第5章 天女の没落
山霊鬼生譚

 がさごそ。
 埃が積もりに積もった地下にて、酒呑童子(しゅてんどうじ)以下、大江山の鬼達は古くなった紙類を探っていた。中には質の悪いものもあったようで、触ったとたんに崩れ落ちる。
「ぶへっ。げほげほ。たまらんな、こりゃ」
「さすがに幾百の時を経ると脆いようでございますな。これまで原型を留めていたのが奇跡とも言えましょう」
 咳き込む酒呑童子、星熊童子(ほしぐまどうじ)、虎熊童子(とらぐまどうじ)を横目に、茨木童子(いばらきどうじ)は平然とした顔で、丁寧に紙の束を扱っている。
「おめぇは何年経っても良家の振る舞いが抜けねぇなぁ。足羽(あしわ)の親父さんにきっちり仕込まれてたんだな」
「父上は今でも尊敬に値する御仁です。天原の民でありながら天津神に易々とはまつろわぬ姿勢。父上に育てられておらねば、私も保輔(やすすけ)様にお仕えしようとは考えなかったでしょう」
 茨木童子――かつて足羽忠信(あしわのただのぶ)という天原の民の一員であった男は、淡々と作業をこなしながら言った。彼が調達した天原の民である家の一覧には、足羽の名もなかった。それを彼は誇らしく思っている。
 酒呑童子はにやりと笑み、それから、茨木童子の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「藤原保輔はおめぇが殺した。ここにいるのは鬼、酒呑童子だ。だろ、茨木童子よ」
「……そうでございました。失礼いたしました、酒呑童子様」
 低頭した茨木童子。その頭を今度は星熊童子と虎熊童子が乱暴にいじる。
「茨木は毎度ながら糞丁寧だな。もう貴族様じゃねぇんだ。もう少し砕けていこうぜ」
「まったくだ。酒呑様なぞ、かつて貴族であったなどと類推することすら能わぬご様子じゃというに」
 ぐしゃぐしゃ。
 しつこく髪の毛を乱し続ける星熊と虎熊。茨木もいい加減、堪忍袋の緒が切れかける。眼光が鋭さをまし、穏やかな面差しに険がさす。
「……貴様ら。滅ぼすぞ」
「ひゃあ、怖い怖い。優等生、キレると何をするか分からんぞってか」
「こんびにとかいう店においてあった書物に書いておったな、そんなこと」
 彼らのやりとりを酒呑童子はやれやれという面持ちで眺める。
「おめぇら、喧嘩なら外でやろうぜ。こんな狭ぇとこじゃ思い切りできやしねぇだろ。よっと」
 酒呑童子は比較的丈夫そうな紙の束を選び、持ち上げた。
 その様子を瞳に写し、各名、同じように紙を手に取る。そして――
 たっ。
 脚に力を込めて跳びあがり、古びた寺の一室へと戻った。概算で5メートルは跳びあがっただろう。
「さて。男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり、とでも書かれてるのかね」
 ばさっ。
 紙の束に目を通し、酒呑童子はうんざりした顔で笑んだ。

 藤原保輔は山腹の洞穴に足を踏み入れた。そこは彼が幼い頃に見つけたもので、他に知っているのは1人だけだった。
 ゆえに、中から気配を感じた時点で、その気配の主が誰であるのか予想はついた。
「よぉ、時重(ときえ)。この酒呑童子に何の用だ?」
「……酒呑童子などに用はございません。わたくしは――」
 どんっ!
 酒呑童子の拳が地を穿った。
「さえずるなよ、天原の民さんよぉ。天津神にまつろわぬ鬼。それを討伐するのがお前ぇらの役割だ」
「保輔様を殺すのが天原の民の――橘の家の役割だというなら、わたくしは橘の姓など――」
「うるせぇっつってんだ!」
 がっ!
 2人の距離を瞬時につめ、酒呑童子は拳を打ち出す。その拳は、時重の足元の地面を粉砕した。
「きゃっ」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるっせぇんだよ。俺を止めたきゃ喧嘩で勝て」
 体勢を崩した時重に顔を近づけ、酒呑童子は一寸のところで睨みつける。鋭い眼光には、小さな小さな迷いがあった。
 それには気付かずに時重は覚悟を決め、体に宿る霊気を解き放つ。酒呑童子の腕を取り、洞穴の外へと投げた。
 ぶんっ!
「はっ! その力、いいぜ! おめぇは昔から、俺あいてだと本気を出さねぇからな! 絶好の機会っつーやつだ!」
 ざっ!
 一回転して着地し、酒呑童子は狂ったように笑んだ。
 その笑みを、時重は哀しそうに見つめる。しかし、直ぐに表情を引き締め、懐から紙片を取り出した。彼女が腕を一振りすると、紙片は太刀へと変質した。
「参ります、保輔様」
 だっ!
 ひゅぅ、ざざっ!
 直ぐさま酒呑童子の間合いに入り込み、時重は太刀を小さく振るった。
 酒呑童子は腰を落としてその一撃を避け、その勢いのまま体を回転させて足払いをかける。
 たっ!
 時重は小さく跳び、再び太刀を振るった。
「はあぁ!」
 きぃんっ!
 太刀の一撃を、酒呑童子は腕で受ける。しかし、腕に霊気を集わせていたようで、出血はしていない。
「高天原(たかまがはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は――」
「龍神の力か? その程度で効くかねぇ! はっはぁ!」
 ばんっ!
 酒呑童子が拳を打ち出す。
 その一撃を時重は太刀を横にして防ぐ。
 どあぁあっ!
 拳と太刀の衝突により、衝撃波が生じた。
 すたっ。
 時重は飛ばされ、体制を崩しながらも辛うじて着地する。
「よ、万物(よろづのもの)の病災(やまひ)をも立所(たちどころ)に祓(はら)ひ――」
「あまっちょろいぜ! そんなで酒呑童子様を倒せるか?」
 がっ! ががっ!
 攻勢に次ぐ攻勢。酒呑童子は休む間もなく、時重を襲う。
 太刀を構え、もしくは、霊気で強化した腕で受け、彼の攻撃を防ぐ時重。どう贔屓目に見ても劣勢である。彼女の力は本来であれば酒呑童子を超える。しかし――
「六根(むね)の内(うち)に念(ねんじ)じ申(まを)す大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)す!!」
 ずああぁあっ!
 大量の水が生じ、水神たる龍が顕現した。
 龍は真っ直ぐと酒呑童子向かい――
 さあぁ……
 消滅した。
「……何のつもりだ」
 目つき鋭く佇み、酒呑童子は尋ねた。
 時重は震える手で顔を覆い、呟く。
「でき、ません。わたくしには、できません」
「ふざけるなっ! お前ぇは天原の民だろぉ! 鬼を討てぇ!」
「天原の民で在りたくなどございませんっ! わたくしは――」
 ばちんっ。
 時重の頬を痛みが襲う。
「橘時重。お前ぇはここで俺と――鬼と逢わなかった。いいな」
 ぽたぽた。
 痛む頬を雫が伝う。さめざめと泣く少女を、酒呑童子は悲痛な面持ちで見つめ、去った。

