第5章 天女の没落
神々の集うた地には戦渦の火

 闇に包まれた眞砂(まなご)の地の一画。藤原(ふじわら)邸の縁側を歩む影があった。影は足音を忍ばせて、目的の部屋を目指している。辺りを見回す様子は不審なことこの上ない。
 かたかたっ。
 影の背後から物音が響いた。影はびくりと肩を跳ね上げ、物陰に隠れる。
 それと同時に、忙しく動き回る足音が周囲を満たした。どたばたと音が響く中、声もまた響く。
「まずは清次(きよつぐ)様へお持ちして。次は安珍(あんちん)殿。清(きよ)様は最後でいいわ」
 聞こえてきた声音は、鈴(すず)という少女のものであった。彼女は天原の民の1人であり、藤原邸の炊事洗濯から、罔象女神(みつはのめのかみ)たる藤原清の教育係までをも、この地で務めている。
 騒ぎは、藤原邸の主、藤原清次と客人である安珍、そして、藤原清へ食事を運んでいることによるものらしい。
 影は彼女たちをやり過ごし、ゆっくりと物陰から這い出す。そして、再び目的の方向を目指して足早に進んだ。
 すっすっ。
 足音を立てず、それでいて素早く進む。
 そうして漸う、影はとある部屋の前へ至った。その部屋の中からはある気配がしている。
 影はふすまに手を掛け――
「いか用にございますかな?」
 びくっ。
 突然声をかけられ、固まった。
 時が過ぎる。沈黙のみが支配する時が。
「いかがされましたかな? 何か用がございますのでしょう?」
 更に問いかけられ、影は観念したように息をついた。
 そして、ふすまをゆっくりと開ける。
「驚かせないでくださいまし。安珍様」
 藤原清は不満げに頬を膨らませてみせた。
「清姫殿こそ。私は追われる身。そのように部屋の前にこっそりと来られては、警戒もなさいますよ」
 くすくす。
 おかしそうに笑う安珍からは、警戒していた様子は一切感じられない。
「もっとも、いらしたのが清姫殿であることは声をおかけする前から判じておりましたが」
「え? どうしてですの?」
 尋ねられると、安珍は優しく微笑んだ。
 行灯に照らされた清の頬が、少しばかり染まる。
「罔象女神の霊気を感じ取れぬほど、私も鈍感ではございませんよ」
 その言葉に、清は小さく息をつく。それだけのことだったのか、と。
 一方、安珍はゆっくりと立ち上がり、清を迎え入れる。
「それで、如何されましたかな? 女人がこのような刻限に男を訪ねるというのは、感心いたしませぬぞ」
 問われると、清は懐を探った。そして、目的の物を見つけると嬉しそうに微笑んだ。そのままの表情で、懐から取り出した物を安珍へ差し出す。
「どうぞ。お守りです。わたくしの――罔象女神の霊気を縫い付けておりますので、お怪我によいはずですわ」
 にっこり。
 満面の笑みで差し出され、安珍もつられて微笑んだ。
「これはこれは。有り難うございます」
「うふふ。どういたしまして、ですわ」
 ちろちろちろ。
 庭から虫の声が響いた。更に、さあっと風が部屋内に吹き込み、清の長い御髪を揺らす。
 夕刻の寂しげな空気が流れ、清はふいに表情を暗くする。
「……安珍様はいつまでここにおられますか?」
 言葉を詰まらせてから、清は訊いた。
 安珍は少しばかり考え込んでから、寂しげに微笑む。
「そう長くはおられませぬ。先ほども申しました通り、私は追われる身。私自身の危険はともかくとして、清姫殿や清次殿にご迷惑がかかります」
 彼の答えは、尋ねる前から予想できていたものであった。彼が眞砂に逗留することとなったのは、追っ手から身を隠し、体を休めるため。なればこそ、先のような答えなどわざわざ訊かずとも判ぜられるというものである。
 しかし、いよいよ言葉になってしまうと、その事実は清の心をしめつけた。言霊が彼女をつきさした。
「父も、わたくしも……気にはいたしません……」
