第3章 百鬼の行く夜
集い凶牙と相成りや

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
 曇天が月明かりを遮り、雨脚が強まる中、身体が濡れることも厭わずに、鬼流(きりゅう)と鬼――木之下幽華(きのしたゆうか)と酒呑童子(しゅてんどうじ)がにらみ合っていた。数秒間そのように過ごし――
 だっ!
 酒呑童子(しゅてんどうじ)が駆け出した。向かう先は当然ながら、幽華(ゆうか)である。
 びゅっ!
 幽華(ゆうか)が浴衣の袂からビー玉を数個とり出し、駆け寄る鬼に投げつけた。
 放たれたビー玉は淡い光を発しながら、酒呑童子(しゅてんどうじ)の眉間に向かって真っ直ぐに飛び行く。
 童子はその全てを、力を込めた両腕を薙いで吹き飛ばし、顔に野蛮な笑みを貼り付けて駆け続ける――が……
 ざっ!
 突然、酒呑童子(しゅてんどうじ)が飛び退った。
 がっがっがっ!
 彼が先ほどまでいた地面を、輝く玉が襲った。
 玉は酒呑童子(しゅてんどうじ)の一撃を受けて吹き飛ぶこともなく、更なる攻勢に転じたのだ。地面は思いのほか大きくえぐれており、その弾丸を身に受けていたならば、ただの怪我ではすまなかっただろうことが窺える。そして、弾はやはり止まることなく、地から出でて敵を襲う。
 ひゅぅ。
「一度はじき飛ばしただけじゃあ、完全には防げねぇか! 厄介じゃねぇか!」
 ぎんッ。
 口笛を吹き、楽しそうに叫ぶ酒呑童子(しゅてんどうじ)。襲いくる輝玉を、今度は拳で完全に砕いた。
 くすり。
「お褒めに預かり――恐悦至極!」
 一方で、幽華(ゆうか)は不適な笑みを浮かべ、メンコを思い切り地面に叩きつける。
 ばあぁあんっ!
 突風が巻き起こり、旋風が酒呑童子(しゅてんどうじ)を目指して勢いよく駆け抜けた。
「ぐおっ!」
 小さく悲鳴をあげて、酒呑童子(しゅてんどうじ)が宙を舞った。そのまま十数メートルほど吹き飛ぶ。
 鬼に暇を与えることなく、幽華(ゆうか)が詠唱を始める。
「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ――」
 大気に満ちる湿気や、降り来る雨滴に負けることなく、それどころか、際限なく滴る水分を全て蒸発させながら、鬼流(きりゅう)――木之下幽華(きのしたゆうか)の周りに炎が集う。
「センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」
 炎は連なり、形を成し、凄まじい形相の明王の姿をとった。
「不動明王(ふどうみょうおう)、火界咒(かかいじゅ)!」
 ぶわああぁあああぁあ!!
 雨粒を蒸発させながら、炎が闇夜を駆け抜ける。その姿は、悪鬼をなぎ倒す不動明王の姿そのものであった。
 強力なその一撃は、しかし……
「はああああぁああああぁあッッ!!」
 ばんっっ!!
