第4章 漆黒の悪魔
想い駆けるその姿

 龍ヶ崎(りゅうがさき)中学校の四時限目は、十二時〇〇分までとなっている。時に足の出る授業もありはするが、天笠柑奈(あまがさかんな)が属する二年三組の数学を受け持っているのは、岩瀬奈那子(いわせななこ)である。彼女は、あらゆることにきっちりしていることで有名だ。当然、授業の開始時間、終了時間も。
 きーんこーんかーんこーん。
「今日はここまで。日直」
「起立。礼」
 やはり、チャイムが鳴った瞬間に授業を終えた。これで、心置きなくスタートダッシュできる。
 柑奈(かんな)はそう考え、四十度に曲げた腰を真っ直ぐに戻す。そして――
 だっ!
 駆け出した。
「天笠さん! 廊下は走らない!」
「ごめんなさーい!」
 岩瀬女史の叱責を受けるも、柑奈は謝りはするが止まりはしない。相変わらず、廊下を全力疾走する。
 そうして、数分ののちに玄関口へと至った。
「っとっとと」
 急いで内履きを脱ぎ、下駄箱に突っ込む。それと同時に外履きをとり出し、放った。
 ぽん。たっ。
 靴が地面に転がった瞬間に踏みつけ、即座に踵を踏んだまま駆け出す。
 たったったったったっ!
 正面玄関を飛び出すと、目の前に広がるのはグラウンド。しかし、今回の目的地はそこではない。
 柑奈はスピードを緩めずに左に曲がり、グラウンドに沿って走り続ける。彼女が駆ける道が向かう先は――
 門が見えてきた。龍ヶ崎中学校と外界を隔てる正門。そこに、二つの影が佇んでいた。
 かたや、小さな女の子。かたや、柑奈が幼い頃から慣れ親しんでいる女性。
 柑奈は後者へと勢いよく駆け寄る。
「おっねえーっちゃあぁあっんっ!!」
「ちょっ! か、柑奈!」
 がばっ!
 対象を吹き飛ばさん限りに抱き着いた、お姉ちゃんっ子――天笠柑奈十四歳であった。