 その言葉が意味を持たぬことなど、彼女も知っていた。
「なればこそ、貴女がたの善意に甘えるわけにはいかぬでしょう。本来であれば私を引き渡さねばならぬのが、天津勢としての貴女のお立場。瞳を閉じて頂いているだけで、もう充分です」
 そう口にして、安珍は寸の間、沈黙した。
 そして――
「明日、発ちます」
 言った。

 気配を消して眞砂の村落を探っていた2つの影は、この地を治める藤原清次の屋敷から乱れた気配を感じ取った。彼らの記憶が確かであるのなら、それは罔象女神のものである。
 それだけであったならば、彼らはさほど気にもとめなかったであろう。在るべきところに在る気配が感じ取れただけのこと。多少の乱れはあったとしても、現在の罔象女神は未だ年若い少女である。神の霊気が持つ記憶も経験も、年若い未熟さを補うほどには覚醒していないと聞いている。だからこそ、未熟な人格がもととなり、神の霊気が乱れたとしても何の疑問もない。
 しかし――
「……!」
 罔象女神の気配に混じって、わずかながら乱れた別の気配が彼らの五感を刺激した。それはまさに、彼らが探していた者の気配であった。
「見つけたぞ…… 瓊々杵尊(ににぎのみこと)――裏切り者め」

 清が去ってから幾ばくの時も経ってはいない。彼女は無事部屋へ戻っただろうか。安珍はそのようなことを考えてから、小さく頭を振った。
 彼も野暮ではない。清の様子から彼女の気持ちを汲み取っていた。しかしだからこそ、適当な甘言を口にして誤魔化すべきでも、ここに留まるわけにもいかないと判じた。
 ――私と歩む未来は明るくない。これ以上清姫殿を、いや、眞砂の方々を巻き込むわけにはいかぬ
 清次も清も、眞砂の誰もが安珍の身を引き留めるだろうことは分かっていた。この地はそういう空気に満ちている。全てを受け入れる度量の広さが眞砂にはあった。
 しかし、彼はそれに甘えることを是としない。清にも言った通り、明日には熊野勢の仲間が集う地へ向かうつもりであった。
 ――しばらくは乾飯(かれいい)を食す日が続こう。美味たる眞砂の夕餉、しかと味わうとしようか
 安珍は座して微笑んでみせるも、その表情は苦々しいものであった。胸につっかえる想いが彼をむしばんでいたが、気づかぬふりを決め込む。その未来を手にすることは能わぬのだから。
 こんこん。
 遠慮がちに叩かれるふすま。そして声がかけられる。
「安珍殿。お食事をお持ちいたしました」
 声を掛けられた安珍は立ち上がり、ふすまをガラリと開けた。
 部屋の外には鈴と、数名の使用人が膳を手に膝をついていた。
「ありがとうございます。これは大層美味そうな」
「粗末ではございますが、何卒ご容赦ください」
 丁寧に下げられた頭に、安珍は手を振る。
「何を仰いますや。過分な待遇、感謝いたしておりま――」
 どんッ!
 鈴や使用人の背後で、炎が弾けた。
 間一髪のところで安珍が力を行使し、炎を防ぎはしたが、熱気までは遮れなかったよう。使用人の肌がちりちりと焼ける。苦痛の悲鳴が上がった。
「何やつ!」
 鈴が振り返り、痛みに呻いている使用人をかばいながら叫んだ。彼女の瞳が、植え込みの陰から姿を現す人影をとらえる。
「何やつとはご挨拶よな、天原の民よ。そが主の同胞たる我らが分からぬわけもあるまい?」
 1人のその言葉に伴い、侵入者2名は黒頭巾を脱ぐ。
 鈴が息をのみ、キッと瞳を鋭くする。
「天上春命(あめのうわはるのみこと)様…… 天下春命(あめのしたはるのみこと)様……」
 彼女たちの前に顕れたのは、高天原より降臨した天津神の1角、天上春命、天下春命であった。彼らは、平素であれば京にて三貴神に付き従っている、双子の天津神である。鈴の主たる清次や清――罔象女神よりも、格としては上に位置する2柱だった。
 ――探り当てられたか……!
