第5章 天女の没落
縁ある地の今昔

 がさッ!
 天より男性が陽の光と共に降り来て、杉の木の天辺に着地した。ほんの少しの葉擦れの音を立てたのみで、山中には静寂が戻った。
 がさささッ!
 同じように、一人、二人、三人と、それぞれに木の上に人影が生まれた。
 彼らの視線の先には古びた建物が在った。
 木々に囲まれた廃寺を瞳に写して、人影のひとつ――酒呑童子(しゅてんどうじ)は懐かしそうに相好を崩した。
「ちょいと改築されてるようだが、橘家の名残はあるな。しっかし、なんでまた寺になってんだ?」
 単純な疑問に対して、別の木の上から応える声がある。
「……近年の方針として、天原の民は神社に、そして、鬼流は寺にまとめるそうです」
 茨木童子(いばらきどうじ)の言葉を耳にし、酒呑童子は瞑目した。そして、ゆっくりと一歩を踏み出す。
 しゅたッ。
 ほとんど物音を立てずに大地に降り立ち、彼は更なる歩を進める。彼に付き従う者たちもまた、同じように歩みを進める。
 彼らは皆、忍ぶこともなく他人の敷地を行く。
 ざッざッざッざッ。
 複数の足音が寺内に響いた。
 がらがらッ。
「邪魔するぜぇ!」
 鬼たちはためらうことなく勝手口をあけ、ずんずんと侵入していく。
「ど、どなた様で――」
 ひゅっ。
 手刀が一閃し、戸惑った様子で尋ねた城島家の使用人の一人が倒れ伏した。
「悪ぃな。あんま騒がれると面倒なもんでよ。ちょいと眠っててくれ」
「貴様ら――」
 たっ。ひゅっ。
 奥からやってきた他の者たちには、茨木童子、星熊童子(ほしぐまどうじ)、虎熊童子(とらぐまどうじ)が駆けだして、同じく手刀を打ち出した。
 十数名の使用人たちは皆、あっけなく倒れ伏す。彼らの中には力のある鬼流もいたのではあるが、古戦場をくぐりぬけた鬼とでは力の差が歴然としていた。
「やり過ぎてねーよな、お前ら」
 首領の問いに、部下は皆スッと頭を下げる。
「はっ。ぬかりなく。我ら、酒呑童子様にお仕えして幾百年。貴方様のご方針は心得ております」
「そりゃ結構。さて、橘家にはアノ場所があったな。筆まめなあいつのこった。何かしら書き残してるかもな」
 どしどし。
 迷うことなく歩みを進め、酒呑童子は角部屋に入っていった。

「保輔さま。わたくし、秘密基地がほしいです」
 ぬばたまの御髪をさらりと揺らして、橘時重(たちばなのときえ)、十歳はそのようにわんぱくなことをのたまった。
 彼女の曇り無き瞳に見つめられた藤原保輔(ふじわらのやすすけ)は、ガリガリと頭を掻いてから深いため息を吐いた。
「……お前なぁ。親父さんが泣くぞ?」
「お父さまは関係ございません。わたくしと保輔さましか知らない秘密がほしいのです」
「だからって秘密基地かぁ?」
 これが十歳の男の子ならばさほど問題はあるまい。しかし、時重はれっきとした女の子だ。更に言うなれば、彼女は橘本家の長子で俗に言うお姫様なのだ。それが言うに事欠いて秘密基地である。
「もう地面は掘りました」
 時重が得意げに胸を張った。彼女の右手は押入れを示している。よく見ると、彼女の手は黒き土で汚れていた。
 保輔が恐る恐る引き戸を開けると、床を抜けて大地に穴が穿たれていた。
「あとは仕掛けだけでございます」
 ふん、と鼻息荒く麻紐を握る時重の姿に、保輔は二度目のため息を吐いた。
 既に床を破壊してしまっている以上、橘家当主たる永継(ながつぐ)は烈火の如く怒るだろう。しかも、彼は多くの場合、保輔が悪くなくとも保輔を怒る。時重のこともきちんと叱るため、ただの馬鹿親でないのが唯一の救いだが、それでも保輔にとってみれば迷惑なことこの上ない。
 なれば、無駄に怒られるかよりは、時重に協力して秘密基地を完璧なものとして、永継に察知されないように努める方が良いと、保輔は判断した。
「ったく。わあったよ。手伝ってやる」
 保輔の思考の動きなど類推することなく、時重は快諾を素直に受け止めて表情を輝かせた。
「ありがとうございます! 保輔さま、だぁいすき!」
 はあああぁあ……
 首筋に勢いよく腕を回す女児を受け止め、保輔は何度目になるか分からないため息を、深く深く吐いた。

