第3章 百鬼の行く夜
降り頻る雨のなか

 ざーざーざーざーざーざーざー。
 水曜日の深夜。大粒の雨が激しく降りしきる中、六名の男女が臥龍(がりゅう)大学教員棟の屋上に集っていた。彼らは皆、一様に黙り込んでいる。
 そんな折、艶やかな黒髪の少女が、手にしている唐傘をくるくると回しつつ口を開く。
「……呉葉(くれは)お姉様。それは真にございますか?」
「おそらく、としか言えん。清(きよ)。お主も知ってのとおり、土蜘蛛(つちぐも)のやつは何も語らぬからな。状況証拠から推理した仮説だ」
 瞳を閉じて腕を組み、清姫(きよひめ)の問いに呉葉(くれは)が応えた。
「……数日続く雨天。あの地形。成る程、可能性はあるか」
「土蜘蛛(つちぐも)殿は五感が優れておりますゆえ、いち早くお気づきになられていてもおかしくはありませぬな」
 酒呑童子(しゅてんどうじ)、茨木童子(いばらきどうじ)がそれぞれ呟いた。
「だが、そうなると如何する? 我らの力で防げるか……」
「そもそも、防ぐ必要があろうか? 土蜘蛛(つちぐも)殿は何ゆえに?」
 続いたのは虎熊童子(とらぐまどうじ)、星熊童子(ほしぐまどうじ)だ。
 皆が黙り込む。解は判じ得ない。
「……わらわにも土蜘蛛(つちぐも)の考えの全てを読むことは能わぬ。が、あやつが望むならば、放っても置けまいよ。しかし、人間のお偉方への注進は失敗したようだ。さて、どうするつもりか」
 ふん。
 誰に向けるでもなく独白し、呉葉(くれは)が不機嫌そうに鼻を鳴らした。苛立たしげに強く強く拳を握り締める。白く細長い指先が、より一層白く成る。
「お姉様……」
 清姫(きよひめ)が眉尻を下げ、哀しそうに呟いた。
 酒呑童子(しゅてんどうじ)をはじめ大江山の鬼たちは、天を仰ぐ。曇天の合間から、月明かりがひと筋だけ降り注いでいた。かすかな、本当にかすかな光である。
 ふぅ。
 呉葉(くれは)もまた、その光を目にして息をつく。
「人は闇を厭い、それでも、闇は人を愛す…… 古より変わらず、俗世とはかくも不条理なものよな」
 彼女はすっと一歩を踏み出した。
「お姉様?」
「土蜘蛛(つちぐも)がわらわを遠ざけようとも知ったことか。わらわはわらわのしたいように生きる。遥か昔よりそう生きてきた。変えるつもりなど毛頭ない」
 その言葉を耳にし、その場に集った者は皆小さく頷く。
「行くぞ。その時に備え、あの地で待機じゃ」
「応よ!」
「清(きよ)はお姉様について参りますわ!」
 呉葉(くれは)の呼びかけに、酒呑(しゅてん)、清姫(きよひめ)の順に応えた。
 さらには、茨木(いばらぎ)、星熊(ほしぐま)、虎熊(とらぐま)もまたそれぞれに力強く頷く。
 ざーざーざーざーざーざーざー。
 大きな大きな雨粒が地面を叩く。悲劇の種が育ってゆく。

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
 木曜日の午後。台風が日本列島に上陸したとのことで、龍ヶ崎町もまた相変わらずの悪天候に見舞われていた。
 そのように足元の悪い中、白夜知稔(びゃくやちねん)を筆頭に、気龍寺(きりゅうじ)の鬼流(きりゅう)たちは足を棒にして町中を調べて回っている。
「白夜(びゃくや)さん。首尾はどうです?」
 知稔(ちねん)たち鬼流(きりゅう)一行に声をかけてきたのは、龍ヶ崎(りゅうがさき)署の刑事二人組である。きっちりとネクタイを締めた様子がやや暑苦しい。
「あまりよろしくないですな。二日前から山野にて感じる気配をいくつか捜索しておりますが、たまたまおった邪霊や妖怪でございました。土蜘蛛(つちぐも)と思しき存在は見つかっておりませぬ。また、ここまでの悪天候ともなりますと無理はできませぬゆえ……」
