第4章 漆黒の悪魔
絶望の黒

 カンカンカンカン。
 はぁあ。
 アパートの階段を上がりながら、天笠柚紀(あまがさゆずき)は夜空に向けて白い息を吐いた。
 長い残暑が終りを告げ、ようやく涼しくなってきた時節。日中であればまだ汗ばむ陽気が目立つけれど、日暮れともなると、肌寒い日々が続いていた。
 ――もうしばらくしたら炬燵の出番かなぁ
 そのようなことを考えながら、柚紀はアパートの二階へ至る。
 視線を玄関扉へ向けると、彼女の部屋の前には見慣れた姿があった。
「……? 鬼沙羅(きさら)。何やってるの?」
 柚紀の呼びかけに応え、女児が顔を上げた。彼女の名は鬼沙羅。兄の阿鬼都(あきと)と共に、柚紀宅に居候している鬼子である。
 鬼沙羅は瞳に涙を浮かべ、柚紀に駆け寄る。
「柚紀ぃ……」
「ど、どうしたの? 何かあったの?」
 青い顔で弱弱しい言葉を吐く鬼沙羅を目にし、柚紀は焦った声を出す。
 先日のように、怪異が彼女や阿鬼都を襲っているのか。はたまた、鬼流や天原のような超人が、鬼である彼女たちを調伏しようと襲い来たのか。悪い想像が柚紀の脳裏をよぎった。
 鬼沙羅は震える右手を持ち上げ、彼女たちが住まう部屋を示す。
「……部屋に……何かあるの?」
 こくり。
 緊張した様子で尋ねた柚紀に対し、鬼沙羅がゆっくりと頷く。
 ――そういえば阿鬼都は……? まさか……!
 先ほどから阿鬼都の姿が見えない。加えて、鬼沙羅の様子もおかしい。柚紀は最悪の事態を想像し、体から力が抜けていくのを感じた。
 しかし、そうして絶望してばかりもいられない。結局のところ、彼女が描いた最悪のシナリオは想像の範疇を出ない。臆してばかりおらず、確認せねばなるまい。
 ささっ。
 なるべく足音を立てないように、柚紀が移動する。
 かちゃ。
 部屋の鍵はかかっていなかった。勢いよくドアノブを回し、彼女は部屋になだれ込む。
「阿鬼都!」
 ばん!
 玄関を駆け抜け、リビングとの境にある扉を開け放つ。そこには――
「あ。おかえりー。部屋の前に鬼沙羅いなかった?」
 ごろりと寝転び、お菓子を食しつつテレビを観ている阿鬼都がいた。彼以外には誰もいない。
 ごく普通の日常風景だった。
「……た、ただいま。えと、無事――ね?」
 戸惑い、尋ねた柚紀。
 阿鬼都もまた戸惑いを見せ、訝しげに柚紀を見やる。
「? まあ、ご覧のとおり。どーかした?」
「いや。部屋の前で鬼沙羅が青い顔してたから、何か火急の事態なのかと……」
 くだんの鬼沙羅は、いまだ玄関先で震えている。柚紀の様子を扉のかげから窺うばかりで、中に入ってくる様子もない。
 しかし、部屋の中に特別恐れるべきモノは見当たらない。鬼流(きりゅう)である木之下幽華(きのしたゆうか)もいなければ、変態である木曾雅哉(きそまさや)もおらず、先日圧倒的な力を見せた鬼などもいはしない。
 柚紀は改めて首を傾げる。
 一方で、阿鬼都は嘆息して肩をすくめる。
「まだ怖がってるの、鬼沙羅。あんなの可愛いもんだろ。ちっこいし、ただの虫だし」
「あんなのって?」
「んっとね。さっきまでそこら辺にいたんだけど――」
 かさかさかさかさっ。
 音が……聞こえた。
 柚紀の背筋を寒気が駆け抜けた。彼女の短き人生において幾度か耳にした、かの者の歩行音。忘るること能わぬ絶望のノイズ。
「あ。ちょうどよかった。あの黒いやつだよ。どこにでもいそうなただの虫なのに、鬼沙羅がすっごい嫌がっててさぁ。個人的にはぴょこぴょこ動いてるあの触角とか、それなりに愛嬌があると思うんだけど」
 阿鬼都が微笑みながら、柚紀の左側の壁を指さした。
 ぎぎぎぎぎぎ。
 見たくない。そのように切望しつつも、柚紀は首を動かす。あたかも油の差していない機械のように、ゆっくりとゆっくりと。
 そして、彼女は――見た。
「ぎゃあああああぁあぁああぁあぁあ!!」
 壁に張り付く黒き姿。漆黒の悪魔の名、それは――

