第5章 天女の没落
幾百の時を越え

 遠い遠い昔の戦い。夜天を彩る霊気のぶつかり合いが、山々に轟音を響かせていた。
 がんっ!
 名刀安綱の一閃を、酒呑童子(しゅてんどうじ)の腕が受け止める。
「やるな! さすが、大江山の霊気を受け切っただけはある!」
「て、てめぇもな! さすが、天津神でも別格の三柱の一角だぜ!」
 ばあんっ!
 高圧の霊気のぶつかりあいが、衝撃波となって大江山を吹き荒れる。木々はざわめき、眠っていた鳥が飛び立った。
 酒呑童子の体勢が崩れる。
「……しかし、これで終わりだ!」
 ずんっ!
 一歩を踏み出し、源頼光(みなもとのよりみつ)が言った。振りかぶった安綱が、月明かりを受けて怪しく光った。
 ――くぅ…… 避けきれねぇ。忠信(ただのぶ)、星熊(ほしぐま)、虎熊(とらぐま)は重傷、金と熊はもう…… ここ、までか……
 きっ!
 最期を覚悟し、酒呑童子は鋭い眼光を頼光へ投げた。気持ちだけは最期の時まで逃げないつもりらしい。
「いい、目だっ!」
 ひゅっ!
 鋭い一閃が闇を切り裂き――
 どおおおおおぉおおおおぉおおおんっ!
 その時、強い衝撃が襲った。頼光がいた場所を猛き奔流が駆け抜けたのだ。
 しかし、頼光は寸でのところで跳び退ったようだ。傷つくことなく月明かりの下で、神刀を構えている。
「誰だ!」
「誰とはご挨拶よな。わらわの霊気、忘れたか?」
 頼光の誰何の声を受け、落ち着き払った声が応えた。心地よい高音。女性の声音だった。
 酒呑童子が声の方向に瞳を向けると、そこには、鋭い眼光を携えた女性が佇んでいた。腕を組み、不機嫌そうにしている。
「……ほぅ。紅葉御前(もみじごぜん)か。久しいではないか。前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)の生み出した鬼の世から出でて、人の世に如何なる用だ?」
「それをわざわざ訊くか? 用など平素と同じよ。そこな小僧どもを渡せ。我らは、相容れぬ者を鬼とし排斥する貴様らの姿勢が気に食わぬのよ」
 不機嫌さを隠すでもなく、かつて平安の都に恐怖をもたらしたとされる鬼、紅葉が言った。
 彼女の怒りは相当なもののようで、強き霊気がびりびりと酒呑童子の肌を襲う。
 頼光もそれを感じ取り、頬に一筋の汗を光らせた。彼の力であっても、鬼紅葉には易々と打ち勝てない。
 しばしの均衡状態が続く。
 折れたのは、源頼光――素戔嗚尊(すさのおのみこと)であった。
「……………承知だ。若き鬼との戦いで疲弊した。貴様とやりあうには分が悪い」
「くくく。引き際を覚えおったか、素戔嗚尊よ。わらわに敗れた遠き日は、よき教訓となったようだな」
 蔑んだ目つきで、紅葉は嗤う。
 頼光は悔しそうに唇を噛み、しかし、天原の民たち――頼光四天王に命じ、下山を開始した。
 彼らを見送り、酒呑童子は震える足腰に力を込め、無理やり立ち上がる。
「お、おい。あんたは――」
「黙れ小僧。説明が面倒だ。とりあえず――行くぞ」
 ぐんっ!
 くぐもった音が響き、夜に昏き闇が生じた。闇は空間を侵食し、大江山の鬼達を包み込む。そして、収縮していった。
 やがて、夜にはただ静けさだけが残された。

