第4章 漆黒の悪魔
君を想う

 タッ。
 立ち止まった阿鬼都(あきと)と黒絵(こくえ)の目の前には、広大な敷地を有した古風な建造物があった。敷地の半分は墓地、もう半分は僧房であり仏殿でもある木造建築だ。心なし、お線香の懐かしい香りが漂っている。鬼流(きりゅう)の住まう寺、気龍寺(きりゅうじ)である。
 既に夜中といえる時間帯ゆえ、一般の人間が入れぬよう、山門は硬く閉ざされていた。
 しかし――
 ふわっ。
 阿鬼都は気にせずに、空を飛んで門戸を越えようとした。
 黒絵はその光景を瞳に映し、沈黙する。しばらくして、ぼそりと呟く。
「……飛ぶ……どうやる……?」
 女児の言葉に、鬼がぱちくりと瞳を瞬かせる。
「へ? でも、ゴキブリって普段から飛ぶんじゃないの? 虫だし」
「……いま……羽……ない……飛べない……」
 確かに、人の姿を採っている以上、空を自由に翔けることは不可能に思える。
「あー。虫観点からいくと、人型だと飛べなさそうってゆーのは…… 納得できる」
 ふんふんと、阿鬼都がしたり顔で頷く。彼はすたっと地に降り立った。
 黒絵は身体に力を込めて、ぎゅっと目を瞑っている。あたかも、背にある筈の羽を動かそうとしているが如くである。
 阿鬼都が苦笑する。
「無いものを動かそうとしてもダメだって。それより……」
 ぱんぱんっ。  鬼子は二度かしわ手を打ち、軽く瞳を瞑った。そして、願う。
「どうか、飛べますように」
 ふわっ。
 祈願に伴って、阿鬼都の体が浮かび上がった。地上数十センチのところを漂う。
「黒絵にも力があるんだから、心の底から願えばその通りのことが起こる筈だよ。力は願いに応える。それが原則なんだ」
 それは、鬼も神も、鬼流も天原も、そして、虫も同様だ。場合によっては、只の人間さえも。
 阿鬼都の言葉を噛みしめて、黒絵が再び瞳を瞑る。かしわ手を何度も何度も、懸命に打つ。
「……飛び……たい……黒絵……飛ぶ……!」
 願い、願い、そして、願った。
 その結果――
 ふわり。
「……………できた……………」
「おっ。上手い、上手い。元々力があったみたいだし、流石だなー」
「……何か……不思議……変……」
 黒絵が訝しげに呟いた。ふらふらと漂いつつ、慣れない様子で小首を傾げる。
「まー、羽でぶーんって飛ぶのと比べたら、ちょっと変だろーけど。黒羽を見つけるまでは人型の方が都合がいいし、我慢してよ」
「……うん……する……我慢……」
 女児が真剣な表情で頷くのを瞳に映して、阿鬼都がにっこりと笑う。浮遊の高度を上げて、今度こそ門戸の上をふわっと越えていく。
 黒絵もまた、彼のあとに続いて危なげに空を行く。
「さて。幽華(ゆうか)はどこかな?」
 闇の支配する天を漂いつつ、鬼が視線を巡らせた。
「……幽華……誰……?」
 黒絵が疑問を呈した。
 阿鬼都は闇を翔けながら肩越しに黒絵を見て、応える。
「幽華ってのはここに住んでる人間で、鬼流(きりゅう)なんだ。あ、鬼流ってわかる?」
 尋ねられると、黒絵はこくりと頷いた。
「……鬼流……力ある人間……黒絵たち一族と……仲間……長老……言ってた……」
「そうなの? ふーん。なら、幽華たちは黒絵に協力してくれるかもだね。この寺には、鬼流がたくさんいるんだ」
 すたっ。
 会話しながら、二名は中庭に降り立つ。かつて、阿鬼都たちと当寺の娘、木之下幽華が戦った場所であった。
 幽華の生み出した強風によってなぎ倒されていた植物は、その面影など見せず、元気に天を向いて繁茂している。
 とたとたとた。
 歩みを進め、阿鬼都たちは僧房に近づく。靴を脱いで手に持ち、廊下に裸足を乗せた。夜気によるものか、床は冷え冷えとしている。
 ぎいっ。
 古い建物だけあって、廊下を歩み始めると床板のきしむ音が不気味に響いた。さらには、夜ゆえに闇の支配が色濃い。視線の先にある墓場もまた、中々に恐怖心を煽る。