 盛大な物音と共に、吹き飛んだ。
「はっ! なめんじゃねぇぞ! 不動明王(ふどうみょうおう)ごときに遅れをとる酒呑童子(しゅてんどうじ)じゃねぇよ!」
 叫んだ鬼の気迫が、気合が、炎を霧消させたようだ。
 幽華(ゆうか)は頬にひと筋の汗を伝わせ、小さく、笑む。
「……伝説というのも伊達ではないようね」

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
 視線の先で巻き起こる凄まじい光景に、ある者は呆然とし、ある者は地団駄を踏んだ。
「……………映画の撮影かなー。ねー、柚紀(ゆずき)」
「あー、たぶん、そんなとこじゃない?」
「さいきんはとくしゅこうかがすごいんですね……」
 現実逃避しているのが久万月薫(くまづきかおる)、引きつった笑みを浮かべて適当に応えているのが天笠柚紀(あまがさゆずき)、そして、遠い目をして呟いたのが長谷部健太(はせべけんた)だ。十数年、あるいは、数年、生まれてからずっと日常を過ごしてきた者たちは、総じて脱力した。
 一方で――
「むうぅぅ! 幽華(ゆうか)のやつ、僕らの――というか、柚紀(ゆずき)の相手をするときは手加減してたなー! あとで文句言ってやる!」
「んー、わたしはお礼を言いたい気分だけど…… あんなの酒呑(しゅてん)ちゃんじゃなきゃ絶対防げないしー」
 生れ落ちてより、非日常と共に日々を過ごしてきた者たちは――阿鬼都(あきと)は立腹し、鬼沙羅は苦笑いを浮かべた。共に、目の前の光景を当たり前のこととして認識している。
 そんな彼らのもとへ、影が忍び寄る。
「阿鬼都(あきと)様。鬼沙羅(きさら)様。お久しゅうございます。茨木(いばらぎ)にございます」
 突然の声に、柚紀(ゆずき)、薫(かおる)、健太(けんた)が跳び上がる。つい先ごろまで存在しなかったはずの男を瞳に入れて、瞠目した。
 しかし、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)は、さも当然という風に、視線を声の主へと向けた。
 開襟シャツに華奢な身体を包んだ青年が、雨粒を避けることもなく低頭している。目にかかる程度の長さの黒髪が、しとしとと水を滴らせていた。
「うん、まあ、酒呑(しゅてん)がいるなら、お前もいるだろうとは思ってたよ」
「腰巾着だもんね」
「恐縮にてございます」
 深く低頭しながら、茨木童子(いばらぎどうじ)が言った。
 そうしてから、彼は頭を上げ、薫に視線を送る。
「……な、なんでしょう?」
「失礼」
 薫が怯えた様子で尋ねると、茨木(いばらぎ)はやはり慇懃に礼をした。
 すっ。
 鬼が人へと手を伸ばす。その目的は――
 ばんっ!
 茨木童子(いばらぎどうじ)の身体に衝撃が走った。腕が弾かれ、痺れる。
 いつの間にやら移動していた鬼沙羅(きさら)が、鋭い目つきを茨木童子(いばらぎどうじ)へと向け、佇んでいる。
 鬼から表情が消える。
「……何をなさいます? 鬼沙羅(きさら)様」
「酒呑(しゅてん)ちゃんやいばちゃん、星ちゃん、熊ちゃんが何をしたいのかは知らないよ。誰に迷惑かけたって、誰をいじめてたって、前鬼や後鬼が何も言わないんなら、わたしだってお兄ちゃんだって気にしない。でも――」
 小さな体から力が立ち込める。酒呑童子(しゅてんどうじ)や幽華(ゆうか)には及ばない、小さな力である。それでも、充分な気迫が伝わってくる。
「わたしの、わたしたちの大好きな人たちに手出しするっていうなら、話は別だよ!」
 想いを叫んだ。
 ふぅ。
 茨木童子(いばらぎどうじ)は嘆息し、頭を抱えた。右手で両目を覆って、黙する。
 そして、数秒ののち――
 ちっ。
 舌打ちした。
「この糞餓鬼が、ナマ言ってんじゃねぇぞ、おい……!」
 びくぅ。
 当事者の鬼沙羅(きさら)は、相変わらず茨木童子(いばらきどうじ)を睨みつけているが、第三者である柚紀(ゆずき)や薫、健太は慄き、肩を跳ね上げた。丁寧な物腰が似合う優男の変貌に、緊張で全身を固くしていた。
 ――はぁ。相変わらずの二重人格だなぁ
 阿鬼都(あきと)は小さく息をつき、呆れた表情で肩をすくめる。そうしながら、手にしていた水ヨーヨーに力を込めて茨木童子(いばらぎどうじ)に放つ。水ヨーヨーはその弱々しい見た目とは裏腹に硬度を増し、茨木(いばらぎ)を襲う。しかし――
 しゅっ! ばしゃ!