 鬼、紅葉(もみじ)との邂逅ののち、知稔(ちねん)たちは山野の捜索を開始した。紅葉(もみじ)の言から、土蜘蛛(つちぐも)の存在が確実なものとなったためだ。町中よりは山野の方が土蜘蛛(つちぐも)の性質に合っているだろう、と。
 ただし、彼らは今のところ、土蜘蛛(つちぐも)を討伐する気がない。同様に、紅葉(もみじ)たち、鬼との対決もまた避けたいところだった。
「そうですねぇ。台風が近づいてますし、さすがに山中の捜索は見合わせるべきでしょうね。それで今は何を?」
 雨天を見上げてため息をついてから、刑事が尋ねた。
「聞き込みをしておりました。巷に流れる噂も馬鹿に出来ぬものですからな」
 そう口にしてから、知稔(ちねん)が自嘲気味に苦笑する。先のように話しながらも、いまだ有益な情報を見つけられていないためだ。
 刑事もそのような事情を察し、同様に苦笑した。
「お疲れ様です。そういった仕事は本来私どものもの。申し訳ないです」
「なぁに。刑事殿はもっと重要なお仕事をなされておるのです。お気になさいますな」
「そう仰っていただけると助かります」
 刑事らは現在、市長が土蜘蛛(つちぐも)から受けた襲撃予告の中にあった地域を見張っている。山麓の廃れた地方で、家屋も五、六軒ほどが並ぶ程度である。
 零係に属す刑事はそもそも数が少ないため、そちらの見張りについてしまえば空き人員はないに等しかった。その空き人員ですら、市長の警護に当たっており、零係に人的余裕などありはしない。
「正直なところ、僕としては市長の警護なんて必要ないと思うんですけどねぇ」
 問題発言ともとれることを口にするのは、二人組のうち若い方の刑事だった。
「そこは思っていても言うな」
 年かさの刑事もまた、特に否定はせずに、注意も弱い。
 鬼流(きりゅう)たちは苦笑し、それから、知稔(ちねん)が代表して口を開く。
「時に刑事殿。山麓の地域に異常などはございませぬかな?」
「ええ。特に何も。お父さんが朝早く通勤し、続けて子供たちが通学、そして、お母さん方が路上で井戸端会議、もしくはそれぞれの家で噂話。どこにでもある日常の風景しか目にしていません。やあ、平和なもんです。ついでに、市長を警護している者からも異常なしとの報告が上がっていましたよ」
 首を左右に振って、肩を竦め、刑事が嘆息した。見張り甲斐がないのだろう。しかし、退屈であることこそ、彼の職務上望ましいとも言える。やりがいの有無はともかくとして。
 ――何も起こらないにこしたことはないが……さて
 ふぅ。
 小さくため息をついて、知稔(ちねん)が項垂れた。
 土蜘蛛(つちぐも)と鬼たちの存在が確実である以上、あまり楽観も出来ない。心労が絶えなかった。

 しとしと。
 金曜日。台風の中心は夜中のうちに過ぎ去ったらしく、午前中から午後にかけて、残りかすのような弱い雨が続いている。
 臥龍(がりゅう)大学では、二回生の天笠柚紀(あまがさゆずき)と久万月薫(くまづきかおる)が、今週最後の授業を受け終え、共に学食で寛いでいた。
「んー。やっと終わったねー」
「雨続きの週に課題出る授業がてんこもりとか、とんでもない嫌がらせだったわね」
 体を伸ばして満面の笑顔を浮かべた薫に対して、柚紀(ゆずき)は机につっぷして疲れた顔をしていた。
 その様子を目にし、薫は柚紀の顔をひょいと覗き込む。
「ほらほら、柚紀。笑顔でいないと幸せが逃げちゃうんだよー」
 にぱっ。
 元気な笑顔が、あたかも太陽のように輝いた。
 柚紀がつられて微笑む。
「薫は可愛いわねー。家事は私がやるから嫁に来なさい」
「やたー。三食昼寝つきだー」
 ばんざーい、と両腕を振り上げた薫を瞳に映し、柚紀はぷっと吹き出す。
 それから双方見つめあい、声を出して笑った。
「今週は薫に救われたわね。まさか月曜の睨みと殴りが一週間も効果を持続させるとは…… 薫が居なかったらぼっち街道まっしぐらだったわ」
