天より降り来る陽光が富田川の水面を照らし、生命の息吹を運ぶ風が山々に葉擦れの音を響かせる。
ある夏の日の眞砂(まなご)の地にて、山伏と少女が藤原(ふじわら)邸の縁側に腰掛けていた。山伏の名は安珍(あんちん)、少女の名は藤原清(きよ)と言った。安珍がこの地に流れ着いてから10日ほどが経っていた。
「外の世など良いことなど何もありませぬ。妖怪や盗賊による被害、そして役人の横暴に民草は困り果てております」
「まぁ。眞砂では考えられませんわ。妖怪さんも盗賊さんもわたくしども――天津と天原様で退治いたしますし、父様は眞砂の民を第一に考えておりますもの」
安珍の世の中に対する穿った見解を耳にし、清は驚嘆した。彼女の言葉通り、眞砂の地では決して考えられない世情であった。
「この地の平和は清姫殿のお父上、清次(きよつぐ)殿のご尽力によるところが大きいでしょう」
そう口にしてから、安珍は隣に座る清を――未だ年若い罔象女神(みつはのめのかみ)を見つめる。
「いかがいたしましたか?」
彼を見返し、清は小首を傾げた。
「いえ。清姫殿の統治なされる未来の眞砂はいかなものになりましょうかと、そう思いましてな」
応えた安珍に、清は苦笑する。
「そんなこと、先のこと過ぎて想像もできません。わたくしはそんな先のことよりも、もっと外の世について知りたいですわ。ねぇ、安珍様。海とはどのようなものですの? その海を超えた地の果てに、日の本以外にも唐土(もろこし)という世が存在するというのは真ですの? 唐土より来た品々をご覧になったことはございます?」
好奇心に満ちた瞳が安珍を見つめる。
安珍は苦笑し、それから、矢継ぎ早に為された問いに、順番に答えていった。
ふんふふんふーん♪
鼻歌交じりに歩みを進め、清は悪びれることもなく自室の敷居をまたいだ。
そこには、清の教育係を任されている鈴(すず)という名の女性が、背を向けて正座して居た。鈴は瞳に険を宿して振り返る。
「清様! 本日の勉学のお時間はとうに過ぎておいでですよ!」
「あら、鈴。いらしたんですのね」
清の意外そうな顔を瞳に映し、鈴は一層顔色を変えた。
「当然です! 本日は、庭の白桃の木の影がお屋敷まで届いた頃合に、唐土の風俗について学ばれる予定だったはず! 影が屋敷を突いてからどれほどの時が流れたと――」
「まあ! 今日は唐土についてでしたの! 失念しておりましたわ…… そうと判じておりましたら、時間通りに参りましたのに……!」
思わず叫んでから、清はハッと息をのんで鈴へと視線を向ける。案の定、彼女の教育係はこれ以上ない程に顔色を赤く染めていた。
「あ、あら、鈴。聞き間違いではございませんこと?」
「……私は未だ何も申し上げてございませんが?」
「え、えーと…… そ、そうですわ。何故だか父様がわたくしを探している気がいたします。それでは鈴。ご機嫌よ――」
ガシッ!
またいだばかりの敷居を再びまたいで去ろうとする清の着物の袖を、しっかりと掴む音が響いた。
びくっと肩を跳ね上げ、清は振り返る。
「す、鈴?」
すうぅぅううぅう!
清の視線の先で、鈴は大きく大きく息を吸った。
そして――
「本日の唐土についての勉学は取りやめますっ! みっちり、清様の苦手とされております、天津様方の勢力分布図についてお教えさせて頂きますからねっっ!!」
「えええぇええぇえぇえーっ! そんなあああぁあああぁあぁあーっっ!!」
かしましい叫び声が、藤原邸を駆け抜けた。
聞こえてきた身内の声に、藤原清次は眉をしかめた。そして、小さく嘆息する。
彼の前で安珍もまた苦笑していた。
「騒々しくて申し訳ない。清には後で注意しておきますゆえ」
「いえ。お気になさらず。私との世間話を因として、勉学のお時間に遅れなさったようです。叱責を受けるとすれば、私も受けねばなりますまい」
「その世間話もまた清のわがままによるものかと。重ね重ね申し訳ない」
再度頭を下げる清次を瞳に映し、安珍も再度苦笑する。
「キリがございませぬゆえ、それはよいといたしましょう。時に清次殿。如何なる用向きにございましょうか?」
先刻、安珍は清と別れ、あてがわれている部屋で大人しく座していた。そこへ清次がやってきて、自室へと招き入れたのである。何か話があるとのことであった。
清次は咳払いをして、姿勢を正す。
「天津三貴神が1柱、月讀命(つくよみのみこと)より書状が参りました。やはり安珍殿を探しておいでです。存ぜぬと返してはおきましたが、天津の力を甘く見るのは危険。探り当てられるのは時間の問題かと」
「……三貴神までもが絡んでおりましたか。そうなりますと、これ以上は清次殿の立場が危うい」
「そのようなことは問題ではございません。月讀命は三貴神の中でも特に、天津の系列を重んじ、神性の絶対性に固執する方。本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想を持つ熊野勢の存在を決して許さない。まず間違いなく滅されるでしょう。とりわけ、貴方のように天津から脱っして熊野に組そうという者は」