「こちら、鬼沙羅(きさら)。もう知ってるかもしれないけど、色々あって居候してる鬼の子よ」
 天笠家長女、柚紀(ゆずき)が鬼沙羅を示し、二女の柑奈に紹介する。そして、
「こちら、柑奈。私の妹よ」
 柑奈を示すと、鬼沙羅にも紹介した。
「はじめましてー!」
「……は、はじめまして」
 元気いっぱいに柑奈が挨拶した一方で、鬼沙羅がおどおどと挨拶した。
 柑奈が訝り、小首を傾げる。
「あれ、鬼沙羅ちゃん、元気ない? だいじょぶ?」
「あ、その、だいじょぶ」
 ぺたぺたと触ってくる柑奈に、鬼沙羅は戸惑いながら返答した。
 その様子を瞳に映し、柚紀が苦笑する。
「鬼沙羅はちょっと人見知りなのよ。慣れれば普通になるから、あんま気にしないで」
「そーなんだ。早く慣れてね」
 にぱっ。
 破顔一笑して、柑奈は鬼沙羅の顔を覗き込む。
 鬼沙羅はやはり戸惑い顔ながらも、小さく微笑む。
「ところでお姉ちゃん。聞きたいことって何なの?」
 そこで本題を思い出し、柑奈が尋ねた。彼女の携帯電話に柚紀からのメールが届いたのは、つい先ごろのことだ。その内容は『少し聞きたい事があるんだけど、昼休みにちょっと出てこれない?』というものだった。
 授業に退屈していた彼女は、校門で待ってて、と即座に返信し、昼休みと相成るや直ぐさま飛び出してきたのである。給食もそっちのけだ。
「ああ、実はね。人を探してるのよ。母さんに聞いたんだけど、柑奈ってそういうの得意らしいじゃない?」
「うん、まあね。失せ物、尋ね人、何でも御座れ。柑奈探偵事務所へようこそ、だよ」
 ばばっ!
 片足を上げて体をひねり、左手を顔の前ですちゃっと構える、という妙な決めポーズを取りながら、柑奈が得意げに言い放った。
「……お姉ちゃんは、あんたの将来が少し心配だわ」
「むー。お姉ちゃん、ノリ悪いー」
 頭を抱えた姉に、妹が不満顔を向ける。
「はいはい。ごめんごめん。それより、引き受けてくれるの?」
 柚紀が気を取り直し、改めて尋ねた。
 すると、柑奈はにこりと微笑み、元気よく頷く。
「勿論! お姉ちゃんの頼みとあらば! それで、誰を探して欲しいの?」
 妹に問われると、柚紀は寸の間、黙り込む。
 それというのも、彼女の妹もまた、例の漆黒の悪魔が苦手であるがゆえであった。しかし、伝えずにはいられまい。
「あ、あのね――」
「あれ。もしかして、黒一族(くろいちぞく)を探してる?」
 柚紀が何かのたまう前に、柑奈は柚紀の体を注視し、そう尋ねた。
 しかし、柚紀も鬼沙羅も、黒一族とは何なのか、さっぱり分からない。
「く、黒一族?」
「うん。やっぱりそうだ。お姉ちゃん、黒一族と会ったでしょ? 昨日の夜?」
 柚紀が戸惑い、尋ねても、柑奈は独白のように続ける。
「その黒一族は――今は駅前かな? 鬼沙羅ちゃんとよく似た気配の鬼と一緒にいる。この子がお姉ちゃんのとこにいるっていう阿鬼都(あきと)くんかな? あ、それと――気龍寺(きりゅうじ)の幽華(ゆうか)さんも一緒みたいだね」
 そこでようやく、柚紀と鬼沙羅は『黒一族』というのが、黒絵(こくえ)のことだと知る。木之下幽華(きのしたゆうか)が何故共にいるのかはともかくとして、阿鬼都と共にいる者となれば、それは黒絵だ。
 柚紀の妹、柑奈の能力は、想像していた以上のものであった。
「柑奈。あんた、凄いわね」
 賞賛されると、柑奈はきょとんと瞳をしばたたき、それから快活に笑った。
「あはは。お祖父ちゃんに比べればまだまだだよ。それより、探したいのはその黒一族? それとも、阿鬼都くん?」
「ううん。その子たちを探したいんじゃなくて、その、えーと黒一族? まあ、あんたが黒一族って言ってる子、黒絵って名前なんだけど、その黒絵のお兄さんを探してるのよ」
 柚紀の言葉を聞くと、柑奈はすっと瞳を閉じた。
 そして――
「お兄さん――となると、その黒絵ちゃんと似た気配、なのかな。龍ヶ崎町内に黒一族の気配は十、二十――二十八。その中で、黒絵ちゃんに似通っているのは――いた!」
 息を詰めて見守っていた柚紀と鬼沙羅は、柑奈のその言葉に表情を明るくする。
「見つけたの!?」
「どこ!?」
 詰め寄る二者に、柑奈はにこりと微笑む。
「臥龍(がりゅう)大学、だね。その構内にいるみたい」
「ありがと! 柑奈!」
「ありがとー!」
 たっ。
 柚紀と鬼沙羅が即座に踵を返した。
 その姿に、柑奈は不満の声をぶつける。
「ちょ、柑奈も連れてってよ!」
「午後の授業あるでしょ!」
「さぼるもん! お姉ちゃんも大学さぼってるもん!」
 痛いところをつく妹に、しかし姉は悪びれもせずに叫ぶ。
「大学はさぼってもいいの! でも中学校は駄目!」
「横暴ー! ちょ、待ってよ、お姉ちゃ――!」
 たったったったったっ!
 止める声も聞かずに、姉と鬼子は去っていった。
 そんな彼女たちを見送り、憤懣やるかたなし、という表情で佇んでいた柑奈であったが、直ぐに小さく微笑む。
 元気に駆けて行く姉の姿。その喜ばしき現実を瞳に映し、溜飲を下げた。
 悲劇の結婚式のあと、姉の周りに漂い始めた鬼の気配に、最初に気づいたのは柑奈だった。その事実はいっとき、親族内にて真剣に話し合われるに至っていた。祖父の阿聖(あせい)も、伯父の樹徒(きと)も、直ぐになんらかの措置を取るべきである、と言い切った。
 しかし、それに待ったをかけたのは、天笠櫂(あまがさかい)と天笠瑠実音(あまがさるみね)――父と母であった。
 新郎に逃げられて落ち込んでいる柚紀が、少しずつではあるが、元気を取り戻していっていた。怒っていることが多い。イライラしていることが多い。それでも、決して塞ぎ込んでいることはなかった。その事実を考慮し、しばし待つべきではないだろうか、と。
 そして、姉は今、元気に笑い、怒り、人を想って駆けている。黒一族――つまりは、ゴキブリが相手であるというのに。かの者を柑奈同様、苦手としているはずなのに、苦手な相手の心を慮り、奔走している。柑奈の大好きな、姉として生きているのだ。
「……よかった。ホントに」
 呟き、柑奈は瞳を閉じる。そして、人知れず、鬼に感謝した。鬼沙羅と阿鬼都に心の底から。
 しかし、そうしながらも、彼女は不満そうに頬をふくらます。
 ――でも、柑奈を置いていったのはダメダメだよ、お姉ちゃん! よーし!
 かちかちかちかち。
 女子中学生は携帯電話を取り出し、高速でボタンを押す。このご時世にスマートフォンでないのは、両親の方針だった。しばらくはお子様ケータイのままだろう。
 彼女はガラパゴスな携帯電話を天へとかざし、送信ボタンを押した。作成した電子メールを飛ばした。

 ちゃららーん。
 柚紀のスマートフォンが電子音を発する。メールを受信した際の着信音だ。
 ぴっぴっ。
 ポケットからスマートフォンを取り出して、メール受信画面を開く。
『今週末、綺羅星堂(きらぼしどう)のケーキたっくさん買って帰ってくること! じゃなきゃもう口利いてあげない!』
 柚紀は苦笑し、了解、と呟いてからスマートフォンをしまった。
 そして、想い、駆ける。

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