 世にはこう伝えられる。
 源頼光と、頼光四天王と呼ばれる天原の民たちは、大江山の鬼を調伏した。そして、彼らの死骸は闇に消え、塵と失せたのだと。

「塵と消ゆる光の果てに我は堕つ、か。『堕つ』ってぇのはやっぱ、鬼堕ち、いや、鬼流堕ちか? あいつ、何しやがったんだ?」
 縁側に腰掛け、橘時重(たちばなのときえ)の手記を漁っていた酒呑童子は、1つの記述に目を通し、ため息交じりに言った。
「穢れの最たる鬼堕ちから一段下がった鬼流堕ちとなれば、天津神への反逆とはいかないまでも、彼らの癇に障ることを為さったのでしょう」
 茨木童子(いばらきどうじ)の言葉。
 酒呑童子は腕を組み、考え込んだ。天津神の気に障る行為とは何か、あまり思いつかない。
「正直、頼光はそれほど嫌な奴ではなかったぜ? よっぽどのことでもねぇ限り、そうそうは――」
「当時、政は藤原道長であった月讀命(つくよみのみこと)が主立って行っておったそうです。月讀命はいつの世においても、天津神としての身分を重んじる男。彼にとっては天原の民でさえも卑しい身分であると、呉葉(くれは)様は申されておりました」
「……けっ。話に聞くだけで反吐が出らぁ」
 手にしていた紙の束を脇に置くと、酒呑童子はごろんと寝ころんだ。そして、青天を流れる白雲を仰ぐ。
 穏やかな時間が流れた。
 しかし、それも長くは続かない。足音が近づき、鬼達の前には1人の女性がいた。
「酒呑童子……」
「てめぇはあの時の――」
 硬い表情で立っていたのは、木之下幽華(きのしたゆうか)だった。
「鬼流、木之下幽華よ。酒呑童子に再戦を求めたい」
 ざっ。
 険しい目つきで一歩を踏み出し、幽華は言った。彼女の体からは高密度の霊気が迸り、辺りの空気をざわつかせる。
 大江山の鬼たちは気色ばむ。しかし――
「と言いたいところなのだけれどね。今回は別の用よ。藤原保輔(ふじわらのやすすけ)」
「! お前ぇ、その名を何故……」
 目を瞠る酒呑童子には構わず、幽華は腕を組んで不機嫌そうに独白する。
「大江山での悪鬼討伐譚において、酒呑童子は悪名高く民草に語られる。そして、見事調伏せし源頼光、ひいては、天津神や天原の民は正義であると、そう位置づけられ、酒呑童子――貴方は、彼らの威光を強くする材料にされた。橘時重(たちばなのときえ)は、それが我慢ならなかった」
「っ!!」
 自分の名のみならず、時重の名をも幽華の口から聞き、酒呑童子は動揺した。
「時重は人々に説いた。酒呑童子が、藤原保輔が為した行いを。貧しき者、弱き者を救おうと、奔走した男のことを。貴方の想いと、正しさを」
 しかし、正しきを為したとて栄華を誇れることはない。
「……ゆえに、時重様は鬼流となられた」
 こくん。
 茨木童子の独白に、木之下幽華は頷いた。
「まったく…… 鬼流というのが、いえ、鬼や天原の民でさえも、そのようにして生まれていたとはね。全ては天津神の匙加減じゃない」
 彼女は小さく呟き、ふぅ、と息をついた。
「手前ぇは――時重なのか?」
 尋ねた酒呑童子に、幽華は呆れた視線を送る。
「いいえ。私は木之下幽華よ。橘時重は当の昔に死んだ。ただ、霊気の残滓と、微かな記憶が残るのみ」
「時重の――子孫か」
「さあ、わからないわ。ただ単に霊気だけ継いだのかもしれない。まあ、どうでもいいことよ。大切なのは、この地の霊脈と藤原保輔の霊気が揃うことで、私の中の霊気が刺激されたこと。そして、伝言を頼まれてしまったこと」
 はあぁあ。
 俯き、深く深く息をつくと、幽華は嫌そうに顔を上げた。
 しかし直ぐに――微笑んだ。
「保輔様」
 にこり。
 その笑顔は、幾百の時を越え、記憶を呼び覚ました。
 想いが、鬼の胸にあふれる。
「時……重……」
「例え鬼流となろうとも、貴方様を愛し生きたことは、わたくしの誇りでございました」
 さぁ。
 風が吹く。黒く輝く髪が、さらさらと流れた。
「願わくは、天原の民でも鬼流でもなく、ただわたくしとして、とこしえに貴方様と共に……」
 ……ぎっ。
 酒呑童子が強く、歯を噛みしめた。
「……ちっ。鬱陶しい女だぜ」
 毒づき、しかし、顔を辛そうに歪めていた。
 一方で、幽華はふぅとひと息つき、だるそうに肩を回した。
「記憶の注意書きに『笑顔でお願い』ってあったんで、笑顔はサービスよ。じゃあこれで」
 幽華はつまらなそうに踵を返した。
 すたすた。
 決して立ち止まることなく、彼女は去っていく。
 酒呑童子はそれを見送り、そして――
 にやり。
 笑った。
「おいっ!」
 幽華は首だけひねり、視線を鬼へ送る。
 鬼は彼女に、拳を真っ直ぐ向けていた。
「そのうち再戦しようや。特に意味なんてねぇ。ただの、喧嘩をしようぜ」
 ぱちくり。
 幽華は2、3度またたき――
 にっ。
「ええ、悪くないわね。そのうちに」
 口の端を上げ、笑んだ。
 そして、
「そうそう。そこは一応、鬼流の総本山よ。盗みでも働いたとなれば総出で潰すからね、盗賊さん」
 ひと言、冗談めかしてそのように口にし、彼女は背を向けて歩きだす。
 ひらひらと気だるげに右手を振るい、去った。
 残された鬼は廃寺を見渡し、いったい何を盗むのやら、と苦笑した。

PREV TOP NEXT