 茨木(いばらぎ)の手刀にて、ヨーヨーは儚く割れた。
「ちぇ。せっかく頑張って取ったのにさ」
 阿鬼都(あきと)がぼやきつつ、鬼沙羅(きさら)の隣に並んだ。
 腰に手を当てて佇み、にやりと笑う。
「糞餓鬼上等ってね。お前みたいな危ない奴、柚紀(ゆずき)や健太には近よらせないよ」

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
「まあ。何やら、物騒な気配を感じますわね、呉葉(くれは)お姉様」
 山裾から遠く離れた草原(くさはら)の一画。そこには、数多の人間が――山麓の地域の住人たちが、そして、警備にあたっていた零係(ぜろがかり)の刑事が意識を失い、倒れ伏していた。しかし、彼らが雨粒に濡れることはない。鬼――清姫(きよひめ)の力により、彼らの周りには不可視の円形の壁が作られていた。
「……ちっ。戦う必要なぞあるまい。何をやっておる、たわけ共が」
 不機嫌そうに、呉葉(くれは)が目つき鋭く呟いた。
 そして、彼女は突然ふわりと浮かび上がる。
「清(きよ)。ここを頼む。わらわはあやつらを連れてくる」
「はい、お姉様。お任せ下さいませ」
 ひゅっ!
 清姫(きよひめ)が笑顔で応えるのとほぼ同時に、呉葉(くれは)は飛び去った。凄まじい速度で、山麓へと向かった。
 彼女を見送ると、清姫(きよひめ)がぽんと手を打つ。
 にこり。
「さて。お姉様からお任せされましたことでございますし、そちらでお隠れあそばしておられる方々の処分を、きっちりいたすとしましょう」
 鬼が微笑み、そう言った。
 それにともない、背の高い草が密集している辺りが、がさごそと揺れた。
 坊主頭の僧侶が三名、現れる。
「あら。貴方がたは気龍寺(きりゅうじ)というお寺にいらした方々ではございませぬか。ここで何をなさっておいででしょう?」
 清姫(きよひめ)の前に現れたのは、彼女の言葉通り、気龍寺(きりゅうじ)の僧たち――白夜知稔(びゃくやちねん)、根津英俊(ねづえいしゅん)、上谷安孝(かみやあんこう)であった。この近在で大きな蜘蛛が現れたらしいという巷説を耳にした彼らは、その確認と、刑事たちとの情報交換を目的としてやって来たのである。
 しかし、彼らが遭遇したのは、土蜘蛛(つちぐも)ではなく、刑事たちでもなかった。
「なぜ、拙僧らのことを…… もしや――」
 先の清姫(きよひめ)の言葉に、知稔(ちねん)が眉を顰める。
「知稔(ちねん)殿。あの夜に私が見た女性とは、彼女のことだ」
 鬼流(きりゅう)が――英俊(えいしゅん)が呟いた。彼は、数日前に清姫(きよひめ)を目にしていた。気龍寺(きりゅうじ)の僧侶全員の顔に悪戯書きが為された、数日前の夜中に。
 その時、侵入者は――清姫(きよひめ)は、ひと睨みで気龍寺(きりゅうじ)の僧侶全てに金縛りをかけた。鬼流(きりゅう)である彼らも含め、全員に。そのような業は、容易なことではない。
 清姫(きよひめ)の力が、相当に強いことを窺える。
「……ご婦人。何ゆえに人を攫いなさる? その理由によっては――」
 ざっ!