 安珍は唇を噛み、両の手で急ぎ印を組む。
「ナウマク サマンダ バザラダン カン!」
 ぼっ!
 不動明王の秘術が、人を包み込むほどの大きさの炎を生み、一瞬で天上春命、天下春命へと至る。炎は食指を伸ばし、彼らを飲み込まんと欲す。
 しかし――
 ばッッ!!
 天上春命が腕を振ると、炎は即座に消え去った。
「ふん。空海とやらが持ち込んだ真言密教の術か。神でありながら仏ごときに助力を請うとは」
「本気で僕らを裏切って、熊野に組すつもりのようだね」
 厳しい目つきで天上春命が、にこやかに天下春命が言った。共に隙を見せず、臨戦態勢を取っている。
 安珍はちらりと鈴や使用人たちを見た。
 ――少なくとも鈴殿たちが私に食事を運んでいた事実は誤魔化せぬ。天津勢の屋敷の者とはいえ、既にあやつらにとって彼女たちは『巻き込んでもよい対象』と認識されていよう
 それゆえに、この場で派手に立ち回るわけにはいかない。
 たっ!
 駆け出しつつ、安珍は振り返って天津神2柱を睨み付ける。御身に宿る神としての力が発現し、天上春命と天下春命を襲った。
 ぱちんっ。ぶん……
 天下春命が指を鳴らすと、それに伴って小さな振動音が響き、天津2柱の眼前で力が霧散する。しかし、その間に対象たる安珍は十分な距離を稼いでいた。
「逃げ足は速いようだな。追うぞ」
「こいつら――というより、罔象女神が率いる眞砂の奴らはどうする、兄者。瓊々杵尊を匿ってたのは確実だろ? だってさぁ、月讀命(つくよみのみこと)様がここにも文を送ったのに――」
 すぅ。
 天下春命の言葉を、天上春命が腕を上げて遮った。
「その判断は月讀命様がなされる。我らは我らに与えられた任をこなせばよい」
「ふぅん。ま、そぉか。承知。では――」
 ぎゅんっ!
 天津2柱の姿がかき消えた、と思いきや、その姿は即座に安珍へと迫っていた。
「僕らの任――裏切り者の抹殺といこうか、兄者」
「ああ」
 どぉんッッ!!
 藤原邸の庭にて、戦渦の炎が上がった。

 清は自室にてさめざめと涙を流していた。愛しき人が明日の今頃には側に居ない。その事実が彼女の胸を締め付ける。
 安珍とは先日出会ったばかりである。にもかかわらず、愛しいなどと大仰かも知れない。しかし、例え過ごした時間が短くとも、彼女の胸が張り裂けんばかりの痛みを覚えているのは紛れもない事実であった。
 どぉんッッ!!
 その時、轟音が響いた。外から聞こえてきたようである。のどかな眞砂では終ぞ聞いたことのない音であった。
「……何でございましょうか?」
 気持ちは落ち込んでいたが、流石に気になったのだろう、清はむくりと立ち上がる。ふすまをすっと開け、外界の景色を瞳に入れた。
「か、火事ですの? 大変……!」
 庭に逆巻く炎を目にし、清は慌てた。富田川が近くを流れているとはいえ、眞砂は山奥の集落である。火が燃え広がれば被害は大きい。
 彼女は清次や鈴を探そうと廊下を駆け出し、何気なく火の元へ視線を向ける。そして、立ち上る炎がただの火事ではないことに気づく。
「……あれは――安珍様? それに、あのお2方はどなたでしょうか?」
 天上春命、天下春命を瞳に入れ、清は小首を傾げた。京での会合は清次に任せ、天津勢に関する勉学もさぼり気味の身としては、初めて目にする天津神など全く知らぬ存在であった。
 その未知の存在が腕に炎の塊を抱え、安珍を襲っていた。
「……………ッ!」
 たっ!
