光がうごめく夜を、黒き体が駆け抜ける。小さきその姿は人の目を避け、素早く歩みを進める。
彼女は生まれつき様々なものを失っていた。父母や故郷。そのようなものは、記憶にない。彼女の記憶は、人から逃れ、食を求めることに尽きていた。
しかし、それでも共に生きたものがいる。信じられるものが、隣にいたいと思えるものがいる。
幸福とは人の定義した偽りだと、彼女の仲間の一人は言っていた。
それでも、彼との時間は幸福なのだと、自分は幸福でいたいのだと、そんな感情が偽りなどであって欲しくないと、彼女は切に望む。
ゆえに――
彼女は駆ける。人の住まう夜の街を。
ただ、逢いたいと。ただ、共に生きたいと。ただ、幸福で在りたいと。そう願う心を胸に。
かちゃかちゃ。
「きょっおのおっひるは、ホットケ〜キ〜♪」
家主の天笠柚紀(あまがさゆずき)がいないアパートの一室。居候の鬼子の一人である鬼沙羅(きさら)が、機嫌よさそうにボウルの中身をかき混ぜていた。小麦粉やら砂糖やらバターやらベーキングパウダーやらから構成される、ホットケーキのタネである。
本日の彼女と彼女の兄である阿鬼都(あきと)の昼食は、彼女の言葉にもあったとおりホットケーキなのだ。
それは、柚紀が在宅であれば決してありえないランチメニューである。しかし、柚紀がいない時、食事の決定権は鬼沙羅が握っている。それゆえ、彼女の最近のお気に入りである、あまーいワクワクすいーつランチ、が可能となったのだ。
ちなみに、月曜日から昨日までの平日三日間は、ランチがチョコケーキ、クッキー、プリンと甘いものづくしだった。甘いものが嫌いとまでは言わないが、そこまで好物でもない阿鬼都は、既に辟易ぎみだったりする。
「おーい、鬼沙羅ぁ。ちゃんと牛乳残ってるー?」
ここ数日、甘いものを咀嚼するため、阿鬼都にとって牛乳は必需品だった。
がちゃ。
「んー。うん、大丈夫だよー。お兄ちゃん」
にこっ。
冷蔵庫の中身を確認してから、鬼沙羅は満面の笑みを浮かべた。
そのような笑顔を見せられたら、たまには甘いもの以外を、などと切り出せないのは兄として当然であった。阿鬼都は乾いた笑みと共に、呟く。
「……そいつは何より」
「もう直ぐ出来るからねー」
「……はぁい」
鬼沙羅の言葉に生返事をしながら、阿鬼都はテレビのチャンネルを変える。
ぴっ。ぴっ。ぴっ。
どこのチャンネルを入れても、興味をそそるような番組はやっていなかった。
「……暇だなー。また幽華が襲ってこないかなー」
「もぅ、お兄ちゃん。平和なのはいいことだよ?」
兄の発言を台所から聞き取った妹は、フライパンを温めながらたしなめる。そして、バターを適量フライパンにしき――その時。
かさかさかさっ。
何やら音がした。彼女の左後方から聞こえた。そちらにあるのは玄関扉と、あとは強いて言うなれば、壁。
彼女は何の気なしにそちらを見やる。
そして、初めて目にするものをみつけた。初めて見る、されど、なぜか彼女の心に大きな衝撃を与える、その存在を。
理由など見出せない。理屈などわからない。それでも彼女は――
「きゃあああああぁあぁああぁあぁあ!!」
恐怖し、叫んだ。