第4章 漆黒の悪魔
悔いて先へ歩む

 がらがらっ。
「ただいまー」
 居候の鬼子たる阿鬼都(あきと)が外泊した翌日、天笠柚紀(あまがさゆずき)は実家を――天笠家を訪ねた。
 ぱたぱた。
 帰宅を告げる言葉を耳にして、家の奥から女性が姿を見せる。今年三十八歳を迎えた柚紀の母、天笠瑠実音(あまがさるみね)である。柚紀の面立ちがややきつめであるのに対し、瑠実音からは全体的に柔らかい印象を受ける。ふわふわとした茶の髪が、歩みに伴って波打っている。玄関先に立つ娘の姿を見止めると、ふわっと明るく笑んだ。
 本日は平日ゆえ、専業主婦である彼女しか、天笠家にはいないようである。
「おかえり。いきなりどうしたの? そんなとこにいないで入りなさいな」
「いや、直ぐ帰るから。それで、なんというか、突然なんだけど、何個か訊いていい?」
「なあに?」
 本当に突然提示された問いに、瑠実音は小首を傾げて聞き返す。
 柚紀は覚悟を決めて、指にはめてきた指輪を掲げる。
 すると――
 ぽんっ。
 天笠家の玄関先に、突然一人の少女が現れた。居候の鬼子二人目の鬼沙羅(きさら)である。
「……は、はじめまして」
 ぱちくり。
 瑠実音は瞳をしばたたいて、それから苦笑した。
「はじめまして。あなたは鬼沙羅ちゃん、かな? それにしても、実明(さねあき)くんから聞いてたけど、ほんとに力を使えるようになってたのね」
「やっぱ、知ってたのね。母さんも天原(あまはら)の民ってやつなの?」
 改めて尋ねられると、瑠実音は首を振った。
「いいえ。母さんは何の力もないわ。父さんもね」
 その答えに、柚紀は意外そうに、えっと声を漏らした。
「父さんも? でも、母さんはお嫁に来たからともかく、父さんは天笠家の人間でしょ?」
 瑠実音は旧姓が石動(いするぎ)。大学一年生のときに柚紀の父、天笠櫂(あまがさかい)と知り合い、その数ヵ月後に結婚して天笠の姓を名乗るようになったのだという。それゆえ、血筋的には天原の民たりえない。
 しかし、父、天笠櫂は間違いなく天笠の血筋ゆえ、力を持っていてもおかしくないはずである。
「そうなんだけど、不思議よね。まあ、父さんは力なんてない方が気楽でいいって言ってるし、いいんじゃないかしら」
「まあ――それはそうかもね」
 そのように応えつつ、柚紀が苦笑した。自分もその立場のままでいたかった、と。
 続けて、彼女は問う。
「じゃあ、誰か他に天原の力がある人っていない? ていうのもね、ちょっと人――というか、虫を探したいの。特定の相手を探せる力がある人、親族にいない?」
 昨夜、阿鬼都が黒絵(こくえ)と共に家を出てから、柚紀と鬼沙羅は落ち込んでいた。
 あの場では猛反発した二人であったが、冷静になると自分たちの狭量さが情けなくて仕方がなかった。黒絵の辛さや寂しさ、そして、嫌われる哀しさを想像できない訳ではないのに。
 ゆえに、彼女たちは決意した。
 心が恐れ、拒むことは仕方がない。しかしそれでも、出来ることをしよう、と。
「人探し、ねぇ」
 尋ねられると、瑠実音は顎に人差し指をあてがい、考え込んだ。
「私が知る限りだと、天原の力があるのはお義父様と樹都(きと)さん、すみちゃん」
 挙げられた三名――お義父様とは天笠阿聖(あせい)のことで、柚紀の祖父である。樹徒というのは、櫂の兄、つまり、柚紀にとっては伯父にあたる人物である。最後に、すみちゃんというのは、天笠阿澄(あまがさあすみ)のことで、こちらは櫂の妹であり、柚紀の叔母にあたり、更には、瑠実音の同級生だった人物だ。
 各々、みな天原の強き力を継いでいるという。
 しかし、力ある者はそれだけにとどまらないようだ。
「あと、慎檎(しんご)と柑奈(かんな)もよ。そうそう。人探しなら、柑奈は多分うってつけね。あの子、昔から感じる力が強かったらしいから」
「へ?」
 柚紀は思わず間の抜けた声を上げた。
 瑠実音の話に出てきた慎檎と柑奈は、フルネームを天笠慎檎、天笠柑奈といい、各々、柚紀の実弟と実妹である。まさか、自分の兄弟までも力ある者とは、柚紀は思ってもみなかった。
「ちょ、ちょっと。私が今まで天原とか耳にしなかったってことは、私には隠してのよね?」
「ええ。まあね」
「それで何で、慎檎と柑奈は――」
「見えちゃってたから」
 端的な答えだった。
「……見えてたって、幽霊とか?」
 幽霊っているんだ、という感想を抱きつつ、つい先日から非日常に足を踏み込んだ者が訊ねた。
 瑠実音がふわりと微笑み、頷く。
「そう。お義父様がおっしゃられるには、見えるだけっていうのが一番危ないんですって。だから、お義父様やすみちゃんが天原とかそのあたりの事情を全て教えて、ごく簡単な鍛錬をさせたの。今じゃ、慎檎は除霊みたいなことができるみたいだし、柑奈は出るところに出れば千里眼少女なんて呼ばれるでしょうね」
 その言葉を耳にすると、柚紀は渋面を作る。突然、弟と妹が異能者だと聞かされ、戸惑っていた。しかも、話を聞かせているのは実の母親である。
 最近、とんでもない展開には慣れてきた彼女ではあったが、久しぶりに許容量を超えたらしい。
 しかし、そこで戸惑っている場合でもないため、努めて耐える。
「そ、そっか。じゃあ、柑奈に頼めばよさそう?」
「たぶんね」
 満足のいく答えを母から得て、柚紀は小さく笑む。これで目的は達した。
「わかった。ありがと。ちょっとメールでもしてみるわ」
 そう口にして、彼女はきびすを返す。
 柚紀の陰に隠れていた鬼沙羅も、ぺこりと礼をしてから外へ向かう。
「待ってー、柚紀ぃ」
「あんた、一言も喋んなかったわね。人見知り直しなさいよ」
「あ、挨拶はしたもんっ」
 顔を紅くして反論した鬼沙羅を瞳に映し、柚紀が笑う。その表情は、幸せそうだった。
 ふっ。
 母もまた笑みを零した。
 人は時に、自分以外の幸福こそが自分の幸福になる。子が、親が、友が、笑っていてくれたなら、それで幸せなのだ。
 いつだって、そう在りたいのだ。
「ねえ。柚紀。鬼沙羅ちゃん」
 くるり。
 呼びかけられ、二名が振り返った。
 瑠実音は、彼女たちの瞳を真っ直ぐに見つめて、瞳を細め、口角を上げ、たおやかに微笑む。
「また来てね。今度はもう一人も――阿鬼都くんも一緒に」
 にこり。
 柚紀と鬼沙羅は顔を見合わせ、瞳をしばたたく。
 そうしてから微笑み、頷いた。

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