「おい、虎熊。そっちの掛け軸の横の紐、引っ張ってくれ」
「これはまたお約束な…… そい!」
 勢いよく虎熊童子が指定の紐を引いた。しかし、その行為にともなって何かが生じる様子はない。
「? 酒呑様、何も起きませぬぞ」
「おー、こっち来い、おめぇら!」
 その時、酒呑童子のくぐもった声が響いた。彼はいつの間にやら押入れのふすまを開け、頭を突っ込んでいた。
「何をなさっているので?」
「ほれ。ここが入口だ」
 からくり扉を押さえながら、酒呑童子はにやりと笑った。
「紐を引っ張るとここの扉が開くんだ。小せぇ頃に俺と時重(ときえ)で作ったのさ。まだ動くとは、子供ながらにやるもんだぜ」
 その言葉に、茨木童子たちは瞠目する。
「……私どもは、時重様と直接お会いしたことはございませんが、そのような無邪気な御子だったのですか?」
「おう。あいつはどっちかっつーと争いを好まず、気ままに遊んでるのが好きだったぜ。そんなあいつが無駄に力強き天原の民になっちまったのは、なんつーか皮肉だよな」
 そう口にして苦笑した酒呑童子の瞳は、現在とは違うどこかに向いていた。
「ま。昔の話さ」
 その言葉には郷愁も悲哀も、希望も絶望も、あらゆる感情が秘められていた。
 酒呑童子と同じ時を過ごした者たちは、小さく苦笑し、瞑目した。

 時は平安。跳梁跋扈する悪鬼妖怪の類に頭を悩ませる人々に希望の光を示す、天原の民と呼ばれる者たちがいた。その代表格として、藤原家、橘家、源家などがいた。彼らは悪逆非道な妖どもを調伏し、世をまさしく平安なものとしていった。
 それが世に伝えられる史実である。
 しかし、彼らこそが善であり、妖たちこそが悪であるというのは幻想に過ぎない。
 天原の民と呼ばれる良家の滅茶苦茶な行動により、民草の食糧が尽きて餓死者が生まれることがあれば、鬼と呼ばれるものの善良な行動により、貧しき民が生きながらえることもあった。
 のちに酒呑童子と呼ばれる藤原保輔は、長じて官職についたことで、その事実を知った。
 そして――
「どおぉあらあぁあ!」
 があんっ!
 力任せに扉を破り、保輔は源家の屋敷に侵入した。
「な、何奴!?」
 誰何する声を受け、保輔は胸を張る。
「応える義理はねぇ! 貴様らが違法にため込んだ年貢、この俺様が頂く!」
 そのように叫び彼は、武士の太刀をことごとく避け、彼らの首筋に手刀を打ち込む。源家の敷地には気を失ったものたちのうめき声が響き渡っていた。
 がっ!
 倉庫の鍵に拳を打ち付け、保輔はにやりと笑った。
「世に名の轟く源家がこの程度たぁな。ま、悪ぃことする奴らなんざ実力の程も知れたもんってぇことか」
 独りごちり、彼は倉庫内に足を踏み入れた。そこには山に積まれた米俵があった。
「けっ。民草が餓死しそうってぇのにたんまりため込みやがって。反吐が出らぁ」
 不機嫌そうな顔つきで言葉を吐き捨て、彼はそれから下から一段目の米俵に手をかけた。
「――せいやっと!」
 ずんっ!
 米俵の山が持ち上がり、倉庫の屋根を突き破った。
「おっと。一気に持ち出すのは無理か。しゃーねーな」
 米俵から手を放し、保輔は頭をがりがりと掻く。そうしてから、米俵の山に蹴りを食らわした。
 どおぉんっ!
 米俵が横に倒れ、どどどどっと雪崩れる。
「さて。そいやっ! ていやっ!」
 倒れた米俵を両手で持ち、保輔はそれを思い切り投げ飛ばした。飛びゆく先は源家の敷地外のあぜ道である。
 ひゅっ! ひゅっ! ひゅっ!
 米俵が夜空を舞うこと幾分。倉庫内にあったそれはあらかた無くなった。
 だだだだだだっ。
 その時、遠くから足音が響いてきた。
 曲者が強者とあり、源家が精鋭を集めてやってきたのだろう。
 保輔は最後に残った米俵三個を肩に担ぎ、跳ぶ。一気に倉庫の屋根へと至った。そうして、やってくる一団に瞳を向ける。
「ほぉ。流石に源家。強そうなのがいるねぇ。特にあそこの武士、ありゃ別格だ」
 ひゅぅ、と口笛を吹き、保輔は片方の眉を上げて見せた。
「ま、今日のところはお預け、だな。盗るもんは盗ったし、米俵をあぜ道に放置しとくわけにもいかねぇ。ずらかるぜ!」
 ひゅっ!
 脚に力を込め、保輔は跳んだ。そして、数十間離れた先にある塀を越え、源家をあとにした。

