第4章 漆黒の悪魔
輝き光る黒

 曇りなき空から齎される光が、建物のひしめく大地を煌々と照らし出す。鬼や虫の心持ちなど、天は気にかけてくれない。晴れ渡る様子は、寧ろ人の子の喜びのみを讃えているかのようだ。
「……そ……んな……」
「……あ……あ……ああああ……!」
 絶望の表情を浮かべ、阿鬼都(あきと)と黒絵(こくえ)が立ち尽くしている。
 その一方で、大学生諸子は得意になって騒いでいる。
「おおぉお! やったな、空手部!」
「ふふん。まあ、ざっとこんなもんよ」
「でもエンガチョ」
 日常に還る喧騒。しかし、その代償に、小さき魔がゆるりゆるりと目を覚ます。
「……いや……いや……いや……!」
「こ、黒――」
「いやあああああぁああああぁあああああぁあぁああッッ!!」
 叫びがサークル棟を満たし、強い魔気が廊下を駆け抜けた。間近で放たれた気を受けて、阿鬼都が尻餅をつく。
 怪異に耐性のない学生たちもまた、意識を手放し、倒れ伏す。
 ばたっ。ばたっ。ばたっ。
 そんな中、黒羽(くろう)に対して拳を向けた空手男のみが、廊下に佇んでいる。少しばかり顔色を悪くしているが、それでも意識はしっかりしているよう。人並み外れた戦闘力に相まって、魔への耐性もまた有しているらしい。彼は、廊下に座り込んでいる阿鬼都と、立ち尽くしている黒絵に瞳を向ける。
「な、なんだ? 子供?」
 空手男がそう呟いた時、がらっと扉がスライドした。
 その扉の上部には『幼女研究部』と銘打たれていた。一風変わったその部は、しばしば幼研(ようけん)と呼ばれる。
 幼研部室からは、端正な顔立ちをした男が姿を見せる。彼は、特に体調を崩した様子もなく、ギンギンとした目つきで元気に視線を巡らす。
「今のは幼女の悲鳴! どこだ! 幼女はどこだ!」
 叫んだのは、天笠柚紀(あまがさゆずき)や木之下幽華(きのしたゆうか)の同級生である変態男、木曾雅哉(きそまさや)であった。かつて幼女――鬼沙羅(きさら)を襲った真性の幼女趣味(ロリコン)男である。
 彼は廊下のあちこちで倒れている学生諸子、具合の悪そうな空手男、そして、尻餅をついている阿鬼都には目もくれず、慟哭する黒絵にのみ色濃い視線を注ぐ。
「うおぉおぉお! 幼女が! 幼女がああぁあぁあ!」
 ほとばしる想いを叫びに変換し、雅哉が駆ける。
 その変態に向け、再び黒絵の魔気が襲い掛かる。哀しみが攻撃性へと転換し、廊下を駆け抜ける。
「あああぁあああぁあぁああぁあ!!」
 力が雅哉に襲い掛かった。
「ぐっ……」
 ぱたっ。
 黒絵と雅哉の間にいた空手部男は、ついに耐え切れなくなったようで、魔気に中てられて倒れる。
 しかし――
「オン!」
 ぱぁん!
 雅哉が力強い言葉を放ち、それに伴い、黒絵の放った魔気が雅哉の目前で雲散霧消した。
「なっ!」
 阿鬼都が驚愕するなか、雅哉は相変わらず息づかい荒く、駆ける。
「……ふぅ……ふぅ……幼女……幼女ぉ……!」
「……いや……いや……いや……!!」
 変態の目標となってしまった黒絵が、頭をかかえて呟きながら、絶望の海に沈み行く。
「黒絵! ……くそっ! 黒羽のことは後回しだ! とりあえず、あの男を!」
 目つきを険しくし、阿鬼都が雅哉に力をぶつける。
 彼が放った力は黒絵のものよりも数段上であった。しかし、雅哉は駆ける足を止めることなく――
「オン アロリキャ ソワカ!」
 ばあんッッ!!
 再度、力ある言葉を紡いだ。彼の言葉に伴い、やはり、鬼の放った力は消え去った。
 ――くそっ! こいつ、鬼流(きりゅう)か!
