第5章 天女の没落
山深き地の邂逅

 延長6年。1080年ばかりも昔の話である。
 紀伊半島の山中に眞砂という名の集落があった。眞砂を治めるのは、天津神勢力の一角、藤原(ふじわら)家の傍流であり、罔象女神(みつはのめのかみ)の霊気を受け継ぎし一族である。そして、一族当主は藤原清次(きよつぐ)、彼の娘は清(きよ)という名であった。
 当該一族は父である清次を当主においてはいたが、実際のところ罔象女神の霊気を継いでいるのは娘の清であった。清は幼い折に母を亡くし、同時に罔象女神の霊気を受け継いだのである。
 そのような一族が治める眞砂の地よりも山奥にて、ひとりの山伏が歩みを進めていた。かの者は年若い容貌ながら、鋭い眼光や無駄のない所作から、油断のならない雰囲気を醸し出していた。
 彼が1歩、2歩と確実に山肌を進み、その足音だけが辺りを満たす中、唐突に葉擦れの音が降り来る。
 ざっ。
 頭上より襲い来た微かな音に反応を示し、山伏は後退した。
 すると、彼がこれまで立っていた場所に、黒頭巾を被った者が刀を振り下ろしつつ降り立った。刀はすんでのところで空を斬る。
 山伏は緊張に身体を硬くしながらも懐の小刀に手をかけ、小さく息を吸う。何かを口にしようという、まさにその時――
 どんっ!
 巨大な炎が彼の背を焦がした。熱気が衣服を焦がし、さらには皮膚をただれさせる。
 山伏は呻き、ちらりと背後を確認する。
 先程刀を地に突き立てた者とは別に、黒頭巾を被った者がいた。
 小さく舌打ちし、山伏が地を蹴った。山肌の急斜面を転がるように落ちていく。
 ばしゃあんっ!
 そしてそのまま、近くを流れていた富田川に身を投げた。
 派手な水音を立て、その姿を消す山伏。
 彼を襲った黒頭巾たちは、山伏が消えた水流の先を睨み付け、駆けだした。

 眞砂の地に近い富田川のほとりでは、女人が水浴びをしていた。年の頃は12、3。艶やかな黒髪が目を引く、綺麗な面の少女であった。
 少女は気持ちよさそうに深瀬を漂い、そして、ふと目を向けた川縁の岩に何やら大きなかたまりが引っかかっているを見つける。何だろうと首を傾げつつ、そちらを見つめる。そうしてようよう顔をこわばらせた。
 布をまとうそれは、人であった。
 少女は急いで岩場へ戻り、置いていた衣服のうち帯だけを手にとって川縁へ引き返した。動かぬ人をその帯にて岩にしっかりと固定し、その後、再度川を出る。
 そして、着物のみを身にまとい、前を手で押さえながら駆けだした。
「誰か! 誰か来てくださいまし! 人が倒れております!」

