第3章 百鬼の行く夜
唯ひとつ望む奇跡

 どどどどどどどどどどどどどどどどッッ!!
 自然が猛威を振るう様を瞳に映し、紅葉(もみじ)は小さく息をついた。
 ――何とか間に合いおったな。これで土蜘蛛(つちぐも)のやつも文句あるまい
 彼女たちはここ数日、近隣の家々を見張っていた。それは、その家の家族構成や訪問がある時間帯などを把握するためであった。今このときに備え、速やかに全ての人間を避難させることができるように。
 ――妙な輩が見張っておったり、天原(あまはら)や鬼流(きりゅう)、果ては双生の鬼子どもが訪れたり、と不測の事態が幾つかありはしたが…… これでもう土砂崩れの被害がある地域に人間どもは一人も居らぬ。わらわに感謝するがよいぞ、土蜘蛛よ
 たっ!
 得意げに思索にふけっていた紅葉は、視界の隅で動いた影に瞳を向ける。その影は、先ほど連れてきたばかりの人間であった。
「ど、どこいくのよ、薫!」
「家が……! 私の家がっ! お祖父ちゃんっ! お母さんっ! お父さんっ!」
 年若い天原の民――天笠柚紀(あまがさゆずき)に抑えられたまま、久万月薫(くまづきかおる)が叫ぶ。悲痛な声が木霊した。
 紅葉は嘆息し、彼女に声をかける。
「安心しろ、人間。あの家には誰もおらぬ。お主の家族は、あちらにいるはずだ」
 そう口にして彼女が示した先には、数多の人間が寝かされていた。
 薫にとって見知った顔である近所の人々や、見知らぬ顔である龍ヶ崎(りゅうがさき)署零係(ぜろがかり)の刑事、気龍寺(きりゅうじ)の僧侶など数十名がいる。更には、その傍らには茨木童子(いばらぎどうじ)や虎熊童子(とらぐまどうじ)、星熊童子(ほしぐまどうじ)が転がり、酒呑童子(しゅてんどうじ)と清姫(きよひめ)もまた隣に佇んでいる。
 その中に自分の家族の姿を見止め、薫は少しだけ表情を和らげる。しかし――
 たっ!
 再び彼女は駆け出そうとした。
「ちょっと待ってって、薫! 危ないよ!」
「柚紀(ゆずき)、放してっ! 私が――皆がずっと暮らしてきた家なの! 嫌だ! 嫌だよぉ!」
 どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッッ!!
 表情を歪め、叫ぶ薫。彼女の視線の先で、土砂は山肌を駆け下りてゆく。
 紅葉はそのようすを嘆息しつつ眺め、腕を組んだ。
 ――家、いや、想い出か。哀しみを理解してやれぬことはないが、そこまで世話を焼くこともあるまい
 そのように結論づけ、彼女は山肌を見やった。その時――

 ――哀しむ顔が嫌だから、笑っていて欲しいから、だから、僕は……

 どどどど――ばんッッッッッ!!!!!
 土砂の激流がせき止められた。山肌に突如現れた、巨大な――三十メートルにはなろうかという蜘蛛によって。
「……………え?」
 蜘蛛は糸を幾百、幾千も吐き、木々の間を巡らしていく。細くか弱い糸は、何重にも連なり、硬く強くなった。
 そして、山肌には高さ十数メートル、幅数百メートルのバリケードが出来上がった。
「つ、土蜘蛛様っ! 何をなさっていらっしゃいますっ!」
「もうそこにゃ人間はいねぇんだ! とっとと逃げろ!」
 清姫、そして、酒呑童子が叫んだ。
 一方で、紅葉は唇を噛み、腕に力を溜める。そうしながら、彼女は勢いよく飛び立つ。
「酒呑! 清! 来い!!」
 そのひと言で、二名がすぐさま飛び立つ。紅葉を追い、山裾を目指す。
 ――ちっ。わらわも読みが甘い……!
 土蜘蛛は――人ならざる者は、人々の命のみでなく、家々に刻まれた想い出もまた守ろうとしているのだ。
 かつて心を通わした『彼女』のために。

 ひゅっ! ざっっ!!
 高速で飛び行き、鬼たちは土蜘蛛の背後に着地する。
「酒呑。清。この山、崩すぞ」
 そう呟くと、紅葉は全身に力をみなぎらせる。霊山(りょうぜん)や戸隠山(とがくしやま)に宿る自然の気が集う。
 彼女同様、酒呑童子や清姫もまた、それぞれ、源泉たる大江山(おおえやま)や富田川(とんだがわ)より力を引き出す。
 そして――
「はっ!」
 紅葉が腕のひとふりで、巨大な土蜘蛛を軽々と上空に吹き飛ばした。それにともない、強固な堰となっていた糸は四方に飛び散り、それによってせき止められていた土砂が再び駆け出した。
 どどどど――
 しかし、その進撃は寸の間も続きはしなかった。
『はあああぁあああぁあああぁあ!!』
 紅葉が、酒呑童子が、清姫が叫ぶ。雨粒を、黒雲を吹き飛ばし、声の限りに叫ぶ。
 ぴかっ!!
 力が解放され、あらゆるものが光に包まれた。
 そして、その強い光が消え去ったあと、山は消え去り、平地へと姿を変えていた。

