「わああああぁあんっ! うわあああああぁああんっ!」
天元元年のある秋晴れの日。大江山の山中に、幼女の甲高い泣き声が響き渡っていた。鳥が飛び立ち、獣が駆ける。木々がざわめき、草木が揺れる。人の子の介入に、皆、警戒していた。
その声音は、山の中腹にある洞穴から聞こえてくる。声の主は御年六歳になる女児。名を橘時重(たちばなのときえ)という。幼いながらも艶やかな黒髪を腰のあたりまで伸ばしており、外見だけであれば淑やかな印象を他に与える。しかし、声高に泣き叫ぶ様子は年相応に稚拙だ。
彼女の泣き声を追って、山中を駆ける少年がいる。陽の光を受けて照っている金色の髪は染料によるものか、それとも天然か。いずれにしても人の目を良くも悪くも惹くであろう。彼は息を乱すことなく駆け続け、ようよう洞穴の前へと至る。中から漏れ出る大音声を耳に入れ、苦笑と共に肩を竦める。
少年はゆっくりとした足取りで先へ進み、洞穴を奥へと向かう。外界から進入する微かな光が、うずくまる着物姿の女児を浮かび上がらせていた。
一心不乱にむせび泣く幼女を瞳に入れて、少年が苦笑する。
「おいおい。どうした、時重」
「やしゅしゅけしゃまああぁあ!」
女児が涙をぽろぽろと零し、少年の名を呼んだ。しかし、明瞭としない発音であったため、いまだ彼が何処の某かであるかが判然としない。
何某が、ぽんっと優しく女児の頭を撫ぜ、笑う。
「誰だよ、やしゅしゅけって。涙拭いてちゃんと呼べ」
にかりと歯を剥き出しにする様子は、見る者に元気を分け与えた。
時重がほんの少しだけ泣き止んで、口を開く。
「ひっ、ふえ…… んんっ。や、やすすけさまぁ……」
「おう。何だ?」
改めて名を呼ばれた藤原保輔(ふじわらのやすすけ)が、満面の笑みを浮かべて尋ねた。
問われた女児は、濡れた頬を両の手で懸命に拭いつつ、懸命に語る。
「わたくし、やすすけさまとごけっこんしたいって、おとうさまにお願いしたのです。そしたら、ひっく。おとうさま、わたくしには他にふさわしいあいてがいるって…… うぅ……!」
えっ、えっ、と再び時重がえづきはじめた。
そんな彼女を、保輔は呆れた様子で見つめ、苦笑する。
「ったく。何を言うかと思えば…… お前の親父さんは疑いようもなく正しいさ。俺は藤原の姓を名乗っちゃあいるが、所詮は妾腹の子だ。長男でもねぇ。橘の家から嫁に来るような環境じゃねぇよ」
「そ、そんにゃむずかしいお話はしりませぬー。ひっ。わたくしは、ひっ。やすすけさまのおよめさまになりたいのですぅ。うぅ、うええぇえ…… ああああぁああんっっ!!」
両の眼に溜まった涙が零れ落ちる。そして、再び泣き声が山々に響き渡った。
落ち着きを取り戻し始めていた鳥獣も草木も、再び慌てふためいた。。
「たくっ。かなわんぜ」
苦笑と共に深いため息をつき、保輔は肩をすくめた。
ぱちっ。
普段とは異なる寝床で、家屋で、木之下幽華(きのしたゆうか)が目を覚ました。
陽はまだ地平線に沈んだままのようで、障子の外側には静けさを含んだ闇が広がっている。寒々しく澄んだ空気は散漫と緩慢に時を進める。
現在は朝の六時。
昨夜、何だかんだで顔なじみに付き合い、深夜の二時まで起きていたことを考えると、随分と早いお目覚めだ。それもこれも――
「……変な夢」
呟き、幽華は寝ころんだままで周りを見た。同室の女性たちは未だ眠っているようだ。
夢見の悪さゆえに一度は覚醒したが、掛布団の中に広がる温かな空気は、続けての睡眠へと幽華を誘う。
遠くから物音が聞こえてくるが、こちらは城島(きじま)家の使用人が朝食の用意をする際のものだろう。よく冷えた空気に乗って、包丁の音やお湯の沸く音が微かに届く。