「ん……?」
 苦しそうに瞳を瞑っていた男性がようよう目を覚ました。瞳だけを忙しく動かし、辺りを確認する。
 彼が眠っていた場所は民家のようであった。建材はきめが細かく、壁には天孫降臨を描いた掛け軸がかかっている。身分の高い御仁の家屋のように見受けられる。
 男性は体を起こして軽く腕を回した。少しばかり痛みを感じるが、腕も脚も体に繋がっており五体満足で生き延びることができたらしい。まるで、急流に身を投げてあちらこちらぶつけたのが夢であったかのようである。
 そのような喜ばしい事実を確認してから、男性は目つきを険しくする。壁にある掛け軸を睨み、喜ばしくない推論に思考を働かせる。その推論が正しければ、彼は直ぐさまこの場を離れなければならない。
「っつ」
 痛みに小さく呻きながら、男性が立ち上がる。大きく目立つ損傷はなくとも、やはり健康体とはいかないらしい。
 それでも、彼は歯を食いしばってゆっくりと歩みを進める。ふすまへと寄り――
 がらっ。
 彼が手をかける前に、部屋の外側からふすまが開け放たれた。
「あら? お気づきになりましたか? お体の具合はいかがでしょう?」
 部屋の外から顔を見せたのは少女であった。手には清潔な布が多数抱えられており、男性の傷にあてがうためのそれを替えにきたのであろうことが窺える。
 少女は後ろ手にふすまを閉め、男性に腰を落として体を休めるように促す。
 男性は素直に従いながらも、身を硬くした。少女から喜ばしくない気配を感じたためであった。おそらく少女は――
「申し遅れました。わたくし、天津勢罔象女神代行、藤原清次が一子、名を清と申します。貴方様が富田川にて気を失われているのを偶然見つけ、集落の方々と協力して拙宅へと運ばせていただきました。お見知りおきを」
 やはり、と男性は顔をしかめる。少女――清が天津神勢力の一角となれば、彼の正体を口にするわけにはいかぬし、ここに長居することも能わない。
 男性は真面目な顔を作り、丁寧に頭を下げる。
「私は安珍(あんちん)と申す、旅の山伏です。危ないところを助けていただき、ありがとうございました。清姫殿」
「安珍様、でございますか。お気になさらず。わたくしどもは当然のことをしたまでのことですわ。ところで、この辺りを旅していらしたということは、熊野参詣でしょうか?」
 そのように尋ねた清を瞳に映し、安珍は肝を冷やした。彼女の様子は至って普通であるが、だからこそ、試されているように感じた。彼は可能な限り平静を装い、口を開く。
「いいえ。山を越えた先に知人が住んでおりまして、そちらを訪ねる途中でした。山肌にて足を滑らしてしまい、そのまま富田川へと……」
「まあ。左様でございましたか。それは災難でございました。ご無事でなによりですわ」
 心配そうに眉を寄せてから一転、清は柔らかい笑みを浮かべて言った。そうして、ずいっと安珍に歩み寄る。
「時に安珍様。どちらからいらしたのでしょうか?」
 安珍は、なぜそのようなことを、と警戒しつつ、用意していた応えを口にする。
「奧州白河にございます」
「まあ、奧州! では長く旅をなされているのですね!」
 奧州というと、北上して京に至り、さらに北東へと百里以上も向かわねばならない。そういう知識を有していた清は、驚愕してみせてから破顔した。
「安珍様! わたくしに外の世についてお話いただけませんか?」
「は? 外の世と申しますと……?」
「ここ眞砂の外、ということでございます。わたくしはこの地より出でたことがございませんもので……」
 寂しげに笑い、清が言った。
 安珍はその言葉に納得しかけるが、ふと疑問が頭をかすめる。
「ですが、京には赴かれたことがございましょう? 議事の際には天津神様方は京に集う……とお聞きいたしますが? 貴女様は罔象女神では――」
 そこまで口にし、安珍は言葉を失う。
 よくよく思い出してみると、清は自らが罔象女神であるとは口にしていない。彼女から感じる力から、安珍はそのことを察知したが、現段階でそのことを認識しているというのは『普通の山伏』ではあり得ない。
 ――失態だ。ばれたか……?
 しかし、清は相変わらず脳天気な笑顔を浮かべ、小さく首を振るったのみであった。
「罔象女神としての霊気は確かにわたくしが継いでおりますが、会合などに出かけるのは父です。わたくしのような若輩では、まだ務まりませんわ」
「なるほど。左様でしたか」
 得心したというように頷き、安珍は小さく笑んだ。そして、様子をみるように清を熱心に見つめる。しかし、彼女の様子が演技かどうかはかりかねた。
 それゆえ、彼は早々にこの場を離れようと考える。こうして話し込んでいるうちに、彼の背を焼いた追っ手が清らの手引きで部屋に踏み込んでこないとも限らない。
「ただ申し訳ない。お助けいただいたというのに大変失礼ではございますが、私は先を急がねばならぬのです。いずれ礼には伺いますゆえ、お話はその時にでも……」
「え! そ、そんなぁ。せめて半刻でもよろしいですから――」
 がらっ。
「清」
 清がすがるような表情を見せたとき、ふすまを開けて男性が現れた。年の頃ならば30代前半。豊かな口ひげを蓄えた大男だった。
 男性は清の頭をこづき、目つきを鋭くする。
「馬鹿なことばかり申すでない。そこな御仁はお前の話相手をするために眞砂までいらしたわけではないのだ」
「……はい。父様」
 素直に頷き、気落ちした表情を見せる清。
 しかし直ぐに笑顔を浮かべ、安珍を見やる。そうしてから、男性を手で示した。
「安珍様、こちらは父の清次ですわ。父様、こちら奧州白河よりいらした安珍様です」
 紹介されると、清次は深く深く頭を垂れた。
「藤原清次と申します。無事に目を覚まされたようで、何よりでございました」
「安珍です。お陰様で命を拾うことができました。ただ、助けていただいたというのに失礼かとは存じますが、先程も清姫殿に申し上げましたとおり――」
「聞こえておりました。が、なりません。貴方様のお怪我は決して軽くない。しばし休まれておいきなさい。熊野本宮大社は未だ未だ遠いですぞ」
「な、何を仰いますか。私は山向こうの知り合いに――」
「では、お知り合いの家に文を送らねば。どの里の何という名の御方でございますかな?」
 その問いを耳にして思わず懐に手を伸ばす安珍。しかし、そこにあるはずの懐刀は姿を消していた。
 彼の様子を瞳に映し、清次は自身の懐に手を伸ばす。すると、見覚えのある刃物をゆるりと取り出して見せた。
 安珍の顔色が変わった。
 しかし清次は、そんな彼を安心させるように、笑んでみせる。
「ご安心なされよ。熊野権現を信仰する社から近いこの眞砂の地を治めておるのです。我ら天津に与すとて、熊野勢を排斥する気などございません。天津神としての総意がどうであろうと」
 罔象女神を代行し、京で天津神らと顔をつきあわせている男の発した予想外の言葉に、安珍は呆気にとられた。
 安珍は、俗に熊野勢と呼ばれる、熊野権現を信仰する組織に属すものである。
 熊野信仰では、高天原より降臨した天津神たちは実は、仏が権現したものである、と位置づけられる。これは仏ありきの思想であり、天津神側としては当然おもしろいはずもない。
 ゆえに近年、天津勢は熊野勢を武力行為をもって排斥する傾向にある。熊野勢の山伏や、果ては熊野勢における神相当の者たちもまた、天津神たちの手にかかってこの世を去っている。
 であるにもかかわらず――
「熊野勢は天津勢の敵ではありますが、我らは天津勢である前に眞砂の民だと自負しております」
 そう宣言し、清次は先を続ける。
「土地柄、眞砂にも熊野権現を信仰する者はおります。京の方々と眞砂の民、どちらを取るか。申し上げる必要もございますまい。貴方様のことも、他の天津勢の方々には知らせておりません。……信じてはいただけませんかな?」
 尋ねられると、安珍は瞑目した。
 長い時が過ぎる。
 ふぅ。
 息をつき、彼はゆっくりとまぶたを開けた。
「私が気を失っている間に貴方がたは、私の命を取ることも、他の天津勢に知らせることも出来た。しかし、私にはまだ命があるらしい。なれば、今この時を――現実を受け入れましょう」
 そう口にして微笑み、安珍は手をついて頭を下げた。
「しばし世話になります」
 その言葉に清次は満足そうに笑み、頷く。
 そして、清はずずいと前に乗り出す。
「では! 改めまして、是非とも外の世のお話を――」
 ごつんっ!
 先程よりも勢いよく、清の頭にげんこつが落とされた。
 息をのみ痛がる清と、嘆息する清次。
 彼らのそのような様子を瞳に映し、安珍はこれまでの緊張をすっかり忘れて、笑った。