 ざーざーざーざーざーざーざーざーざーざー。
 龍ヶ崎の地に永く在った山々の一画は、数秒の間に平地と化した。大量の土砂も、森林も、その姿はもうない。消えたそれらがどこにいったのか、それは鬼のみぞ知るのだろう。
 ひゅぅ。ぼんっ!
 その時、平地に蜘蛛が落下した。大きな大きな蜘蛛である。蜘蛛はもぞもぞと動き、少しずつ小さくなっていった。三十メートルはあった体が縮み、三メートルほどに落ち着いた。
 遠く離れた場所からその様子を瞳に映していた薫は、すぅっと静かに涙を零した。
 蜘蛛を恐れたわけでも、怖じたわけでもない。なぜかは分からない。ただ、自然と雫が流れ出たのだ。
「薫?」
 柚紀の心配そうな呼びかけに、薫は表情を歪める。
「……柚紀ぃ。なんでだろ。切ないよぅ。胸が――痛いよぅ」
 ぽたり。
 雨粒に交じって、雫が地面を濡らす。
 薫は涙を拭うでもなく、蜘蛛を見つめ続ける。ただひたすらに。
 そんな彼女に……
 すっ。
 鬼流(きりゅう)――木之下幽華(きのしたゆうか)が手の平をかざした。すると、薫ががくっと倒れる。
「薫!?」
 柚紀が彼女を抱きとめ、心配そうに声をかけた。
 幽華は視線を落として、苦々しく笑う。。
「心配しないで、柚紀。ただ、余計な『記憶』を閉じただけだから」
「余計な記憶?」
 友の言葉に、柚紀は疑問を呈する。
 幽華が寂しそうに口を開く。
「輪廻の果てに蘇る『記憶』もある。でも、そういう強い『記憶』は大抵悲しみと共にあるもの。だから、閉じた方がいいの」
 かつてあった悲劇。そういったものに起因して、記憶は輪廻を巡る。
 薫と土蜘蛛の間にかつて何があったのか、それは分からない。ただ、土蜘蛛――妖怪の長き生と、薫――人間の短き生。その二点だけでも、充分な悲劇といえよう。
「きっと土蜘蛛も――あの大きな蜘蛛も、それを望んでる」
「……それが、正しいのかな?」
 思わず呟いた柚紀に、幽華は寂しそうに微笑み、
「さあね。分からないわ」
 そう返した。

「……蜘蛛さん。逢いに来てくれて……ありがとう」
 かすれた小さな声で、女性が呟いた。
 彼女の傍らには、手の平大の蜘蛛がいた。
 ………………………………
 蜘蛛は哀しそうに震え、女性が伸ばした指に触れる。
「…………蜘蛛さんは……長生きなんだね…… ごめんね…… もう……逢えないね……」
 横になった女性の瞳からは、光が失われていく。
 命の灯火が、弱まる。
 ………………………………………
 数秒の沈黙ののち、
 ――また……逢えるよ……
 ぱちくり。
 声が聞こえた気がした。どこからか、優しい声が。
 女性は――微笑んだ。

「目が覚めたか。土蜘蛛」
 起き抜けに、声が聞こえた。紅葉であった。
「力を使い過ぎだ。無茶をするでない」
「…………………………………………ごめん」
 項垂れた様子の蜘蛛を瞳に映し、鬼が嘆息した。
「お主はもう少し言葉を発せ。わらわたちに相談しろ」
「……………………………………………うん」
 その応えを受けて、紅葉は満足そうに笑む。そして、立ち上がる。
「では帰るとしよう。人の世はやはり肌に合わぬ」
 そう言って、彼女は指を鳴らす。
 ぱちっ!
 空間に歪みが生じた。異次元に繋がる扉が生まれる。
 ざっ。
 そこで、一歩前に出る者がいた。
「あの。呉葉(くれは)お姉様」
 清姫がもじもじと指を絡ませながら、声をかけた。
 紅葉が訝しげに聞き返す。
「なんだ? 清」
「よろしければ、清はもう少し人の世を見聞いたしとう御座います。よろしいでしょうか?」
「おぅ。俺も久しぶりにこっちを堪能したいぜ。今の時代、どんな酒があるのか気になるとこだ」
 それぞれ笑顔を携え、清姫と酒呑童子が言った。
 その様子を瞳に映し、紅葉は嘆息する。
「まあよいが、騒ぎは起こすなよ。茨木、虎熊、星熊はどうするのじゃ」
 いつの間に目覚め、紅葉らに合流したのか、気絶していた鬼たちが酒呑童子の側に控えていた。
「私は常に酒呑童子様の御許に」
「久方ぶりに大江山を目にするのもよいか」
「そうだな」
 大江山の鬼たちは口々にそう言った。
 その応えを耳にして、再度紅葉は息をつく。
「わかった。では、わらわと土蜘蛛だけ戻るとしよう。さらばじゃ」
 呟き、彼女は早々に歪みに足を踏み入れる。
 土蜘蛛もあとに続いた。
「ごきげんよう。呉葉お姉様。土蜘蛛様」
 清姫の声を後ろに、紅葉は軽く片手を上げ、去る。
 そして、土蜘蛛もまた姿を消した。