どこか懐かしい気持ちになり、幽華はすっかり安心した。大きくあくびをする。
「ふわあぁあ。……二度寝しよ」
ごろん。すぅ。
幾秒と経たずに、寝息が朝の静けさの中に溶け込んだ。
橘の家では、家臣一同が屋敷の端から端まで駆け足を強要され、右往左往していた。
「こ、これ! 藤原の小僧っ子! 時重様を放さぬか!」
弓矢を背負った白髪の老人がふぅふぅと肩で息をしながら屋根の上に目をやる。そこでは、呆れ顔の少年――藤原保輔が喜色を携えた女児――橘時重を抱えていた。
時重がきゃっきゃっと喜んでいる辺り、保輔が叱責を受ける謂れは無いように感じる。
「いや、俺はどっちかっつーと放してぇんだけどさ。時重がよぉ……」
「だめですっ! まだ遊ぶのですっ!」
少年の腕に抱かれた状態で、時重が頬をぷぅっと膨らませて叫んだ。老人や保輔の希望通りとなることが大層不満なご様子だ。
保輔は苦笑し、老人が頭を抱える。集っている家臣たちも苦笑を浮かべている。
「やすすけさまっ! やすすけさまっ! もっとたかいところにのぼって下さいましっ!」
「へいへい。承知しましたよ、お姫さん。っつーわけで悪いな、じっちゃん」
とっ。
少年が女児を抱えたままで高く跳んだ。屋敷の周りを彩る青々しい木々を軽々と越えて、跳ぶ。そのような驚異の脚力は、天津神(あまつかみ)の血脈たる天原(あまはら)の民ゆえだろう。
「ははっ! 気持ちいいぜ!」
「きゃっきゃっ!」
風を頬に受けて年若い者たちが無邪気に笑った。
金の短髪が空気を切って波打ち、黒の長髪が風に従って流れる。
「やすすけさまっ!」
「あぁ? 何だよ?」
すたっ。ぎぃ。
高く天を突く樹の頂上に着地して、保輔が訊ねた。
時重は満面の笑みを浮かべる。
「こうして仲よしでいれば、おとうさまもめおとになることをみとめて下さいますよねっ!」
無邪気な願望だった。
しかし、その通りに望む未来が訪れることはないだろう。
保輔も年若いとはいえ、時重と違ってそのことを分かっていた。仲が良いか悪いか。そのようなことは二の次だ。家と立場と金が、彼らの未来を決めるのだ。
「……そういう未来も、あればいいな」
「えへへ…… はいっ!」
曖昧に笑んで、曖昧に応えた少年に対して、女児は希望に満ちた瞳を向けた。
ただ無邪気ではいられない者は、眩しそうに彼女を見つめた。
ぐびぐびっ。ぷはあぁあ。
朝方の大江山中腹。洞穴の奥で男性が一升瓶をラッパ飲みしていた。酒呑童子(しゅてんどうじ)という、かつて大江山を根城にしていた鬼である。当時は盗賊などをしていたものだが、平成の世になってまでそのようなことをするつもりはないらしい。大人しく少量の酒をこっそりと盗むだけにとどめていた。
「ほぉ。悪かねぇな。人間界は娯楽に関してはずば抜けて発展するな。へっ。いいことだぜ」
酒呑童子が手にしている瓶の中身を一気に飲み干す。
続けて、地面に並べている別の一升瓶にも手を伸ばした。彼の胃袋と肝臓はとどまるところを知らないらしい。
そこに男が三名、姿を現した。
各々の名を、茨木童子(いばらぎどうじ)、星熊童子(ほしぐまどうじ)、虎熊童子(とらぐまどうじ)という。
「酒呑童子様。ただ今戻りましてございます」
いの一番に言葉をかけたのは、茨木童子だ。
「おっ、酒呑様。ずいぶん飲まれましたねぇ。どうです? どれが旨かったですかい?」
続けて、虎熊童子が尋ねた。
「おう、虎熊。さすが、天津神どもが苦心の果てに手に入れた平成の世だぜ。娯楽も洗練されてらぁ。どれも旨ぇぞお」
じゅるっ。
酒呑童子の応えを受けて、星熊童子と虎熊童子がよだれをすすりあげる。
一方で、茨木童子はペースを崩すことなく、小脇に抱えた文献を数点、主に向けて差し出した。