 ――鬼沙羅がいたら怖がっただろーなー
 阿鬼都がぼーっとそのようなことを考えながら進むと、行く先に明かりの点いた部屋を見つけた。
「お。誰かいる」
 がらっ。
 問答無用で障子を開け放った。
「……ノック……した方……いい……思う……」
 黒絵が、意外にも常識的な発言をした。
 一方で、阿鬼都はまったく気にした風などなく、厚かましく部屋へと侵入する。
「こんばんはー」
 挨拶をするだけマシなのかもしれない。
 闖入者の言葉を受けて、読書に精を出していた男性が振り返る。彼は見知った顔を見つけて、本を閉じた。
「おや。阿鬼都くんじゃないか。そちらはガールフレンドかい?」
 部屋の主――木之下実明(きのしたさねあき)は微笑み、言った。

 阿鬼都がひと通りの説明を終えると、実明は腕を組んで考え込んだ。
「なるほどね。すると、当面の目的は先日まみえた鬼の捜索なのかな。他に手がかりもなさそうだし」
 実明の言葉に、阿鬼都も黒絵も異論はないようだ。こくりと頷いた。
 気龍寺住職もまた、うんうんと二度、頷く。
「ならば、当事者に手伝わせよう。幽華以外の三人は、私の三つ隣の部屋にいるよ」
 先日の土蜘蛛(つちぐも)事件に関わったのは、彼の娘である木之下幽華と、三名の鬼流――白夜知稔(びゃくやちねん)、根津英俊(ねづえいしゅん)、上谷安孝(かみやあんこう)であった。
 知稔、英俊、安孝は皆、大部屋でまとまって寝泊まりしている。今はまだ夜中の八時前であるから、寝入っているということもないだろう。訪ねれば協力を仰げるはずだ。
 しかし、阿鬼都は腕を組んで、二の足を踏む。
「んー。出来ればそいつらよりも、幽華に手伝ってもらいたいかなー。見つけたい鬼のうち一人はちょっと事情があってさー。酒呑の奴はまーいいんだけど、清姫の方は男が一緒だと協力してくんないかもなんだよ。特にあいつ、僧侶とか山伏が駄目らしくてさー。たぶん知稔とか無理」
 かの有名な鬼女、清姫(きよひめ)は、男嫌いの気があるらしい。伝説の通りのことが過去にあったのならば、まあ、それなりに理解できる事情だ。
 実明は納得し、苦笑する。
「ふむ。では、幽華の自室に行くとよいだろう。あの子の部屋は、この部屋を出て右に向かい、突き当たりを左に折れ、さらにその先の突き当たりを左に折れて五つ目の部屋だよ。あの子は大概、十一時過ぎまで起きている。今日もまだ寝てはいないはずだ」
 がらっ。
 実明が障子を開け放った。彼が指さした先には、中庭を挟んで煌々と明かりを漏らす、部屋があった。
 その部屋を目にした阿鬼都は、ある一つの事実に気づく。
「あれ……? 実明と幽華の部屋、ずいぶん離れてない?」
 阿鬼都の指摘どおり、実明の部屋が東端であるのに対し、幽華の部屋は西端であった。なるべく離れたところで生活したい、顔を合わせたくない、という年頃の娘の意図が見え隠れしている。
 何ともわかりやすい反抗期である。
「……うん。そこは気づかないふりで頼むよ」
「りょーかい。ま、頑張ってよ」
「……元気……出して……」
 鬼と虫に元気づけられた人の子が、大きく肩を落とした。

 阿鬼都と鬼沙羅が、実明の示した部屋の前へとやって来た。ふすまには『ノック厳守』という札が打ちつけられていた。更には『腰抜け出禁』という札も。
 前者はともかくとして、後者は幽華の部屋特有の注意書きだろう。腰抜けとは、彼女の父実明のことである。気龍寺の娘は十九歳という年齢ながら、反抗期をひた走っている。
「……阿鬼都……今度は……ノック……する……」
「はいはい」
 こんこん。
 鬼子が、注意書きと友の提案に従い、引き戸の木枠をノックした。
「誰?」
 部屋の中からは端的な問いが返ってきた。
 聞き覚えのある声。部屋の主、木之下幽華のそれである。
「阿鬼都だよ。ちょっといい?」
 がらっ!