 ギュイイィイイィンッッ!!
 ディジタルテレビからエレキギターの騒々しい音色が響いた。今年頭にデビューして急速に人気を上げたロックバンドの演奏である。
 ぱああぁああぁあっ!
 清姫(きよひめ)が表情を輝かせてテレビに視線を向ける。
「凄い音ですわね! 如何様な音楽ですの? 面白いですわ! 楽しいですわ!」
「ロックっていうんだよ。ロックにも色々種類があるみたいだけど、それはまあいいや。柑奈、別に詳しくないし。このロックバンドはねぇ、ピアノとギターとベースとドラムで構成されてて、ピアノが主旋律を奏でるの。だから、ピアノロックって呼ばれるんだ」
 天笠(あまがさ)家二女、柑奈(かんな)の簡易的な説明通り、テレビの中では舞台の真ん中に配置されたピアノが軽快な旋律を奏でている。ギターも派手な音をたててはいるが、あくまで副旋律らしい。冒頭のギターはインパクトを与えるための演出であったようだ。
「ぴあの? ろっく? 詳らかには理解しかねますが、素敵ですわ! 体が自然に反応してしまいますわ!」
 興奮した様子で叫び、柑奈とともに体を揺らしている清姫。
 そのような彼女を横目に、
「清姫は順応性が高いなー。あ、鬼沙羅(きさら)。そこのポテチ取って。のり塩」
「はーい、阿鬼都(あきと)お兄ちゃん。黒絵(こくえ)ちゃんも食べる?」
「……うん……」
 話をねだったお子様たちは、おやつをつまみつつ歓談している。
 一方で、
「あの…… 話の続きが気になるんだけど……」
 横で聞いていた天笠家長女、柚紀(ゆずき)のみが、やきもきとして呟いた。

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