第4章 漆黒の悪魔
繋がる手と手

 大地から顔を出した陽の光が、龍ヶ崎(りゅうがさき)の町を照らす。夜の残り香に朝が交じり、不可思議な懐かしさが去来する。
 町の一画、気龍寺(きりゅうじ)の前の道を行く人々はどこか儚げだ。彼らは一様に、心にあるかつての風景を、あるいは、これからの風景を幻視しているかのようだった。
 しかし、彼らの心の有りようなど意に介さず、かの寺に住まう者たちは朝餉の時間を忙しく、騒がしく過ごしている。
「おい! 醤油とってくれ、醤油!」
「はいよ!」
「おかわりくだされ! 大盛りで!」
「お待ちを!」
 気龍寺の朝は早い。阿鬼都(あきと)が寝泊りした部屋の僧侶たちは早朝四時に目を覚まし、ある者は食事の支度を、ある者は敷地内の清掃を、ある者は寺の拭き掃除を始めた。
 それでも、阿鬼都はその後も睡眠をとることを許され、先ほど六時まで眠っていた。
 しかし、朝食の時間はずらしてもらえず、結果、叩き起こされてしまい、現在、皆と共に箸を進めている。
 もぐもぐ……
「僕、肉とか魚とか食べたいんだけど……」
「我慢せえ、ガキ。坊主の食事なぞこんなもんじゃ」
 朝食に並ぶのは、野菜や豆腐ばかり。動物性たんぱく質など一切存在しない。
 はぁ。
 ――これなら、鬼沙羅(きさら)のスイーツ朝ごはんの方がマシだよ
 もぐもぐ……
 小さくため息をつきながら、阿鬼都はほうれん草のおひたしを口に運ぶ。しかし、薄味すぎて眉を潜める。
 ――ったくもぉ。せめて味付けくらい濃くしないとやってらんないって!
 がらっ。
『おはようございます! お嬢さん!』
「おはよう」
 阿鬼都が醤油を求めて立ち上がろうとした時、当寺の娘、木之下幽華(きのしたゆうか)が食事の場に顔を見せた。八分丈のジーンズにパーカーという簡素ないでたちである。
 その後ろには、阿鬼都同様に昨夜転がり込んだ少女、黒絵(こくえ)が続く。こちらも、デニム生地の短パンにジャージの上着という気取らぬ格好である。
 彼女たちはすたすたと歩みを進め、阿鬼都の隣に陣取る。
「おはよー、黒絵。幽華」
「……おはよ……阿鬼都……」
「おはよう」
 簡単に挨拶を済ませ、女性二名は朝食にとりかかる。手を合わせて小さく礼をする。言葉こそないものの、食事を作った者、食事と成った物への感謝をささげた。
 もぐもぐ。
 幽華はいつものことゆえ慣れているようで、野菜ばかりの食事に文句などないらしい。黒絵もまた、虫として過ごしている普段と比べれば豪華な食事ゆえに、文句を口にすることもなく、黙々と根菜を口に運んでいる。
 はぁ。
 自分が少数派であることを自覚し、阿鬼都がため息をついた。そして、醤油を求める旅に出た。

 午前九時三十分、阿鬼都たち三名が気龍寺を出て駅前へと向かっていた。
 ちなみに、幽華と黒絵は朝食時の格好からは着替えている。幽華曰く、いつ柚紀(ゆずき)に会ってもいいようにおしゃれしなくちゃ、とのことである。なお、黒絵にも幼少期の服を着せたのは、着替えさせるのが楽しいからだそう。
「で。駅前行ってどうするの?」
 阿鬼都が尋ねた。
 先頭を歩いていた幽華が、振り向いて言の葉を繰る。
「どうするも何も、そこから貴方ご所望の鬼の気配がするのよ。ここ最近ずっとそう」
「そーなの? 酒呑(しゅてん)? 清姫(きよひめ)?」
 再度の問いに、幽華は寸の間考え込み、答える。
「恐らく、清姫という鬼ね。あの時に戦った酒呑童子の気配とは違うもの」
「ふーん。なら、少し安心かな」
 幽華の応えを耳にすると、阿鬼都は安堵した。それというのも、彼の知る限り、酒呑童子の性格に細やかさなど微塵も感じられないためであった。
 感知――気配を探るというのは中々に気を遣う作業であり、基本的に短気な者には向かない。
 阿鬼都の記憶の中にある酒呑童子には、そのような作業は到底無理に思えた。一方で、清姫はうってつけの人物に思えたのだ。
 微かな希望が見えてきた。
「よーし! 張り切っていこー!」
「……おー……」
 元気に腕を振り上げた阿鬼都に、黒絵がゆっくりとした動作で続く。
 しかし、残りの一人は全く空気を読む気がない。
「ふわあぁあ。……お子様は元気ね」
 幽華は眠そうにあくびをしつつ、呆れたように瞳を細めた。