安珍――かつての天津神が瞳を見開く。
「私は京にはおりませぬのが常ゆえ、清次殿にはお目にかかったことがないはず…… 書簡に、書いておりましたか?」
「ええ。しかし、そうでなくとも、貴方の気配から察しておりました。まさか、天孫降臨(てんそんこうりん)の逸話で名高い瓊々杵尊(ににぎのみこと)殿とは思いませんでしたがな」
瓊々杵尊は三貴神の1柱、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫に当たる神だと伝えられる。そんな者が天津神を裏切ろうとは、流石に清次も想定してはいなかった。
「なぜ、とお伺いしてもよろしいのですかな?」
問いかけに、安珍は沈黙した。
しばし、遠くから聞こえる清と鈴の声、そして、庭の木々にて羽を休める小鳥のさえずりが、清次の部屋に満ちた。そうして幾ばくかの時が流れる。
ようよう、山伏は口を開いた。
「先ほど清次殿が仰っておりました、天津における神性の絶対性に疑問を感じたためです。天津勢は――月讀命(つくよみのみこと)殿は基より、天照大神でさえ表面上は、他の絶対者を許容しない。その最たる例が鬼の世の鬼、そして妖怪でしょう」
かつて前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)という鬼がいた。彼らは人の世に絶望して新たな世――鬼の世を創った。彼の世の者たちは汚れの烙印を押され、人々より恨まれ、時の流れから排斥されたのである。
「私は――天津を脱し、そんな鬼の世の方々とも共存の道を探る、新たな光となりたく思っておるのです」
言葉の主が瞳に宿るは、決意の光。
清次は瞳を閉じた。
「それで……熊野ですか。熊野は仏の思想を深く取り入れておられる。確かに鬼の世とも良い関係を築ける可能性はあるでしょう。しかし、それでも難しいでしょうな」
「承知いたしております」
真っ直ぐな瞳。
清次は瞳をゆっくりと開き、安珍を真剣な表情で真っ正面から見返した。そして、重々しく言葉を紡ぐ。
「……喋りすぎ、ではございませぬかな? 鬼の世の者どもまで話が及ぶとなると、仮にも天津に籍を置く者といたしましては許容するわけにまりますまい」
「……………」
再び、沈黙が落ちた。
ピリピリとした静寂が訪れた。清は大人しく勉学に励んでいるのだろう。此度は、小鳥のさえずりのみが部屋を満たす。そうしてしばしの時が流れ――
ふぅ。
清次が嘆息した。顔には笑みが浮かんでいる。
「私共はただ、怪我をした客人をもてなしているだけのこと。客人がどのような素性だろうと、どのような考えを持っていようと、何の関係がございましょうや。さあ、安珍殿。お時間をとらせてしまいましたな。長話はお体に障りましょう。部屋にお戻りになり、ゆっくりと休まれますように」
「……………感謝、いたします」
深く深く頭を下げる安珍を瞳に入れ、清次は苦笑した。
「何を感謝されたのか理解いたしかねますな。さあ、お戻りなさい」
その言葉に、安珍はもう1度深く、本当に深く頭を下げた。
安珍が清次の部屋を辞した頃、清はもはや観念し、大人しく鈴から教えを請うていた。しかし、元からやる気が乏しいゆえ、時折、彼女の意識は別のことに向いた。
例えば――
「ねえ、鈴。奧州白河とはどのような地なのでしょう?」
例えば――
「ねえ、鈴。熊野勢についてご存じのことを教えてくださらない?」
例えば――
「ねえ、鈴。傷に良い薬草は何でしょうか? わたくしにも採って参られます?」
再三、疑問をぶつけられた鈴は、うんざりとした様子で嘆息した。
そうしてから、呆れの多分に含まれる瞳を、清へと向ける。
「清様。お忘れかと存じますが、清様は京にお住まいの天原の民のご子息様との婚礼が決まっておいでなのですよ?」
「? 何ですの、突然。わたくしの婚礼など、まだまだ先のお話でしょう? それに、別に忘れてなんかおりませんわ」
本当に不思議そうに、清が言った。彼女の大きな瞳は丸く開かれ、きょとんとした表情をしている。
鈴は再度嘆息し、清の顔を正面から見るために座り直した。
「清様。普段お若い殿方と接されないゆえ、安珍殿に興味をお持ちになる気持ちはよく分かります。しかし、貴女様は罔象女神の霊気を受け継ぐ者として、将来の眞砂を支えてゆく身の上。浮ついた感情や軽率な行動はお控え頂くのが肝要かと存じますよ」
「だから何のお話ですの? 今日の鈴は一段と訳が分かりませんわ」
不機嫌そうに頬を膨らませる清を見つめ、鈴はみたび嘆息する。清次の過保護が原因か、と。