 恐怖を覚えながらも、気龍寺(きりゅうじ)の僧侶たちは――鬼流(きりゅう)は、雄雄しく立ち、身構える。あらかじめ力を込めておいた札や鈴を手にし、清姫(きよひめ)に相対する。
 くすり。
 その様子を清姫(きよひめ)はおかしそうに見つめる。
「まあ、僧侶様。清(きよ)は恐ろしゅうございますわ。貴方がたが憎くて、憎くて、どうしようもなく憎くて…… 焦がれるこの身が――」
 ざわっ。
『恐ろしゅうて、仕方がないのでございます』
 そう呟いたのは、全長五メートルはあろうかという大蛇だった。
 清姫(きよひめ)が、変貌したのだ。
「お、オン マイタレイヤ ソワカ!」
 ばっ!
「オン バザラ ダド バン!」
 ちりん。
「ノウマク サマンダ ボダナン アビラ ウンケン!」
 力強い言葉を吐いた僧侶たちから、衝撃波が生まれる。彼らの力は、札や鈴を媒体として増幅されていた。
 その強き波は大蛇へと向かい、しかし――
 すぅ。
 静かに消え去った。
『おとなしくなさって下さいませ。決して痛くはなさいません。全てが終わるまで――』
 ぎろり。
「ぐっ…… 体が……動かぬ……」
『お休み下さいな』
 彼女のひと睨みが、鬼流(きりゅう)三名全員の体の自由を奪った。

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
 ばぁんっ!
 茨木童子(いばらぎどうじ)の生み出した衝撃波が阿鬼都(あきと)を襲う。その上で、童子は素早く移動し、鬼沙羅(きさら)の小さな腕をとる。
「痛っ!」
「はっ! どうだ! 糞餓鬼! この程度でこの俺に挑もうってかぁ! あぁ!?」
「鬼沙羅(きさら)! くそ! オン バザラ ヤキシャ ウン!」
 どんっ!
 阿鬼都(あきと)の真言によって生じた力が、茨木童子の足元を襲った。それによって、彼は体制を崩した。
「ちぃっ!」
「か、掛(か)けまくも畏(かしこ)き祓処(はらひど)の大神等(おほかみたち) 万(よろづ)の枉事(まがごと)罪(つみ)穢(けがれ)を攘(はら)ひ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)へと 畏(かしこ)み畏(かしこ)みも拝(おが)み奉(まつ)らくと白(まを)す!」
 童子に生じた一瞬の隙を見逃さず、鬼沙羅(きさら)が祓詞(はらえことば)を詠んだ。ぱぁん、と高い音が響き、茨木童子の体が弾かれる。
 そして――
「いっけえぇえ!」
 鬼沙羅が叫ぶと、彼女の腕に納まっていた白黒のぬいぐるみが巨大化する。概算で二メートルほどになり、動き出す。
 どがっ!
 ぬいぐるみは勢いよくその腕を振るい、茨木童子を吹き飛ばした。
「……ちっ! このっ! 痛えぇなごらあぁあ!!」
 表情を醜く崩し、茨木童子が叫んだ。伴って、彼の腕の筋肉が不自然に盛り上がる。その異形の腕から――
 ズンっ!
 凄まじい勢いの衝撃波が生じた。力の波は寸の間に、鬼沙羅へと向かった。その速度は目を瞠るものであり、鬼沙羅は体を強張らせ、瞳をぎゅっと瞑ることしかできなかった。
 雨粒を巻き込んだ、あたかも氾濫した河川のような奔流が、女児を襲う。しかし――
「祓(はら)ひ給(たま)へ 清(きよ)め給(たま)へ 神(かむ)ながら 守(まも)り給(たま)へ 幸(さきは)へ給(たま)へ!」
 ぱんっ!