「ふーん。ゴキブリっていうんだ、こいつ」
 床に寝転びながら、壁に張りつく虫を瞳に映して阿鬼都が言った。
 黒き虫は動き回ることもなく、じっとしている。たまに動く触角が、阿鬼都いわく、愛嬌があるとのこと。
 一方で、家主の天笠柚紀と、阿鬼都の妹の鬼沙羅は、ダイニングの入り口付近で、警戒心マックスで佇んでいる。
 鬼沙羅などは瞳に涙を浮かべ、これ以上ないほど青い顔をしていた。
「阿鬼都! そこの雑誌使っていいから、ひと思いにばしっとやっちゃいなさい!」
「……お、お兄ちゃん。がんば!」
 整理され置かれている雑誌の一冊を指さし、柚紀が言った。鬼沙羅も期待のこもった瞳で阿鬼都を見た。
 しかし、阿鬼都はやる気なさげにごろごろと転がり、のん気な声を上げる。
「一寸の虫にも五分の魂。無益な殺生はしない主義なものでー」
「……うっ」
 正論をぶちかました鬼子に、人の子は言葉をつまらせる。
 確かに、何も悪さをしていない虫を問答無用で屠るというのも、倫理に反するやもしれない。
 ゆえに――
「な、なら、部屋の外に追い出して!」
 以上のような代替案を出した。
 今度は阿鬼都も文句はないようで、重い腰を上げる――が、直ぐに面倒そうに息を吐く。
 ――あんな小さい虫を捕まえるのは面倒だなー。結構すばしっこいみたいだし……
 先ほどから観察していると、黒き虫は随分と俊敏なようである。殺すことを目的としているならば、問答無用で攻撃するのみであるため問題なかろうが、捕縛ともなると、殺さぬようにという遠慮が邪魔をして動きが鈍る。ともすれば、もうひとつの方法としては、誘導を試みるべきか。
 ――うーん。それはそれで面倒だなぁ。ちまちま誘導って僕の趣味じゃないし
 想像してみるだに、時間がかかることは明白だ。加えて、阿鬼都はどちらかといえば短気ゆえ、耐えられそうもない。
 そこまで思案し、阿鬼都は最終結論に至る。すなわち――
「オン サンザンサク ソワカ」
 ぴかあぁあ!
「うわ! まぶしっ!」
「きゃっ!」
 阿鬼都の小さな呟きに伴い、部屋の中を光が満たす。
 そして、眩さゆえに白んでいた皆の視界が色彩を取り戻すと――
「……誰?」
 柚紀の視線の先――ベッドとテレビの間の壁際に、少女がぺたんと座り込んでいた。
 ボブカットの黒髪。けだるげな瞳。薄い唇。幼い顔立ちの、可愛らしい女児である。紺のパーカーと、赤のミニスカートに身を包んでいた。
 少女はキョロキョロと自分の体を見回し、ぺたぺたとあちこち触る。続けて、小さな小さな声で、あーあー、と意味のない発声をした。
「……声……出る……人に……なってる……」
「いきなりでもそんだけ喋れるなんて、もともとそれなりに『力』があったみたいだな。これで話し合いもしやすいや」
 と、阿鬼都のお言葉だった。
 その発言を耳にし、柚紀は固まる。鬼沙羅もまた、意味もなくぱくぱくと口を開け閉めしている。
「……あ、阿鬼都。その子は――」
「ああ。さっきのゴキブリ。話し合いで出てってもらうのが一番いいかと思って変化させてみた」
 ごく簡単な説明。しかし、その意味合いを柚紀と鬼沙羅の脳が理解するのに数秒を要した。
 そして、理解ののち、理性が現実を拒む。
 ぞわぞわぞわ。
 人の子と鬼の子の背筋を怖気が駆け抜けた。
『いいぃいいやああぁあああぁあぁあああぁあ!!』
 叫び声が近隣に響き渡った。
 いくら漆黒の悪魔の見た目が変わろうとも、彼女たちのもつ想像の力が彼女たち自身を蝕むようだ。涙目で扉の陰に隠れる。
「……声……大きい……すごい……」
「ったくもぉ。うるさいなぁ」
 他二名は、落ち着いた様子でそうのたまった。

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