「うふふ。『はりー・じゃくそんと八百万の神々』、面白う御座いました。異人の男性が、まさか天津神様のご子息とは…… お仲間との心温まる友情も素敵でしたわ。本日のえいがは当たりで御座いました」
 正午を三十分ほど回った頃合に、嬉しそうに独白しながら、着物姿の女性が階段を下りてきた。長く艶やかな黒髪、落ち着いた物腰。現代社会において絶滅の危機に瀕している、大和撫子と評してよい風貌をしていた。
 女性は階段を下りきり、視線を巡らす。そして、直ぐそこに見えるCDショップへと足を向ける。しかし、その足は直ぐに止まることとなった。
 ざっ。
「あら。阿鬼都様では御座いませんか。いかがされました?」
「よっ、清姫。楽しそうだね」
 バニラ味のソフトクリームを舌で舐めつつ、阿鬼都が言った。アイスの代金は当然、幽華持ちである。
「まったくもー。待たされたよ。上映中の映画館に突撃するわけにもいかないからね。それにしても、よく映画なんて観るお金あったな」
 十時くらいからCDショップやブティックを冷やかしつつ時間を潰していた阿鬼都が、うんざりした表情を浮かべて、そう口にした。
 対する清姫は、口元を隠しながらおかしそうコロコロと笑う。
「うふふ。お金など御座いませんわ。阿鬼都様、ご存知でしょう? 清は壁抜けが得意ですのよ」
 悪気など一切なく、鬼が言い放った。
 阿鬼都は、やっぱりか、と苦笑して肩を竦める。特にいさめるつもりなどはないようだ。
 一方で――
「無銭宿泊だけでは飽き足らず、無銭映画鑑賞とはね。この勢いだと、無銭飲食なんかもやってそうね」
 土蜘蛛(つちぐも)騒ぎの折にホテルドラグノに無銭宿泊した鬼はこいつか、と幽華が呆れる。彼女は、少しは自粛しろ、という意味合いを込め、鬼を軽く睨めつけた。
 しかし、当の清姫は全く意に介さぬ様子で、柔らかく微笑む。
「鬼流(きりゅう)様もご一緒でございましたか。お初にお目にかかります。清と申します」
 深々と下げられた頭に、幽華は拍子抜けして言葉に詰まる。喧嘩腰となっていた気持ちをそらされた。
「……き、木之下幽華よ」
 辛うじて、自己紹介だけは済ませて、バツが悪そうに唇を尖らせた。
 彼女に対して再び低頭して、充分経過してから、清姫がもう一名――黒絵にも視線を向ける。
「そしてこちらは、妖怪様でございますか? 元々は御虫様のご様子。……あら、御身にお残りになっております力――なるほど、呉葉(くれは)お姉様や酒呑童子様、そして清が崩しました御山の方でございましたか」
 瞬時に黒絵の正体を見破り、清姫が再度深々と礼をした。清で御座います、と口にしてにっこり笑う。
「……黒絵……で御座います……」
 むっつり無表情でそう口にしながら、黒絵もまた深々と頭を下げる。
 最敬礼合戦が繰り広げられる中、阿鬼都と幽華は驚嘆していた。
 どこかとぼけた様子の清姫ではあるが、その感知力の程は幽華を凌ぐ。
 阿鬼都がさっそく本題に入る。
「ねえ、清姫。ちょっとお願いしたいことがあるんだ」
「はい。何で御座いましょう?」
 清が小首を傾げて問いかけた。
 阿鬼都は、こほんと咳払いをしてから続ける。
「この間、お前らが山を崩した時、あそこにいた生き物はどこかに避難させたんだよね?」
「ええ。左様で御座います。呉葉お姉様が山を形成する土砂を、酒呑童子様が全ての植物を、そして清が全ての生物を別の場所へ移動いたしました」
 鬼が、とんでもないことを簡単に言ってのけた。
 阿鬼都と幽華が苦笑する。そうしてから、次の問いを投げかける。
「やっぱか。あのさ、その時に黒絵と、黒絵の兄ちゃんの黒羽(くろう)が離れ離れになっちゃったんだ。その黒羽を探すのを手伝って欲しいんだけど、いいか?」
「まあ!」
 阿鬼都の言葉を耳にすると、清姫は胸の前で手をぽんと合わせて悲しげに瞳を伏せ、眉をハの字にした。
「申しわけ御座いません、黒絵様。清の不手際でそのようなことに…… 勿論、御手伝いさせて頂きますわ」
「……ほんと……?」
「はい。任せて下さいまし。清たちの力の残滓と、黒絵様と同種の御虫様の気配、加えて、黒絵様がお持ちになられております霊気に似通った御力をお持ちの御仁を見つけ出せば宜しいのですね」
 清姫がにこりと微笑み、言った。そして、彼女は寸の間瞳を閉じる。
 すると――
「いらっしゃいました。ここから北西にある建物。そちらに、条件に該当いたします御仁がおいでです」
 直ぐさま、目的の者を探し当てた。
 ひゅぅ。
 阿鬼都が感嘆し、口笛を吹いた。幽華も瞠目し、鬼の驚異的な力に対して肩を竦めている。
 そして、黒絵は嬉しそうに微笑み、清姫の腕に抱きつく。
 ぎゅっ。
「……清……ありがと……」
 清姫は黒絵を見下ろし、ふふふ、と笑む。そして、彼女の手を取る。
「さあ、参りましょう。阿鬼都様。黒絵様。木之下様。目的の建物には、清も以前に赴いたことが御座います。御案内させて頂きますわ!」
「……うん……!」
 眩い笑みを携え、黒絵が頷いた。
 その様を瞳に映して、阿鬼都も幽華も嬉しそうに微笑む。
 希望の光が、平日の午後を満たしていた。

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