「保輔様。そのようなことをされていては、そのうち天津神様に鬼堕ちを賜ってしまわれます。どうか……」
 夜中、誰にも見とがめられることなく橘家に忍び込んだ保輔は、昔馴染みの橘時重の部屋で寝ころんでいた。彼の傍にて足を折った女性――時重は悲しそうに眉を八の字にし、意見していた。
 しかし、当の保輔は気楽なものである。
「別に構やぁしねぇよ。俺ぁもともと卑しい身、妾腹の子さ。今さら鬼堕ちぐれぇどうということも――」
「鬼堕ちなさってしまっては、お父様はますますわたくしと保輔様の仲を認めて下さいません!」
 俯き、時重は声を荒げた。
 そんな彼女を、保輔は呆れた表情で見る。
「俺とお前の仲ってな…… そんないい仲ってわけでもねぇだろ。ただの幼馴染だぞ」
「わたくしは保輔様と夫婦(めおと)になりとうございます! 保輔様は、わたくしがお嫌いですか?」
 瞳に涙を溜めて保輔を見つめる時重。
 保輔は相変わらず呆れたような瞳を携えていたが、そこには少しばかり険が見えた。何かを抑えているように見えた。
「……おぉおぉ。お嫌いだね。惚れた腫れただの言うような女は鬱陶しくていけねぇ」
「や、保輔さ――」
 がらっ。
 ふすまをあけ放ち、保輔は振り返った。
「じゃあな、時重。次会う時ゃあ、敵同士かもしれねぇな」
 たっ!
 中庭に降り立って、それから保輔は大きく跳んだ。彼の姿は瞬く間に小さくなった。
「っ! 保輔、様ぁ!」

 藤原家代表と源家代表の会合。そこにはもう1人、十二単姿の女性がいた。
 女性はゆっくりと両家代表を見渡し、それから口を開いた。
「では頼光(よりみつ)様、先の押し入り事件は――正五位下・右京亮、藤原保輔によるものであるとのことで相違ないですか?」
「ああ。あの霊気は藤原の小僧っ子よ。今の時代であれ程の霊気は、我らを除けばあいつか橘の小娘だけだ」
 応えた源頼光を瞳に写し、藤原道長(ふじわらのみちなが)は瞳を絞った。
「アレを藤原の者と認識するのはやめて頂きたいものだな。卑しき血の穢れた男じゃ」
 ひゅぅ。
「言うねぇ。流石は気高き月讀命(つくよみのみこと)殿よ。オレは好きだがね、あの馬鹿みたいな喧嘩野郎」
「ならばくれてやろう、素戔嗚尊(すさのおのみこと)よ。野蛮な源の家には似合いじゃろう」
 ぎんっ。
 二つの眼光がぶつかる。一触即発の空気が流れる、が――
「お止めなさい。そのような下らない諍いをするために集ったのではないでしょう」
「……ふんっ。それで、天照大神(あまてらすおおみかみ)殿。何を論じるというのかね? 論じるまでもなく、結は出ていると思うが」
 天原の民でありながら、天津三柱神にまつろわぬ者。その者は――あまねく鬼堕ちとなる。
 女性は――天照大神は寸の間瞑目し、小さな唇を開いた。
「天原の民である全家に通達を願います。藤原保輔を鬼堕ちとし、補殺せよと。必要であれば天津宗家も出ましょう」

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