 鬼流とはいっても、雅哉の力は幽華に遠く及ばない。それでも、阿鬼都の上には位置するようであった。
 ただ力を発現させるのみでなく、九字のような術によって力を念入りに練り込みさえすれば、阿鬼都にも勝算はあるだろう。しかし、雅哉は既に阿鬼都と黒絵の目前に迫っている。
 距離をとる暇はない。
「よおおおぉぉおじょおおぉおおっっ!!」
 変態が叫びつつ、飛び掛ってくる……が――
「止めんかこの変態があああぁあぁああッッ!!」
 ばぎぃいぃいいぃいッッ!! がしゃあああぁああぁあんッッ!!
 黒絵に襲い掛かろうとダイブした雅哉が、窓ガラスを派手に壊しながら吹き飛んだ。光り輝く力強き拳をその身に受けた代償として。
 哀れ変態は、二階から地面へと落下していった。
「ゆ、柚紀!」
 阿鬼都は、変態の末路を気にも留めず、肩で息をしている女性を瞳に入れ、叫んだ。
 彼の妹の鬼沙羅(きさら)もまた、階段を駆け上りやってきて、心配そうに叫ぶ。
「はぁ、はぁ…… お、お兄ちゃん! 黒絵ちゃん! だいじょぶ!?」
 兄がハッと黒絵に視線を向ける。彼女は相変わらず、絶望に支配されていた。
「黒絵! 黒絵!」
 阿鬼都が肩を揺さぶって、声をかけた。
 しかし、黒絵は両手で頭を抱え、虚ろな瞳を携えてしゃがみこんでいる。
「……黒羽……死……ああ……ああぁあ……!」
 黒絵の呟き。
 絶望のそれにて、柚紀と鬼沙羅は哀しき事態を理解する。それゆえ、視線を落とし、黙り込んだ。
 阿鬼都は黒絵に必死で話しかけるが、彼女は絶望を吐き出すのみで、反応しない。
 皆が闇に支配されて佇む。
 そのような折に、動く影があった。それは――
「黒絵」
 ぴくんっ。
 突然の呼びかけに、黒絵が反応を示す。その瞳には、僅かながら光が宿った。その希望が幻想ではないことを確認するため、彼女は視線を巡らす。
 そして、柚紀たちが駆け上って来た階段から直ぐの扉――ブラスバンド部というプレートがかかった扉の前に、慣れ親しんだ愛しい姿を見止めた。
「……黒羽……?」
「ああ」
 応えたのは、長身の男性だ。年の頃ならば十代後半。切れ長の目、すらりと通った鼻筋、そして、艶やかな黒髪は鬱陶しくない程度の長さで揃えられており、爽やかな美青年という評価がふさわしい。
 黒絵の瞳に光が浮かぶ。
「……生きて……たんだ……!」
 青年が――黒羽がふわりと微笑む。
「あの男の拳にも多少は力がこめられていたが、天原(あまはら)や鬼流ほどじゃない。ならば、僕も黒一族(くろいちぞく)の次期族長候補だ。そう易々とやられはしないさ」
「……黒羽ぅ……わああぁああん!」
 泣きつく黒絵を優しく抱きとめて、黒羽が慈しむように瞳を細める。ぎゅっと彼女を抱きしめ、柔らかな黒髪を優しく撫でる。
 そして、数分ののち、黒羽は阿鬼都に視線を向ける。
「妹が世話になったようだね。ありがとう」
「いいよ、別に。やりたくてやったことだし」
 にかっと笑う阿鬼都に微笑み返し、それから、彼は柚紀と鬼沙羅に視線を送る。
「貴女たちもありがとう。黒絵を守ってくれ――」
「やっぱ無理ぃい!」
 ばちいぃいん!