清は清次にとってたった1人の子供であり、愛しい妻の忘れ形見でもある。厳しい態度をとりはしても、何だかんだで甘くなるのが常だ。取り分け、恋愛ごとなどについては13の齢を迎えた今であっても、それらしい教育を受けさせることはない。清次の指示によるものである。彼曰く、まだ早い、とのことである。
鈴はそのような方針に反対で、しばしば清次に教育方針の転換を進言していた。その進言を受け入れて貰えたことは、未だない。
――いい機会ということで、軽く焚きつけてみましょうか。面白そうですし
清次への反抗心に加えて、茶目っ気を発揮する教育係。決心して口を開く。
「心してお聞き下さい。つまり、清様は安珍殿に恋をなされているということです」
満面の笑みを浮かべた鈴からの突然の宣告。
清は長い沈黙に入る。
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そうしてしばし経ち、一気に頬を桜色に染めた。
「こ、こ…い…ですの?」
――あら。思った以上に可愛らしいご反応
表面上は真面目な顔を作りつつも、鈴は心内でのみニヤリと笑う。
「で、でも、どうしてそうなりますの? 別にこれまでの会話において、わたくしが安珍様をす、好きだなどと、ひと言も口にしておりませんわ……ッ」
「直接そうと仰ってはございませんでしたが、言葉の端々からにじみ出ておいでですよ。奧州白河や熊野勢が安珍殿に関わるのはもちろん、傷に効く薬草というのも安珍殿のお怪我を気にされてのことでしょう?」
質されると、清は赤く染まった頬を両の手の平で包み、考え込む。
「あ…う……。そう言われてしまうと、そんな気がして参りましたわ」
――あらあら。単純なんですから
1人であたふたとしている少女を見つめ、鈴は苦笑した。しかし、苦笑はようよう微笑みとなり、瞳は妹を慈しむ姉のように優しさを帯びた、が――
「さあさ。先ほども申しました通り、清様には決まったお相手がいるのですから、叶わぬ恋は早々に思い出になさいませ。勉学を続けますよ」
ぱんぱん、と手を叩きながら、鈴は言った。
清は夕焼けのように染まった頬を手で包みながら、不満顔を浮かべる。
「あうぅ…… もやもやして無理ですわよぉ……」
「まったく!」
腰に手を当てて目つきを鋭くした鈴。しばらくは、厳しい表情で清を見据えていた。
しかし、ようよう小さく吹き出す。
「ふふふ」
普段天真爛漫に鈴を振り回している清の、珍しい態度に辛抱できなくなったらしい。
きょとんとした表情を浮かべた清は、その様を瞳に映し、唇を尖らせた。
富田川の上流より、黒頭巾を被った者が2名、川辺に沿って歩みを進めている。彼らは注意深く周囲を観察しながら、ゆっくりとゆっくりと進んでいく。何かを探しているようであった。
夕の刻、彼らは眞砂の地の周辺へと至った。眞砂の地は天津勢の1角、罔象女神の管理下にあり、既に捜索対象が居ない旨の報告は受けている。先頃までよりは幾分注意深さを欠き、2名はあっさりと先へ進もうとする。
しかし――
「……見ろ」
ふと下げた視線の先に、大きな足跡が複数残されていた。大人たちがこぞって水遊びに精を出した可能性はなきにしもあらずだが、違和感は残る。何か重いもの、例えば人を、複数の大人で協力して運んだのではないか、という可能性を捨てきれない。
黒頭巾たちは顔を見合わせて頷き、夜の闇に沈もうとしている眞砂へ向かった。
「まあ!」
唐突に清姫が声を上げた。その視線はディジタルテレビに向いている。
ワアアアアァアアアァアッッ!!
ディジタルテレビから大音量の歓声が響き渡った。司会者の紹介を受けて、暗闇の中から数十名の少女たちが浮かび上がる。そして、パッと眩いライトが舞台を照らし、ポップな曲調の音楽が流れ始めた。歓声は一層激しさを増す。一方、少女たちは観客に笑顔を振りまきながら、曲に合わせて激しいステップを踏んでいる。
「は、はしたないですわ…… あのようにおみ足を公衆の面前でさらけ出すなど」
清姫は軽く頬を染め、呟く。
テレビの中の少女はひらひらとよく揺れるミニスカートを身につけており、男性ファンに刺激を振りまいている。
「えー、あのくらいふつーだよー。お兄ちゃんの高校の制服だってあんなだよねー?」
「まあな」
「で、お兄ちゃんは毎日欲情して――」
「ねえよ! 初対面の人間が多い時にそーゆーことゆーなよ! 信じたらどーすんだッ!」
清姫に疑惑の視線を向けられつつ、お兄ちゃんこと天笠慎檎(あまがさしんご)が叫んだ。
彼の叫びを耳に入れ、先の発言をした天笠柑奈(かんな)が声を立ててけたたましく笑っている。そして、ようよう笑いをおさめた彼女は、清姫の手をとって立ち上がる。
「姫ちゃんもあーゆーの着てみようよ。柑奈の私服、貸したげるー」
「え、ですが……」
渋ってみせる清姫だが、その表情は興味津々といった具合であった。
柑奈は渋る彼女に構わず、自室へと連れて行く。
その光景を瞳に入れつつ、天笠家長女、柚紀(ゆずき)は苦笑した。