 ざっ。
 大江山の頂にて、酒呑童子は夜天を見上げた。澄み渡った空に、煌々と星々が輝いていた。
「酒呑様。野暮用とやらは済んだんですかい?」
 粗末な身なりの男が問うた。名を金童子と言った。野党上がりのまつろわぬ者――鬼である。
「……まあな。俺はどうも不器用でいけねぇ。俺自身の力で最後に喧嘩したかったのは事実だが、泣かすつもりはなかった」
「女ですかい? 我らが首領は初心でいらっしゃる」
 くくっと笑ったのは熊童子。彼もまた鬼である。大江山を根城とする、酒呑童子四天王の1人だ。
 がっっ!!
「ぐぉっ。い、茨木…… てめぇ……」
 熊童子が呻く。酒呑童子の腹心、茨木童子に押し倒され、喉を締め付けられたためだ。
「酒呑童子様を嗤うとは何事か。殺すぞ」
「やめねぇか、茨木。実際、藤原の家でのうのうと生きてた俺は、皆と比べりゃあ、まだまだ餓鬼よ。初心ってぇのも当たってらぁな」
 酒呑童子が苦笑して言うと、茨木童子はしぶしぶながらも蛮行をやめた。
「げほっげほっ! ……ったく。おぼっちゃんの癖に短気な野郎だ」
「そのおぼっっちゃんに易々と組み敷かれるおめぇも情けねぇぜ、熊よ」
「っるせぇ! てめぇだって茨木には勝てねぇじゃねぇか、星熊よぉ」
 言い返されると、星熊童子は肩を竦めた。ごもっとも、という意味のようだ。
「というより、酒呑様と茨木に我らは皆勝てぬだろう。だからこそ、こうして従っておるのだ」
 落ち着いた様子で言ったのは、虎熊童子だ。彼ら、星熊童子、虎熊童子、金童子、そして熊童子が酒呑童子四天王であり、大江山に巣食っていた野党である。
 酒呑童子は彼らを見回し、最後に茨木童子を瞳に写し、にやりと笑んだ。
「さて、ではやるか。そろそろ源頼光(みなもとのよりみつ)、いや、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大江山に乗り込んでくるはずだ。俺らは今のままじゃアイツの足元にも及ばねぇ」
「大江山の霊気はいまだ手つかず。我らの体に取り込み、天津神に及ぶ力を手に入れると、そういうことでございますな」
 かつて天原の民と呼ばれていた2名は、言った。
 山の霊気。大地の霊気。この世界のあらゆるものには霊気が宿る。その霊気を体内に取り込むことに成功すれば、人は強き力を得る。
「天津神どもと同じことをするのは癪だが、このまま大人しくやられるよりはマシだぁな。――やるぞ」
『おう!』
 天原の民としての力を持つ酒呑童子が、大江山に働きかける。それに伴い、山は霊気を解き放ち、山頂に佇む6名に入り込む。
 かっ!
『ぐおおぉおおぉおおぉおっっ!!』
 大江山を光が包み、霊気の奔流が人の体を貫いた。猛き流れが一帯を満たす。
 その力を感じ取り、山麓にて侵攻の準備を進めていた源頼光は山頂を仰ぐ。そして、笑んだ。

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