 ひとしきり笑ってから、柚紀が苦笑して言った。
 彼女の言うとおり、彼女の学友諸子は今週に入ってから疎遠だった。さすがに、月曜に睨みすぎた、もしくは殴りすぎたらしい。朝方会うなり、丁寧すぎる挨拶をされる以外は、学友と言葉を交わす機会がほとんどなかった。
「まあ、雨で授業に来てない子も多かったけどねー」
「そうなんだけどさ。それにしても、遠巻きにしてヒソヒソされるのはあまり気分よくないわぁ」
 幾度かそのようなことがあったらしい。
 しかし――
「あー、それ悪口じゃないよ。あたしもちょっと気になって、ヒソヒソしてる人のとこにこっそり近寄ったんだよねー」
 そこまで口にし、薫がくすくすと笑う。
「……何よ?」
 柚紀が尋ねた。
 薫は含み笑いを続けつつ、口を開く。
「その子たちねー。『柚紀ってちょっと素敵だよねー』とか言ってたんだよ? モテモテじゃーん」
 腕をパタパタさせつつ、薫は満面の笑みを携えて楽しそうに言った。
 一方で、柚紀が項垂れる。
「……薫。それ言ってたの、男子?」
「まっさかー。そんな訳ないでしょー」
 断言する薫。
 はあぁああぁああ。
 柚紀が深い深いため息をついた。
 そんな彼女を横目に、薫は、あ、そうだ、などと口にして、にっこり笑う。
「そーいえば柚紀。明日って暇?」
 問われると、柚紀は寸の間考え込む。
 明日、土曜日は珍しく晴れるらしかった。台風が過ぎ去り、数日ぶりの晴れ間を拝める日になるという。天気予報によれば日曜日もまたあいにくの雨天とのことであるから、本当に珍かな日となるだろう。お出かけや洗濯のチャンスだ。
 ――阿鬼都(あきと)と健太(けんた)くんのサッカーは、川辺はまだ危ないだろうから無しとして…… 鬼沙羅(きさら)に料理を教える予定もなかったわね。ちょっと実家に一旦帰ろうかとも思ってたけど、それはまた違う日でもいいか。洗濯は朝に済ませちゃえばいいし
 そこまで思考し、柚紀は薫に瞳を向ける。
「うん。暇」
 その応えに、薫が満足そうに笑う。
「よし。じゃー、お祭りいこー」
「お祭り? 稲荷神社の境内に屋台が出るアレ?」
 久万月家の近所に小さな稲荷神社がある。その境内では毎年、夏の名残が見え隠れする秋口にささやかな祭りが催される。
「そー。毎年そうだけど、けっこー屋台出るよ。まあ、雨続きだったから予定より少なくなるみたいだけどね。ほら、柚紀んち今双子ちゃんいるでしょ? どーかなーって」
 正直なところ、柚紀はその祭りを子供向けのしょっぼい祭りであるとしか思っていなかった。それゆえ、誘われたことに疑問を覚えずにはいられなかったのだが、なるほど、彼女の家にお子様が二名ほどいる現状を鑑みれば、納得のお誘いではあった。
 ――お祭り、かぁ。まあ悪くはないのかな。鬼が神社のお祭りで遊ぶってのも妙だけど……
 苦笑しながらも、柚紀は一度小さく頷く。
「そうね。じゃあ、行こうかな。他にも誘っていい?」
「勿論。人数多い方が楽しいもんねー。誰を誘うの?」
 友の問いに応える前に、柚紀は携帯電話を取り出す。そして、片手でボタンを繰りつつ、口を開く。
「私んちのお隣に住んでる長谷部さん。お母さんはもしかしたら仕事かもしれないけど、息子さんの健太くんは小学校休みだと思うから」
 そこまで口にしてから、柚紀は携帯電話の送信ボタンを押下する。
 電波に乗って、お手紙が秋の空を舞った。
「それともう一人――」
 ぴろりろりーん。
 柚紀の言葉を遮って、電子メールの着信音が鳴り響いた。
 液晶画面に映る、メールの発信者の名前を目にして、柚紀が苦笑する。
「え? それ返信? 早っ!」
 薫が驚愕してから、やはり苦笑し、柚紀の承諾をとってから液晶画面を覗き込む。
「えーと、発信元が――木之下幽華(きのしたゆうか)? あー、あの霊感少女と名高い…… 柚紀、友達だったんだー」
