臥龍(がりゅう)大学キャンパス。屋外にとどまらず、食堂や図書館をも一般に公開しているゆえ、晴れた平日の昼過ぎともなると近在の親子連れや老人が訪れることも多い。
本日も例に漏れず、緑地区画を走り回る子供たちや食堂に足を向ける奥様方、そして、寄り添って図書館へ向かう老夫婦がちらほら居る。
「……広い……凄い……」
ぽかんと口をあけ、黒絵(こくえ)が呟いた。
隣に立つ清姫(きよひめ)もまた、感嘆している。
「まぁまぁ。真で御座いますねぇ。先日は夜半に参りましただけでしたので、このように楽しそうな場所だとは気づきませんでしたわ」
きょろきょろと辺りを見回し、彼女は瞳をキラキラと輝かせた。今にも目的を忘れて、ウキウキと見物を始めそうな勢いである。
阿鬼都(あきと)は嘆息し、呆れた瞳をおのぼりさんとかしている鬼へと向ける。
「黒羽(くろう)を探すのが先だからね」
「わ、わかっておりますわ。嫌ですわ、阿鬼都様ったら」
うふふ、と微笑み、清姫はそう応えた。視線が泳いでいる理由は、尋ねるまでもないだろう。
ふぅ。
ため息をついてから、阿鬼都は視線を巡らす。
「それで黒羽は――」
「あっち、かしら?」
応えたのは同行していた鬼流(きりゅう)――木之下幽華(きのしたゆうか)だった。考え込むように右手でおでこを軽く押さえ、左手で敷地の奥を示しながら、呟いた。
清姫が彼女の示す方向を見やり、こくりと頷く。
「左様で御座いますわ、木之下様。あちらへ六町ほど向かった先に御座います建物に、黒絵(こくえ)様の兄君、黒羽(くろう)様がおられるようです」
鬼がより詳しい情報を開示した。
ちなみに、六町とは、おおよそ六百五十メートルほどである。
「そこら辺は――サークル棟、かしら」
呟き、幽華(ゆうか)が苦笑した。神聖事象研究会会長、皿屋敷巌(さらやしきいわお)に見つかったら、何だか厄介なことになりそうな面子だな、と考えながら。
一方で、阿鬼都と黒絵は無邪気に喜んでいる。直ぐあとに控える、再会を想って。
サークル棟の一画――二階南側の窓に面した廊下は、戦場と化していた。
決して相容れぬ者同士。彼らは勝者と敗者という明確な違いにより袂を分かつため、争わねばならなかった。
「わああぁああぁああぁああぁあ!」
男子学生の一人が叫んだ。
黒い翼が、建物内を縦横無尽に翔け抜ける。
「そっちだ! そっち行ったぞっ!」
「誰か! アースジェットもって来い!」
「きゃあぁあ! 悪魔あぁ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。そこまでは言い過ぎであろうが、大騒ぎという言葉はしっくりくる。
サークル棟に到着した一行は、惨状を瞳に映し、ため息をついた。
「……人間って大げさだね」
「……まあ、ね」
阿鬼都が呆れた様子で肩を竦めるのに対し、幽華は否定できずに苦笑する。
一方で、黒絵は険しい表情を浮かべて、駆け出す。
「……黒羽……!」
その様子を瞳に入れ、阿鬼都は頭を左右に振る。呆れている場合じゃない、と。
「清姫。あいつら全員、金縛りに――」
「ストップ。言い訳しづらい状況作らないでくれる? 今の世でも、あんまり目立つと生きづらいわよ。鬼も、鬼流も、天津神(あまつかみ)や天原(あまはら)の民でさえもね」
幽華の言葉に、阿鬼都は寸の間沈黙し、納得する。そして、
「……なら、あいつらより先に、黒羽を保護する!」
宣言し、彼は勢いよく駆け出した。
たったったったっ!
天笠柚紀(あまがさゆずき)と鬼沙羅(きさら)は、龍ヶ崎(りゅうがさき)中学校から一キロほどの距離を駆け、臥龍大学へとやって来た。息も絶え絶えに正門を潜り、肩で息をしながら視線を巡らす。
天笠柑奈(あまがさかんな)の言葉に導かれてここまでやっては来たものの、これからどちらへ向かったものか見当もつかない。
仕方がなく、急ぎ足で適当に歩き回ることにするが、それで都合よく見つかるわけもなし。途方にくれ、そして、疲労ゆえに、二名とも備え付けのベンチに座り込んでしまう。
「うにゅー。疲れたー。柚紀(ゆずき)ぃ。柑奈(かんな)みたいに、黒羽(くろう)って人の気配分かんないの?」
「無茶言わないでよ。こちとらこの間まで平凡な一般市民だったのよ? 鬼沙羅(きさら)こそ、なんか分からないわけ?」
「えー。わたしだってそんなに感知は得意じゃないのにー」
鬼沙羅は不満顔を浮かべながらも、両手の人差し指でこめかみを刺激しつつ、懸命に集中を始めた。すると、黒羽の気配らしきものは全く感じ得ないが――
「あ。お兄ちゃんがいる。あっち!」
早々に阿鬼都の気配を感じ取った。嬉しそうに大学構内の奥を指差す。
そちらには、神聖事象研究会的な意味でかなり不安材料だらけのサークル棟がある。そのような事実を認識して柚紀は顔を顰めるが、嫌がっている場合ではないと奮起し、頭を振る。
阿鬼都がいるのであれば、少なくとも黒絵もいるはずである。黒羽を発見済みであるならばそれでよし。そうでなくとも、情報交換くらいは出来るはずだ。
柚紀は明るく笑って立ち上がり、鬼沙羅の手を取った。
だっ!