 清は考える間もなく、駆けだした。

「オン ビロダキャ ヤキシャ ヂハタエイ ソワカ!」
 安珍の力強い言葉に伴い、種字(しゅじ)の刻まれた球体が凄まじい速度で天下春命を襲う。それによって生まれた風が、逆巻く炎の一部を吹き消した。
 しかし、天下春命自身に対しては有効な一手とはならぬようである。
 すぅ。
 目視が困難な速度の球体を、天下春命は難なくかわす。球体は彼の後方の地面に真っ直ぐ突き刺さった。
「流石に一筋縄じゃあいかないね」
「はっ」
 天下春命が独白する一方で、天上春命は腕に力を込める。すると、彼の足下の土塊が鳥の形と成った。鳥は1羽、2羽、3羽と増えていき、数十羽の土の鳥が生じた。
「ゆけ」
 ひゅっひゅっひゅっひゅっひゅっ!!!!!
 安珍は左方向へと駆け出して『鳥』を避けようと試みるが、『鳥』は鋭い動きで逃げる者を追い、彼の腕を、足を、腹を突く。
「ぐ……っ!」
 速度に乗った鳥は、安珍の体へ着実に痛みを与え続けた。
 そうして漸う、土の鳥が居なくなると、続けて、天下春命が腕に再び炎を宿す。
「オン ビロバクシャ…… ノウギャ ヂハタエイ………ソワカ………!」
 安珍は真言を唱え、再び球体を放る。球体は中空を翔る。そこに記される種字は……
 ――先ほどのものと違うな…… あれは廣目天(こうもくてん)の種字であったか?
 常人であれば目視することすら能わぬ球体を、天上春命はしっかりとその瞳に捕らえ、あまつさえ刻まれた種字をも判じた。当然、彼はそれを易々と避け、球体は彼の後方の地面に突き刺さった。
「ははっ! さっきから同じようなことばっかりしてぇ、何がしたいのさぁ!」
 天下春命が腕を振るうと、炎が狼の姿を採った。数体の猛々しい獣は、神の口笛を受けて勢いよく駆けだす。
 がるるるるぅ!
 うなり声を上げ『狼』は安珍に牙を向けた。炎で形成されたそれは人の肌に傷を生み出すのか、安珍には判じられなかったが、だからといって試すはずもない。
 たっ!
 地面を蹴って左へ跳び、2匹の攻撃をするりとかわす。そのあとを追ってきた3匹には拳を連続でたたき込む。
 じゅっ。ぱぁんっ。
 安珍の拳が焼ける音と共に3匹ははじけ飛ぶが、更に他の3匹が安珍を追う。先ほど攻撃をかわされた2匹もその攻勢に加わった。
 表情を歪めつつ、安珍は懐から3つ目の球体を取り出す。そして、
「オン ベイシラヤナヤ ソワカ!」
 力強く言葉を放つのと同時に球体を指で弾いた。
 ――また違う真言と種字。あれは多聞天(たぶんてん)、か?
 球体が『狼』4体を吹き飛ばし、やはり地面に突き刺さった。
 天上春命は眉をひそめる。
 ――そもそもあの状況で仏の力を行使するだと……?
 安珍は天津神――瓊々杵尊である。今や天津勢を裏切り、熊野勢に組そうとしてはいるが、そもそもは日向(ひむか)の地にある霧島山(きりしまやま)の強い霊気を受け継ぐ者だ。仏と呼ばれる存在から力を借りずとも、術で生み出した獣ごとき、いくらでも消し去れるはずなのである。
 ――初めは恐らく増長天(ぞうちょうてん)。そして、廣目天、多聞天……
「おいおい。瓊々杵尊ともあろう者が術で創った獣ごときに苦戦? つっまんないなぁ」
 天上春命が考え込んで口を噤ぐ一方で、天下春命はにやりと笑ってぼやいた。更に、手に炎を宿す。
 炎は数多の狼を形成し、生じた獣はようよう駆け出す。
 安珍の左右から、正面から、炎と成った『狼』が迫る。
 ――くっ。まずい。数が多すぎる……!