「酒呑童子様。こちらをご覧ください」
「ん? おう。ついに時重のことが書かれたもんが見つかったか? 俺らが鬼の世に移ってから千年以上が経ってる。あいつ程の天原だとしても歴史の荒波に埋もれるか」
酒呑童子が苦笑しつつ、努めて明るく言った。
対する茨木童子は視線を落とし、暗い表情を浮かべる。
「いえ、実はその、橘家は……」
「んだよぉ? おめえにしては勿体ぶるじゃねぇか。ほれほれ、はっきり言え」
言葉尻を濁した茨木を、酒呑が囃した。
鬼は冷静さを取り戻して低頭し、現実を語る。
「現在、橘家は天原の民として名を連ねておりませぬ。同様に、時重様の御名はいかなる書物にも残されておらぬようです」
「は? 橘が天原の民じゃねえだぁ? けどよぉ、橘家は――時重は、天原の民の中でも特別に力が強かったんだぜ。それが……」
ぱらぱらぱら。
受け取った書物に目を通して、酒呑童子が眉根を寄せる。その書物は、天原の民とされている家々の名簿であった。茨木童子の言うとおり橘の家は名を連ねてない。
どのような時代にも、都合の悪い事実は一部の為政者によって伏せられる。現状こそが当時を雄弁に語っている。
「ちっ、まさかたぁ思うが…… 仕方ねぇ。乗りかかった船だ。橘家へ向かってみるか」
ぐびっ。
一升瓶をあおり、酒呑童子が言った。その瞳には動揺の影が見えた。
「うああああああぁあああぁあんっっ!!」
橘家の屋敷はその日、大層騒がしかった。一人娘の時重が盛大に泣き叫んでいたためだ。
その原因は彼女の父と、ある意味では、幼馴染の少年であった。
橘時重は強き力を有する天原の民であり、年少とはいえ類稀なる才覚を秘めていた。つまり、一帯を吹き抜ける風と天より降り来る雷は、彼女の身に宿る力がもたらしたのだ。
「と、時重! 落ち着かんか!」
「うあああああぁああぁああああぁああんっっ!!」
父である橘永継(たちばなのながつぐ)が諌めるが、女児の疳の虫が収まる気配はない。
家臣一同は屋敷のあちこちで暴風対策に奔走している。
そして、用事で赴いていた藤原家の庶子、藤原保輔はというと、呆れ顔で金の髪をぼりぼりと掻いている。時重の力が荒ぶることなど珍しいことではなく、月に数度の割合で起きている。屋敷に住まう者たちとしては一大事であろうが、よその家の者としては肩を竦めて見物を決め込んでもさして問題ない。
「よくやるぜ、ったく……」
「藤原の小僧! 何を他人事のように呆れておる! 貴様も一因だろうが!」
永継が叫んだ。怒りからというよりは、必死さから来る叫びであった。
「いや、親父さん。俺、関係ねぇだろ」
「どの口が言うのだ! 貴様が時重をたぶらかすからこうなるのであろう!」
怒声を受けて、保輔が肩を竦めた。身に覚えのない罪をかぶせられても困るというものだ。
彼は時重をたぶらかしてなどいない。ただ、昔馴染みであり、なぜか必要以上に懐かれているというだけだ。
「やしゅしゅけしゃまああああああぁああぁあっっ!!」」
幼い頃から共にいる女児が、名を叫びながら暴風を操っている。
保輔は深いため息をついた。
「何とかせい! 保輔っっ!!」
「いやぁ…… 何とかっつってもよぉ」
時重が泣き叫んでいる理由はひとつだ。いつも通り、保輔の妻になるという願いを父に突っぱねられたためだ。
なれば、この場を乗り切るために必要なことは明白だ。
その場しのぎの嘘で、優しい未来を幻視させてやればよい。
しかし――
「おい! 言っておくが、貴様の嫁になぞ絶対にせんぞっ! それとも、貴様まさか……!」
永継は断固として娘の嫁入りを許さない。家格の問題が多少ながらあるのに加え、彼は基本的に誰に対しても嫁入りを許す気がない。親馬鹿なのだ。