「ゆず――って、あれ? 鬼子一人? 柚紀は?」
 当寺の娘が、喜色を携えた表情で、急ぎ障子を開け放った。キョロキョロと辺りを見渡すが、そこにいるのは阿鬼都と黒絵のみである。幽華はすぅっと表情を暗くした。非常に不満げである。
 対する阿鬼都は苦笑し、応える。
「柚紀は来てないよ。僕らだけ。悪いね」
「なんだ。つまんない。それで? 何か用?」
 部屋の中へ引き返しつつ、幽華が尋ねた。
 阿鬼都と黒絵はそのあとに続いて歩みを進める。部屋のうちへと進入した。
「うん。ちょっと鬼を探したいんだ。この間の、酒呑か清姫。お願いできない?」
「何でまた――ああ、その子。あいつらの力の名残が微かに見えるわね。あの力に巻き込まれたとか?」
 詳しい説明を聞くまでもなく、幽華が大まかな事情を察した。
 そんな彼女に、阿鬼都は瞠目し、驚嘆する。
「力、感じる? 僕は全然……」
「本当に微量だしね。相当敏感じゃなければ気づかないわよ。私だって力の感知はそれほど得意じゃないし、こうして目の前でよくよく見ないと気づかないわ。それにしてもその子――鬼、いや、虫ね。ゴキブリ?」
 再度、鋭く指摘した幽華。
 阿鬼都は再び、驚きとともに頷く。
「うん。黒絵ってゆーんだ」
「黒絵? こくって黒(くろ)っていう字?」
 尋ねられても、阿鬼都には即答できなかった。字面までは聞いていない。
 ゆえに、黒絵に視線を送って補足を求める。
 こくり。
 黒絵がゆっくりと頷いた。
「……そう……黒い絵……黒絵……」
 その応えを耳にすると、幽華は感心したように息をついた。
「ふーん。黒一族(くろいちぞく)、か。あの山にもいたんだ」
 幽華が発した単語に、阿鬼都は首を傾げる。
「黒一族?」
「虫にも力の強いやつらがいてね。ゴキブリの名家として、黒一族と茶一族(ちゃいちぞく)というのがいるの。それぞれの一族は、身内の名前に『黒』、『茶』の一文字を入れるそうよ」
 説明しながら、幽華は机の上に置かれていたビー玉を数個手にとる。ビー玉は発光し、一個、二個、三個と順番に浮かび上がった。
 ざっ。
 阿鬼都は思わず身構え、幽華と黒絵の間に立ちはだかる。
 その様子を瞳に映し、鬼流が苦笑した。肩を竦める。攻撃の意志はないようだ。
「別に襲おうってわけじゃないわよ。話なら修行しながらでも出来るでしょ」
「……修行?」
 訝しげな鬼子や虫の視線の先で、人の子が光り輝く玉を自在に操って見せる。発光体がくるりくるりと飛び回る様子は、あたかも、子供向けのショーのようであった。
「ほら。こうしてビー玉を複数個、長時間操ることで、基礎力をつけるのよ。この間の戦いでは、あなたのお仲間の酒呑童子に遅れをとっちゃったしね。力の底上げを図ってるとこ。負けっぱなしじゃいられないわ」
 実際のところ、敗れたままだとて問題など一切ない。それでも、彼女は生来の負けん気から自主練を開始した。血なまぐさい戦とならぬなら、誰に迷惑かけるわけでもなし。健全なスポーツマンシップに則り、清く正しく強くなればよい。
「で、それよりも…… 結局のところ何が目的なの? 鬼探しも手段でしょ?」
 修行に精を出しながら、幽華が尋ねる。
 阿鬼都は、ただでさえ強い幽華が修行をするという事実に驚いていた。感心して、自分も頑張ろう、と決意する一方で、彼女の問いに応える。
「黒絵の兄ちゃん――黒羽(くろう)を見つけたいんだ。この間の光に巻き込まれて、離れ離れにされちゃったんだって」
「……黒羽……大切……黒絵……寂しい……」
 うつむいた黒絵。
 阿鬼都はそんな黒絵の肩に手を置き、元気付けている。
 その様子を瞳に映し、幽華は小さく微笑む。子供が仲良くしている様は、大人のすさんだ心に優しさを齎す。加えて、鬼と虫という異なる二者が手に手を取り合う様子もまた、心に温かな火を点す。仲良きことは美しきかな。
「なるほどね。ま、そういうことなら、黒一族はもともと鬼流とも交流のある一族だし、手を貸してあげるわよ」
「ホントか? ありがと!」
「……ありがと……幽華……」
 にこり。
 顔中に笑みを広げる鬼と虫。
 鬼流もまた微笑み、