 焦った様子で安珍は歯を噛みしめた。
 ここで彼が神――瓊々杵尊としての力を行使し、『狼』を吹き飛ばすことはたやすい。しかし、それは結果として天津神2柱を倒す機会を失することを意味する。
 覚悟を決め、安珍は最後の球体を手に取る。
「オン ヂリタラシュタラ――」
 熱を発する『狼』が目前に迫る中、安珍は手で印を結びつつ真言を口にする。
 それを耳に入れた瞬間、天上春命は彼の意図を察した。
「持国天(じこくてん)! 四天王の術場を形成する気か!」
「は? 何を言ってる、兄者」
 天下春命が訝しげにしているのを尻目に、天上春命は唇を噛む。
 ――東西南北の地面に四天王の力を穿ち、術場を形成…… 確かに瓊々杵尊自身の力よりも、我らを滅ぼすには有効だ……!
 瓊々杵尊と彼ら2柱の力は互角と言ってよい。2対1であるからこそ、天上春命たちに形勢が有利なのである。そこに仏の力による強い術場の干渉があれば、形勢は逆転する。
 しかし、
 ――だが、炎が瓊々杵尊を飲み込む方が早い! そして更に……
 天上春命もまた腕に力を集わせ、土塊の大鷲を数十羽生み出す。
 ――仮に炎に耐えたとしても、間隙など与えん!
 ひゅっひゅっひゅっひゅっひゅっ!!!!!
 時間差で『狼』と『大鷲』が安珍へ迫る。裏切りの神を滅ぼさんと、力が1点に集おうとしていた。
 安珍は持国天の力を借りる真言を続けながらも、半ば諦めかけて瞳を閉じた。

 ぱあぁんッ!
 大きな音が藤原邸の庭に響いた。それに伴い、辺りを水蒸気が隠す。
「くっ! 何だ!?」
 天上春命が叫ぶ。その隣で、天下春命がごほごほと咳をしていた。
 仮に土塊と炎が安珍を滅したのであれば、水蒸気が発生する道理はない。想定外の何かが起きたのは間違いがない。
 びゅっ!
 水蒸気の中から、1つの影が唐突に飛び出して2柱へ迫った。その正体は――
「どなたか存ぜませんが、安珍様――お客様へ狼藉をお働きになるというのであればわたくしも黙ってはおられませんっ!」
「罔象女神か!」
 ばんッッ!!
 清が駆けながら右の腕を突き出すと、水で形成された蛇が空間を翔る。『蛇』は天上春命、天下春命を襲った。
 2柱はそれぞれ『鳥』と『狼』で『蛇』を迎撃し、続けて天下春命は腕に力を集わせる。新たに敵となった神を滅さんと身に宿る霊気を解き放った。
 ぶわあああぁあッッ!!
 紅蓮の炎が清へ向かう。
 清は目を見はり、急ぎ腕に力を込める。眞砂の大気や富田川の水気を取り込み、放った。
 ばしゃああぁあッッ!!
 大容量の水が生み出され、勢いよく迫る炎を押しとどめた。
 その一方で、天上春命は焦っていた。こうして罔象女神の相手をしている間に、瓊々杵尊が四天王の術場を形成してしまえば、罔象女神もろとも天上春命と天下春命を屠ることが瓊々杵尊には可能なのだから。
 未だ水蒸気が立ちこめる中、天上春命は必死で安珍を探る。が、そこで気づく。安珍がその気になれば、既に術場は完成しているはずだ、と。
 ――どういうことだ……?
 彼が迷う中、罔象女神の水の力と天下春命の炎の力がぶつかり続ける。
「……へぇ。噂じゃあ、罔象女神は完全に力をものに出来てないって聞いてたけど、意外とやるじゃんか」
 天下春命は笑みを浮かべ、軽口を叩く。
 一方で、清は苦しげに炎を何とかとどめている。
 ――何ですの? 野党さんや妖怪さんとは比べるべくもない強さですわ。この方はいったい?