「さっすがブラコン! さあ、いくわよ!」
「ち、違うもん! 双子の神秘だもん!!」
柚紀に続いて駆け出しながらも、鬼沙羅は顔を紅くし、叫んだ。
ぷすんっ! ぷすんっ! ぷすんっ!
黒塗りの拳銃からは、軽いスカスカの音が響く。それもそのはず、物騒な見た目に惑わされるなかれ。迷彩服姿の眼鏡男子が握っているそれは、エアガンなのだ。サバゲー同好会の備品である。
「ちっくしょー! ちょこまか動きやがって!」
弾切れらしく、男性が地団太を踏んだ。
彼の攻勢などどこ吹く風で、黒き虫――黒羽は健在であった。廊下の壁をカサコソと動き回っている。
「何だ。結構だいじょぶそーだな」
「……さすが……黒羽……」
少し息を切らせながら駆けつけた二名が、独白した。阿鬼都と黒絵である。
彼らは安心したのか、ゆっくりとした足取りで攻防を続ける人と虫に近寄る。
その間も、人間たちはザワザワと何やら話をしている。
「下がっていろ、サバ同」
眼光鋭い長身の男がスッと一歩前に出た。
「か、空手部。お前、まさか素手で……!」
その男を見上げて、弾切れにて力尽きた眼鏡男子が瞳を見開く。それも当然だろう。一人の漢が、自らを犠牲にして皆を守ろうとしているのだから。
「誰かがやらなけりゃあいけねぇこと。なら、鍛えたこの腕を役立ててぇじゃあねぇか」
「空手部うぅうぅう!!」
よく分からない感動が渦巻いた。
そんな彼らに呆れた視線を送りつつ、阿鬼都と黒絵は思わず足を止めた。その一瞬が、命取りになるとは知らずに。
「はっ!」
ふざけた様子から一変、長身の男は瞬時の歩により間合いを詰める。その動きは人並み外れたものであり、阿鬼都が瞳を瞬く寸の間にて為された。更には、空手部男の腕は既に黒羽をとらえている。後は拳を打ち出すだけ、その間、零コンマ一秒とかかりはしない。
がんっ!
破壊音が響く。拳は壁にひびを入れ、そして――
はぁはぁはぁ。
肩で息をしながら、柚紀と鬼沙羅はサークル棟の前までやってきた。するとそこには、幽華と清姫が佇んでいた。
「幽華!」
「柚紀!」
満面の笑みを携えて、幽華が出迎える。
一方で、清姫は恭しく頭を下げ、微笑む。
「天笠柚紀様でございますね? 御噂は木之下様からお聞きいたしております。お初にお目にかかります。清と申します」
「は、はぁ。どうも。天笠柚紀です」
戸惑った様子の柚紀。隣で息を整えている鬼沙羅もまた、呆れた様子である。
「清ちゃん、相変わらず頭のねじが一本とんでるよね」
「あら、鬼沙羅様。ご機嫌麗しく存じますわ」
にこり。
鬼沙羅の少しばかり失礼な発言にも、特に怒り出すでもなく清姫は微笑んだ。
その様子を瞳に映し、相手にしていたらキリがなさそうだ、と判断して柚紀は幽華に瞳を向ける。
「幽華。阿鬼都と黒絵は?」
「サークル棟の中。ほら、あそこよ」
そう口にして幽華が指さした先は、二階の廊下だった。何名かの学生が右往左往して騒いでいる。窓の隅の方に黒髪の小さな頭が見え隠れしているので、それが阿鬼都と黒絵だろう。
「あとは黒羽さんを捕まえるだけだし、黒一族が普通の人間に易々とやられることはないだろうってことで、私と清さんはここで見物しているところよ。いくら黒一族で慣れてるからって、あえてゴキブリの姿をダイレクトに見たいとも思わないしね」
「そ、それには激しく同意するわ…… というか、もう黒羽を見つけてたのね。完全に無駄足じゃん、私ら」
柚紀が嘆息と共に呟いた。
鬼沙羅もつられて息をつく。
彼女たちのそのような様子に、幽華はゆっくりとかぶりを振った。
「ううん。そんなことない。貴女たちがそんな風に走り回ってくれてたこと、阿鬼都くんも黒絵ちゃんも喜ぶと思う。私も、凄く嬉しい」
にこっ。
彼女の笑顔を正面から目にし、柚紀は瞳をしばたたいた。そして、照れる。頬をかき、視線を泳がせた。
ほのぼのとした空気が流れる。
しかし――
「いやあああああぁああああぁあああああぁあぁああ!!!!」
緊張が走った。