 感心したように呟き、薫はさらにメール本文に目を走らせる。
「それで何々…… あー、こりゃー返信も早いわけだねー」
 彼女はそう口にし、再度苦笑した。
 メールの本文にはただひと言、『行く!』とだけ書かれている。
 画面から、そこはかとなく必死さが漂っていた。

「わーい。お祭りー」
「おっ祭りー」
 柚紀が帰宅し、双子にお祭りのことを伝え、ついでにお祭りがどういったものか教えると、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)は楽しそうに部屋をぱたぱた駆け回った。
 苦笑して、柚紀がぱんぱんと手を叩きながら、口を開く。
「はいはい。落ち着きなさい。ああ、それと言っとくけど、私の友達も来るから妙な力を使ったりとかしないでよ」
 妙な力とは主に、空を飛んだり、犬を吹き飛ばしたり、炎や水を召喚したり、といった不可思議な事象を指す。流石に誤魔化しがたい。
 双子は、はーい、と素直に返事する。その後、顔を見合わせる。とても気になることがあるのだ。
「ところで柚紀ぃ」
 鬼沙羅(きさら)が呼びかけた。
「何?」
 今度は妹に代わって兄が――阿鬼都(あきと)が口を開く。
「友達って男?」
 ……………………………………………………
 沈黙が、長く続いた。
 しばしの時を経て、時が動き始める。
「女だけど、それが――何か?」
 剣呑な目つきを携えて、柚紀が尋ねた。
 すると、双子が楽しそうな笑い声を漏らす。
 くすくす。
『柚紀ってやっぱりモテないんだねー』
 ユニゾンでの駄目だしだった。
「やあぁあっかましいいぃいんじゃああぁああああああぁああ!!」
 久方ぶりの大音量な切り返しであった。
 ご近所の方々も、久しぶりであったがゆえに、寧ろ懐かしがったとかそうでないとか。

 ふんふふーん。
「おっ祭りー!」
 気龍寺(きりゅうじ)にて、ご機嫌な声が廊下を駆け抜ける。続けて、幽華(ゆうか)がスキップをして通る。
 僧たちは何事かと戸口から顔を出し、首をかしげた。
「如何いたしました? 嬢」
 代表して知稔(ちねん)が尋ねた。
「知稔(ちねん)。浴衣ってある?」
 質問には応えずに、幽華が満面の笑みと共に尋ね返した。
 知稔は何となく事情を察し、苦笑した。
「押入れに数着ございますゆえ、出しておきましょう。着付けは明日、近所のご婦人にお頼みしましょう」
「そうね。お願い」
 キラキラと光る瞳を細め、幽華が微笑んだ。近年まれに見る機嫌のよさだった。
 彼女の様子を目にして、知稔は誓った。
 ――浴衣を購入なされたのが実明(さねあき)殿だ、という事実は伏せておくといたそう
 実明は、いつか着る日が来るだろうと、幽華のために毎年こっそりと浴衣を購入していた。早い話、親馬鹿なのである。
 しかしそのようなこと、反抗期まっしぐらの幽華に知れたならば、不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)で気龍寺ごと浴衣を燃やしかねない。
 知稔は、出遭った鬼、紅葉(もみじ)よりも、そして、土蜘蛛(つちぐも)よりも、想像の中の幽華に戦慄した。
「くわばら、くわばら」
「何が?」
 小首を傾げて尋ねる幽華に対して、知稔は応えず、ただ肩を竦めた。貴女が恐ろしいのですよ、などと言えるはずもない。
 なおも不思議そうにしている少女は、しかし、明日の催事に気を向け、頬を緩めた。
「まあ、いいわ。よろしくね、知稔」
「はっ。承知」
 ふんふふーん。
「柚紀と一緒におっまっつりー!」
 少女の笑顔と機嫌と、浴衣数着と気龍寺が、見事守られた。
 沈黙こそが正しきこともある。心の底からそう思う、白夜知稔であった。

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