鬼の末たる鬼流(きりゅう)――幽華が、人知れず胸をほっとなでおろした。無意味なお祓いをすることになる龍神寺(りゅうじんでら)の僧侶には申し訳ないが、そこは我慢してもらおう。龍神寺(りゅうじんでら)もまた鬼流(きりゅう)を数名抱えている身である。無関係ではない。あとは任せるとしよう。
幽華は、ホテルドラグノ事件にこれ以上は関わらないことを、心に誓う。しかし、少しの不安が残る。マナーの悪い観光客が、これからも同様の事件を起こさないとは限らない。
細事を決めている和真や二条に察せられぬよう、幽華はニコニコと微笑み続ける。その心内では、何度も何度もため息をついていた。
ざーざーざーざー。
「清姫(きよひめ)殿」
路地裏で突然声をかけてきた男性二名を瞳に映し、清姫(きよひめ)が微笑んだ。見知った顔だった。
「あら、星熊(ほしぐま)様に虎熊(とらぐま)様ではございませぬか。酒呑(しゅてん)様と茨木(いばらぎ)様はご一緒ではないのですか?」
「皆で固まっておっても効率が悪い」
虎熊童子(とらぐまどうじ)が応えた。刈り上げた黒髪と、鋭い眼光が特徴的だ。
「清姫(きよひめ)殿はどうだ? 土蜘蛛(つちぐも)はおったか?」
尋ねたのは星熊童子(ほしぐまどうじ)だ。鮮やかな赤色をした長髪が目を引く。
問いを投げかけられた清姫(きよひめ)は、視線を泳がせ、曖昧に笑む。
「き、清(きよ)は煌びやかな現世は不得手にございます。目を引くものばかりでどこがどこなのやら。惑うてばかりで、捜索どころではございませんでした」
――やれやれ
星熊(ほしぐま)、虎熊(とらぐま)、それぞれが、苦笑と共に首をゆっくりと振った。彼らも清姫(きよひめ)とは数百年来の付き合いである。彼女が目的を忘れてはしゃいでいただろうことは、想像に難くない。
しかし、そのようなことを指摘したところで時間の無駄である。気を取り直し、本題に移る。
「紅葉(もみじ)殿より伝令だ。今晩、この町で一番大きな建物の頂上に集え」
「呉葉(くれは)お姉様が? 如何なる御用でございましょう?」
「さあな。知らん。それは紅葉(もみじ)殿当人に訊けばよい」
星熊童子(ほしぐまどうじ)の言葉に、清姫(きよひめ)は頷き、納得する。
「左様でございますね。それでは日が暮れるまで物見――いえ、探索を続けるといたしましょう。清(きよ)はあちらの騒がしいお店を探しますわ」
そう口にして清姫(きよひめ)が指差した先には、ゲームセンターがあった。土蜘蛛が絶対に居ない、とは断ぜられないが、それでも可能性としては非常に低いだろうと予想できる。
しかし、彼女の瞳はランランと輝いており、期待に満ちている。これから彼女が為すことを妨ぐのは難しいだろうことが窺えた。
「……ほどほどにな、清姫(きよひめ)殿」
「……まったく」
さっ。
静かに姿を消した男性二名を見送って、清姫(きよひめ)は手にしている唐傘をくるりとまわした。
たったったたん。
そして、楽しそうにステップを踏みながら目的の場所へと向かった。
臥龍(がりゅう)大学B−七〇七講義室での、古典文学論の授業中のことである。
「ねーねー、柚紀(ゆずき)」
「ん?」
「三メートルの蜘蛛っているかなー?」
「いないでしょ」
「だよねー」
当然の結論に落ち着いた雑談は、そこで終了した。
薫は納得しながらも、少しばかりの違和感を覚えていた。会話内容や結論に関する違和ではない。原因を明確には判ぜられない、不可解な違和感である。
――まただ。なんでだろ。この間から胸の辺りが……
ぎゅっ。
胸の前で拳を強く握りつつ、薫はぶんぶんと首を振るう。どのような感情なのかもよく分からない、そんな気持ちを吹き飛ばす。
そうしてから、彼女は退屈な授業に対し、努めて意識を向けた。