 茨木童子の生み出した衝撃波が霧散した。光の壁に阻まれた。
「……あん?」
「子供に何するのよ! この気狂い野郎!」
 光を生み出した者が、柚紀(ゆずき)が叫んだ。その顔からは多少の怯えが窺えるが、それよりも怒りの方が勝っているようだ。
 茨木童子(いばらぎどうじ)はそんな彼女を瞳に映し、鋭い目つきを更に鋭くする。
「あぁ!? 何だとこのアマ! ぶっ殺されてぇの――」
 どがああぁああんっ!
 轟音が響いた。
 その残響が消える頃、茨木童子(いばらきどうじ)は目を回して倒れ伏し、動かなくなっていた。
「やかましいわ、このうつけがっっ!!」
 倒れ伏す者を激しく踏みつけて、突如現れた女性が声を張り上げた。彼女はガシガシと蹴りを放ち、執拗に茨木童子を痛めつける。そして、二度、三度と鬼を蹴ってから、今度は地を蹴った。重力に逆らって久万月家の屋根を悠々と越えていく。
 …………………………………
 その場にいた者が、皆一様に沈黙し、佇んだ。
「えーと…… 大丈夫か、茨木?」
 阿鬼都が頬にひと筋の汗を伝わせながら尋ねるが、茨木はぴくりとも動かなかった。
 鬼子たちは顔を見合わせて、肩を竦める。そして、雨脚の激しい天を仰いだ。
 裏手の山肌に沿って、夜天を影が翔けていく。

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
 山の中腹で争い、移動するうちに、幽華(ゆうか)と酒呑童子(しゅてんどうじ)はいつの間にか山深くにまで足を踏み入れていた。
 炎や光が、掌底や拳が、夜の山を飛び交う。攻防が山間の木々を軋ませ、葉が弧を描きながら散る。
「高天原(たかまがはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は――」
 幽華(ゆうか)がヨーヨーを器用に操り、酒呑童子(しゅてんどうじ)の動きを牽制しながら詠唱を始めた。彼女の言葉が連なるごとに、雨露が集い、形を成していく。
「はーっはっはっはっ! それそれそれそれ!」
 一方、酒呑童子(しゅてんどうじ)はヨーヨーの二撃、三撃をものともせず、幽華(ゆうか)へと向けて拳を突き出す。その全てには、尋常ならざる力が込められていた。大地や木々が、あたかもガラス玉であるかのように、容易に砕ける。
 対する幽華(ゆうか)はビー玉をぶつけたり、足さばきで避けたりしながら、鬼の連撃を防ぐも、戦況としては不利と判断せざるを得なかった。
 少女の頬を、滴り落ちる雨水に混じって、一筋の汗が流れ落ちる。
「……万物(よろづのもの)の病災(やまひ)をも立所(たちどころ)に祓(はら)ひ清(きよ)め給(たま)ひ 万世界(よろづせかい)も御祖(みおや)のもとにおさめせしめ給(たま)へと 祈願(こひねがい)奉(たてまつ)ることの由(よし)をきこしめして――」
 そのような中でも、龍神祝詞(りゅうじんのりと)が完成へと近づいていく。それに連れて、集った濃い水の気が、大きな大きな龍へと成っていった。
 そして遂に――
「六根(むね)の内(うち)に念(ねんじ)じ申(まを)す大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)す!!」
 ぐわあああぁあああぁあ!
 水の神が――龍神が顕現し、大気をその咆哮で揺らした。
 龍は口を大きく開き、鬼の存在を砕こうと、勢いよくその牙にかける。
 がぎいぃい!
「うおっ! こ、こいつは――」
 酒呑童子が龍の口を押さえる。体全体で、閉じ行く顎を押し留める。
 ぐぐぐ……!
「うおおおぉおおおおおぉおぉおぉおおおぉお!!」
 彼は叫ぶと、両腕、両脚、金の髪先から指先まで、全身に全霊で力を込める。光を放ち、夜天を染める。
 鬼の生み出す力が伝播し、水の神を模したモノが震える。振動はようよう大きくなり……
 ばちいぃんっ!