「どういたしまして」
 応えた。
 続けて、浮かべていたビー玉を全て手におさめ、机にじゃらりと並べる。そうしてから、踵を返し、押入れへと足を向けた。
 がらっ。
 開け放った空間には、敷布団やら羽毛布団やらが詰められていた。
「とりあえず今日は遅いし、黒絵ちゃんは私の部屋で寝なさい。布団も二組あるし」
 こくり。
 素直に頷く黒絵。
「友達がお泊りに、っていうシチュがあり得ないくせに、何で二組あんの?」
 捻くれた疑問を投げる阿鬼都。
「うっさい…… 不動明王火界咒(ふどうみょうおうかかいじゅ)ぶっけるわよ?」
 暗い瞳を携え、幽華が言った。目が真剣だ。
 これ以上はやばい、と阿鬼都が口を噤む。柚紀と違ってからかい過ぎると危険だ、と瞬時に悟った。
 十数秒間の沈黙ののち、幽華がこほんっと咳払いをする。
「……い、今なら、柚紀がいるもん」
 頬を染めてごちる十九歳。はてさて、精神年齢はいかほどか。
 肩を竦めて、阿鬼都が苦々しく笑う。そして――
「はいはい、そーだねー。で。黒絵はそれでいいとして、僕は?」
 尋ねた。
「は? 帰れば?」
 先ほどまでとはうってかわって、冷たい表情で端的に言葉を返す幽華。
 それに対し、阿鬼都は唇を尖らせて不満顔を作る。
「やだ。柚紀と鬼沙羅なんて嫌いだもん」
 ぷいっと顔を背ける阿鬼都。今度は鬼子の精神年齢が低下した。もっとも、彼ならば実年齢に即している。
 そんな幼児の様子を瞳に映し、幽華は首を傾げる。しかし、隣に佇む黒絵――ゴキブリを瞳に映し、何となく察した。
「普通、拒絶するわ。私は他の黒一族で慣れてるってだけ。特に女の子は、虫が嫌いだし」
「でも……ゴキブリを拒絶するのは、鬼を拒絶することと変わらない。本質は一緒だろ? そんなの、駄目だと思う」
 暗い表情でうつむき、呟いた阿鬼都に、幽華は苦笑し、嘆息する。
「そうね。それは、鬼だけのことじゃない。鬼流を拒絶することにも通じるわ。確かにあまりよいことではない。でも、心はどうにも御しがたいものよ。私が今でも、あなたたち鬼を――完全には認められないようにね」
 幽華の言葉に、阿鬼都は顔を上げた。
「そうなの?」
「ええ。実はね」
 すっ。
 苦笑を浮かべ、幽華は阿鬼都の頭に右手を乗せる。
「でも私は、歩み寄ると決めた。鬼だからと、ただそれだけで拒むことは違うと、柚紀に教わったから」
「……………」
「心が拒むのはしょうがない。でも、歩み寄れる。人はそういうもの。そして、柚紀はそれが出来る人」
 自信満々に言い切り、それから、幽華は悪戯っぽく微笑む。
「まあ、鬼沙羅ちゃんはどうか知らないけど」
「鬼沙羅だってそうだよっ!」
 阿鬼都が、頭に乗る幽華の手を払いのけ、叫んだ。そうしてから、ばつが悪そうに黙り込む。
 くすり。
「とりあえず、今日は知稔たちの部屋に泊まれば? 柚紀には連絡しとくわ」
「……………うん」
 小さく頷き、阿鬼都が廊下へと足を向ける。
 黒絵もそれに続き、部屋の入り口で立ち止まって見送る。
「……阿鬼都……おやすみ……」
 呟いた黒絵。
 その言葉を受け、阿鬼都はゆるりと振り返る。
「ああ。おやすみ、黒絵」
 にこりと笑み、鬼子は廊下へ出る。
 がらっ。
 とことことこ。
 障子を閉め、幼子は小さな足音を立てて去っていった。
「……阿鬼都……少し……元気出た……よかった……」
 黒絵は阿鬼都を見送り、そう口にした。
「……家出てから……辛そうだった……」
「よく、見てるのね」
「……黒絵……一族以外……友達……初めて……大切……」
 微笑み、黒絵が呟いた。
 幽華はそんな彼女を瞳に映して、嬉しそうに小さく笑う。
「ふふ。私も、そういう人がいるの」
 ゆっくりと閉じた目蓋の裏に映るのは、闇を歩いていた彼女に光を示してくれた女性。
「とても、すごく大切な人」
「……幽華……黒絵……一緒……」
 くすくす。
「そうね」
 おかしそうに笑う声が、静寂の支配する夜天に響いた。
 秋の月夜が更けていく。

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