 ――また……いつか……

 鬼たちが黒雲を吹き飛ばした影響か、雨天の予報であったはずの日曜日。龍ヶ崎町は晴天に恵まれた。
 そんな気持ちのいい天候の中、幽華は龍ヶ崎署刑事課零係の居室にて、長い説明を終えた。昨日あったことの全てを、係長の櫻田和真(さくらだかずま)に話していたところだった。
 普段から不可思議な事件を担当しているだけあり、和真が話を疑うことはない。それでも、狐につままれたような心地になったのは、仕方がないことだろう。
「ふぅ。鬼ってぇのはそんなに凄いのか…… 山を吹き飛ばすたぁ、どこの投下爆弾だ」
「あら。私ども鬼流も、その気になれば山くらいは吹き飛ばせますわよ」
 にこり。
 微笑んだ幽華を瞳に入れ、和真は苦笑する。
 その一方で、瞳に真剣な光を宿す。
「それで、土蜘蛛や鬼は結局――人々を救ったってことですかい?」
「ええ。どうやらそのようです。山を吹き飛ばすのはやり過ぎな気もしますが、悪意から為したことではありません」
 鬼の末は言い切り、楽しそうに微笑んだ。
「人は誤り、鬼は正しきを為す。この世は――不条理ですね」
「……ええ。そのようで」
 和真は――人は、苦笑した。

「午後のニュースです。昨日、一夜にして平地へと姿を変えた雲澄山(くもすみやま)ですが、その原因はいまだ解明されていません。臥龍(がりゅう)大学で調査チームを組み、詳しく調べる方針とのことです。続いてお天気です。一週間近く続いていた雨も止み、本日からしばらくは晴れ間が――」
 テレビから聞こえる声を聞き流しつつ、天笠家の面々は、訪問者と相対していた。
「つまり、柚紀は隠れ霊感少女だったんだ……! それで、阿鬼都(あきと)くんと鬼沙羅(きさら)ちゃんは鬼!?」
「すごいや、きさら!」
 それぞれに反応を示す、久万月薫と長谷部健太。どちらも、キラキラと瞳を輝かせている。
 昨日のいざこざの事情説明を求められ、天笠家の各々が説明を終えた後のことだった。
 意外にもすんなりと受け入れられ、家主の天笠柚紀は面食らってしまう。
「霊感少女ってのは勘弁して欲しいけど…… それよりも、薫。えらい簡単に信じるわね」
「まー。この目で色々と不可思議な状況を見ちゃったわけだし。ねー?」
 こくり。
 健太もまた素直に頷く。
「それはまた単純なことで…… まー、いいんだけどさ」
 呆れ顔で呟いてから、柚紀が肩を竦める。
「えへへ。わたしは嬉しーなー。人間って、わたしたちのこと知ると、直ぐに迫害とか魔女裁判とかするって聞いてたし」
「魔女裁判は外国の話じゃなかったっけ? たしか……そう、踏み絵をさせられるんじゃなかった?」
 微笑んだ鬼沙羅に、阿鬼都が声をかける。
 その隣で、柚紀が苦笑する。
「踏み絵もたぶん違うわよ。別にいいけど」
 彼女は何気なく視線を窓の外へ向けた。
「あ」
 小さく声を漏らした。
 そこには、小さな蜘蛛がいた。ただの、蜘蛛がいた。
 薫もそちらへと視線を向け、そして、微笑んだ。
「あっ、蜘蛛だ」
 とことことことこ。
 彼女は立ち上がり、窓辺による。
「……薫」
 柚紀が心配そうに声をかけた。
 振り返った薫の表情は――明るかった。
「私、何でか昔から蜘蛛って好きなんだ。よく変わってるって言われるんだけど」
 にこり。
 その笑顔を瞳に映し、柚紀は一瞬だけ哀しげに黙る。しかし、直ぐに微笑んだ。そして、瞳を閉じる。
 彼女が笑顔でいられるのなら今この時は『正しい』のだと、そう信じて。
「さて。柚紀と双子ちゃんへの尋問も終わったし、遊ぼっか? 晴れてるし出かける?」
「あ! サッカーやろー! サッカー!」
 薫の言葉に、阿鬼都がすぐさま反応を示す。
 その鶴のひと声で、皆は玄関へと向かう。あるものは運動を、あるものは見物を目的として。
 がちゃ。
 皆が部屋から出て行き、扉が閉まる。
 無人の部屋の窓の外を、かさこそと蜘蛛がうごめく。せっせと巣を作っていた。
 さぁっ。
 天より、黄金色の陽の光が地に差した。張り巡らされた蜘蛛の糸が、その光を受けてキラキラと輝く。
 それはあたかも祝福するが如きであった。
 彼らが巡りあった、そして、いずれまみえるであろう、哀しくも喜ばしきこの世界を――

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