 龍が――水が、弾けた。
「なっ!」
 幽華(ゆうか)が驚愕の声を漏らした。
 彼女を瞳にいれ、酒呑童子(しゅてんどうじ)が不適に笑う。そして、驚きにともなって隙が生じた鬼流へ向け、止めの一撃を――
「たわけがああああぁああぁあッッ!!」
 どおおぉおぉおんっ!
 突如、強き力が酒呑童子の頭部を襲った。それにより、彼は否応なしに地面と口付けをすることとなった。
 ぱち、くり。
 幽華(ゆうか)は雨粒に頬を打たれながら、目をしばたたく。
 彼女の視線の先には女性がいた。艶やかな茶の髪が、雲間から微かに漏れる月明かりを受け、雨露と共に綺麗に光っている。そして、彼女の足元には強き鬼が倒れ伏している。
 女性――紅葉(もみじ)は険しい瞳を携え、倒れた鬼へ向けて叫ぶ。その表情は『悪鬼の如き』と形容するに遜色ないものであった。
「何を遊んでおる、酒呑(しゅてん)! しまいには滅ぼすぞ、糞ガキがッッ!!」
 酒呑童子(しゅてんどうじ)は急ぎ起き上がり、そして、まなじりを吊り上げる。
「いってえな! 手加減しろや!!」
「やかましい!! 生意気な口はやることをやってから利けっっ!!」
 そのような調子で言い合いを始めた二名。
 取り残された幽華(ゆうか)は呆然と立ち尽くす。突然のことに頭が追いつかずにいた。
 しかし――
 ばっ!
 直ぐに緊張で瞳を引き絞り、視線を上方へと送る。
 紅葉(もみじ)、酒呑童子(しゅてんどうじ)もまた、表情を引き締め、同じ方向を見やる。
「酒呑(しゅてん)! その女を連れてここを離れろ!」
 しゅっ。
 叫ぶが早いか、紅葉(もみじ)は瞬時に姿を消した。中空に飛び出し、凄まじい速度で山麓を目指す。先ほど茨木童子(いばらぎどうじ)をしばき倒した地点へと、数秒のうちに至る。
 一方で、酒呑童子(しゅてんどうじ)もまた幽華(ゆうか)を素早く抱え、飛んだ。
「な、何を――!」
「おとなしくしてな。別にとって食いやしねぇ」
 そう口にするや、彼は平地に着地する。続けて跳び、再度着地すると、もはや清姫(きよひめ)のいる草原(くさはら)の一画まで至っていた。一瞬で数百メートルほど移動したことになる。驚異の脚力である。
 すたっ。
 続いて、紅葉(もみじ)もまた、その場に姿を現した。彼女の肩には、気を失っている大江山の鬼三名に加え、柚紀(ゆずき)や双子、薫に健太、総勢八名が折り重なっていた。
 鬼女は、鬼たちをドカっと乱暴に下ろし、続けて、人間たちと双子を丁寧に下ろした。
 そして、丁度そのとき――
 どどどどどどッ!
 低く響く音が轟いた。伴って、大地が震える。
「な、何?」
 柚紀(ゆずき)が視線を巡らし、呟いた。
 腕を組んで、紅葉(もみじ)が瞑目する。
「……ふん。来たか……」
 不安を覚える人間たちとは対照的に、紅葉や酒呑は異変にうろたえることなく、落ち着き払っている。彼らの視線が久万月家に――彼の家の裏手に向かう。
「……あ、ああぁあ!」
 鬼たちの視線を追い、薫が悲鳴を上げた。彼女の瞳に映るのは――
 どどどどどどどどどどどどどどどどッッ!!
 先ほどよりも大きな、不安を呷る音が響いた。勢いよく、水が、土が、とどまることを知らずに流れる。雨水の染んだ山肌から土砂が崩れ落ち、山裾を駆け抜ける。
 哀しみの結末が迫っていた。

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