時期がくれば嫁入りさせないわけにはいかないが、その場合でも、保輔ではなく他の名家の男子を選出するだろう。
保輔としてはその方針に異論などない。自分が卑しい身の上であることは百も承知しているのだ。ついでに言えば、大幅に年下の幼馴染に興味もない。
「いやいや。俺も別に、あいつを嫁になぞ欲しくねぇよ」
彼の吐き捨てるような言葉を耳にして、永継は少々眉をひそめる。しかし、直ぐに満足そうに頷く。
「よし。ならば、直ぐに時重を抑え込むのだ! ただし、決して傷つけるなよ! 体にも極力触れるな! よいな!」
無茶な指示であった。
しかし、保輔は彼と幼い頃から親交があり、時重関係のこと以外では良好な関係を築いている。出来得る限り協力しようと、重い腰を上げた。
「へぇへぇ。ったく、めんどくせぇなぁ」
気怠そうに歩みを進めて、保輔が時重へと向かう。暴風をものともせずに先を行く。
天原の民としての力を行使して、風の影響を最小限にしているのだ。
――ふむ。さすがに力だけはあるな、小僧は
永継が感心する一方で、保輔が駆けだす。いよいよ、時重を鎮めようと動き出した。
「うおおぉおらああぁあ!!」
気合と共に、藤原家の庶子が拳をつきだす。
手加減など一切していないようだ。
当然ながら、つい先刻に注意点を怒鳴り散らしていた橘家当主が、頭を抱える。
「って! またんか保輔えぇえ! 傷つけるなとあれほどおおぉおお!」
叫び声がむなしく響いた。
ご当主様の怒声を背負って、保輔が渾身の一撃を放つ。
それを、時重が泣きべそをかきつつ受ける。
「だりゃああああぁあああぁああっっ!!」
「わああああああぁあああぁあんっっ!!」
力と力がぶつかり合い、大地が震える。
世の中が少しだけ騒々しく、そして、楽しげに相成った。
古都を老若男女が行く。山中の廃寺に寝泊まりしている、鬼流(きりゅう)ご一行である。城島家の使用人を先頭に、観光名所や店を見て回っているのだ。
とんとんっ。とんとんっ
その内の一名、木之下幽華(きのしたゆうか)は古都風景には目もくれず、スマートフォンをタップしていた。インターネットにアクセスして、ツイッターというサービスを利用している。
「あ、柚紀(ゆずき)のツイートだ! あっちはもう帰るのかぁ。……私も帰りたいなぁ」
「嬢。城島の家の方に失礼でありますぞ」
幽華の呟きに小声で反応したのは、鬼流の一人白夜知稔(びゃくやちねん)である。やれやれ、というように肩をすくめている。
「別に小声だからいいでしょ? それに、柚紀がいない時点で観光名所だろうと何だろうと意味ないし」
ずばっと言い切った。いっそ清々しい心持になる。
ふぅ。
知稔が息をつきながら苦笑した。
と、その時――
ばっ。
幽華は急ぎ、天をあおぐ。視線を遠くへと――彼らの寝泊まりしている廃寺がある方向へと向ける。
寺。
少年。
怒号。
山。
突然、脳裏にいくつもの記憶が断片的に生まれ出で、彼女は眩暈を覚えた。
「いかがされた、嬢」
知稔が訝しげに尋ねた。
幽華は何でもないように髪をかきあげ、彼を気だるげに見返す。
「……あーっと、スマホ用の充電器忘れてきちゃったのよ。柚紀のツイートチェックに支障が出るから、ちょっと取りに戻るわ」
「ぬ。コンビニで買えばよいのではありませぬかな?」
「まったく。なにを言ってるのよ。勿体ないお化けが出るわよ」
苦笑する知稔。
弱冠呆れ気味の彼には構わず、幽華は踵を返す。
「んじゃ、またあとで会いましょう」
ひらひら。
適当に手を振って、幽華は振り返ることもなく去った。
去り際ののんびりとした口調とは裏腹に、道を引き返す彼女の瞳には、険があった。