「へぶしっ!」
 微笑む美形青年が、柚紀の平手を受けて倒れ込む。床に激しく体を打ちつけた。その際、抱きとめていた黒絵を阿鬼都に素早くバトンタッチしている辺り、立派なものである。
 はぁ、はぁ、はぁ。
 柚紀が怯えた様子で荒く息をついていた。
 ぱちくり。
「……黒羽……?」
 瞳をしばたたかせて、黒絵が呟いた。
 隣に佇む阿鬼都は、荒い息をつく柚紀と倒れ伏した黒羽を交互に見て、苦笑する。
 ――まあ、力つかわないで殴っただけみたいだし、大丈夫か。それに……
「こ、黒絵ちゃん。大丈夫……?」
「……うん……大丈夫……」
 やや怯えながらも、心配そうに尋ねた鬼沙羅を瞳に入れ、阿鬼都は微笑む。
 ――心が拒むのはしょうがない。でも、歩み寄れる
 彼の心に去来したのは幽華の言葉だった。その言葉どおり、彼の大切な人たちはここまで来てくれた。
「――はっ! ご、ごめんなさい! ついつい手が…… ああ、でも助け起こすことは是が非でも拒絶させていただきたく!」
 慌てた様子で、柚紀が必死に言葉を紡いだ。
 阿鬼都は苦笑と共に彼女を見やり、それから、黒絵を見る。
 彼女は、かつて自分を拒絶した、それでも自分と同じ場所に立つことを選んでくれた二者を――柚紀と鬼沙羅を瞳に入れ、笑っていた。心の底から。嬉しそうに。
 その様子を瞳に入れ、阿鬼都もまた――笑った。

 二階から窓ガラスの破片と共に落ちてきた男へと呆れ果てた視線を送りつつ、木之下幽華はメンコを取り出した。
「木之下様。何をなさっておいでですの?」
「親戚とは認めたくない恥ずかしい輩の処分――よ!」
 彼女がメンコを力強く地面に叩きつけると、一陣の風が巻き起こる。
 ばあん!
 がさがさっ。
 変態男――雅哉の体が路肩の生垣の中へと消えた。
「ふぅ」
「まあ、御見事ですわ」
 ぱちぱち。
 穏やかに微笑みながら、清姫(きよひめ)が楽しそうに手を叩いた。
 一方で、幽華はげんなりとした表情で佇む。
 ――木曾家、いえ、鬼祖(きそ)家も大変ね。次男坊とはいえ、あんなのを抱えちゃって
 鬼を祖に持つ鬼之下(きのした)の娘として、同様に鬼の末たる鬼祖家に同情した。

 サークル棟での騒動から数刻。生徒が多数気絶するという、存外にも大きな騒動となってしまったことから、疑いをかけられる前にさっさと退散することとした面々は、学食がある区画の広場にて顔をつき合わせていた。
 各々の顔を順に見回し、黒絵と並んで立っている黒羽が微笑んだ。
「黒絵が大変お世話になりました。ありがとうございます。皆さん」
「いえ、その、というか、私は色々と――ごめんなさい」
 真っ直ぐな笑みと共に示された感謝を受け、柚紀は視線をそらして小さく縮こまり、頭を下げた。その間も、黒き虫の化身たる黒羽からは遠く離れ、及び腰である。
 その様子に気を悪くするでもなく、黒羽は微笑む。
「お気になさらず。人間が僕らを拒絶するのは仕方がありません。寧ろ、それでも黒絵のために頑張って下さったこと、嬉しく思います」
 にこり。
 黒羽の感じのよい笑みを瞳に入れ、柚紀は曖昧な笑みを浮かべる。その笑みには、申し訳なさに加え、勿体無い美形だなぁという感想も込められていた。
 彼女と同じ感想を持っているのだろう。幽華や鬼沙羅なども苦笑と共に黒羽を見つめている。
 一方で、黒絵は一切の含みがない笑顔を浮かべる。
「……ありがと……」
 彼女の視線は、清姫、幽華、鬼沙羅、柚紀へと遷移し、最後に阿鬼都にそそがれる。
 阿鬼都はその視線をまっこうから受止め、にかっと笑う。
「気にすんなって。友達だろ? それよりさ、今度遊ぼーよ。柚紀と鬼沙羅――はちょっと無理そうだけど、幽華とか知稔(ちねん)とか清姫とか、あと健太(けんた)っていう僕の友達も一緒にさ。な?」
 そう声をかけられると、黒絵は瞳をぱちくりとしばたたく。そうしてから、いったん黒羽に視線を送る。
 兄は優しく微笑み、力強く頷いた。
 すると、妹は頬を桜色に染め、口元にはっきりと笑みを広げる。友へと視線を戻し――
「……うん……!」
 目もくらむ程の眩い笑顔を浮かべ、頷いた。
 幸福とは人の定義した偽りだと、彼女の仲間の一人は言っていた。
 彼女が手に入れた気持ちは、やはり偽りなのやもしれない。けれど、それでもよいと、彼女は想う。自信を持って笑む。そして信じる。自分は間違いなく幸福なのだ、と。
「……みんな……大好き……」
 闇に沈んでいた光が――輝きだした。

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