「清姫殿ッッ!!」
「あ、安珍様!?」
 安珍の声高な叫びを耳にし、清は必死で水を操りながら叫び返す。
 清の無事を取り敢えず確認できた安珍は、持国天の力を保持したままでほっと息をつき、そうしてから、大きく息を吸った。再び叫ぶ。
「その場をお離れ下さい! 早く!!」
「え? あ、きゃっ!」
 水蒸気の向こうから聞こえる叫びを耳にし、清は戸惑う。
 そして、その隙をついた天下春命の攻撃が彼女を襲った。再び生み出された炎の獣が着物の裾を焼く。
 天上春命はその様子を瞳に入れ、ほくそ笑んだ。
 ――なるほど。罔象女神がいるからこそ、瓊々杵尊は四天王の術場を作らぬのか。ならば……
 ひゅっ!
 必死で炎を防ぐ清の背後から、天上春命は『鳥』を放つ。『鳥』は砕けて土の塊となり、清の足下を固めて彼女をその場に繋ぐ楔となった。
「な、何ですの? 動けませんわ」
「下春。攻撃を止めよ。罔象女神は未だ滅ぼしてはいかん」
 天上春命が注意を喚起すると、天下春命は炎を消した。それでいて、不満げに唇を尖らせる。
「何でだよ、兄者。もうこいつも裏切り者なのは確実だろ?」
「こやつを滅ぼすのは後でよい。それよりもまずは瓊々杵尊だ。あやつは面倒な力を得ているようなのでな」
 兄の言葉に、弟は首を傾げる。しかし、別段逆らおうとも思わぬようで、にやりと笑んで歩みを進める。
「なら、こいつは炎の檻にでも閉じ込めるか」
 ぼッ!
 炎が四方八方へ弾け、ようよう清を囲んでゆく。熱が彼女を襲い、更には外界と隔絶していく。
 檻が形成された。
 ――あ、熱いですわ。炎が強すぎて水が使えない。それに、何だか息も苦しく……
 炎が酸素を燃やし、人の子が活力を得る機会を奪い始めたよう。清は苦しそうに膝を突く。
「安……珍……様ぁ……………」

 だっっ!!
 天上春命、天下春命の脇を風が駆け抜けた。人の子が風の力を身に受けて、加速をかけたらしい。
 瓊々杵尊――安珍が凄まじい速度で清の元へ向かった。
「何っ!?」
 天上春命は驚愕し、安珍が飛び出してきた元の空間に瞳を向ける。そこには、先ほど安珍へ食事を運んでいた女性――鈴が居た。彼女は両腕を突き出し、天原の民の力を操っていた。
 その力は安珍に俊足を与え、彼を即座に清へと向かわせる。
「だがそれでどうするッ! 四天王の術場を捨てるというのなら、我らの勝利は疑うべくもないわ!!」
 炎の檻を突破するには、神の力を行使しないわけにはいかないだろう。ともすれば、四天王の力の連鎖は解かれ、術場を形成するには一から4つの真言を奏上し直さねばならなくなる。
 しかし――
 じゅっ!
 肉の焼ける音が響いた。顔をかばう腕が、地を駆ける足が、檻を形成する炎により焼かれる。
 神の力も、仏の力も行使することなく、安珍は炎に飛び込んだ。
「……あ……ち……さまぁ……」
 焼けた腕が伸び、清の体を包んだ。
 力強い腕に抱かれ、清はゆっくりと瞳を閉じる。息苦しさに耐えられなくなったらしい。
 安珍は、清を抱えて急ぎ炎の檻から飛び出し――
「ハラマダナ ソワカっ!」
 叫んだ。
 ピカアアァアアっっ!!
 予め地に埋めてきた種字入りの球体が輝き出す。持国天の力が東に集い、いよいよ四天王の術場が発動した。
「な!」
「何だ、あの光っ!?」
 安珍や清、天上春命、天下春命を囲む四方を光が包んだ。
 南に増長天、西に廣目天、北に多聞天、東に持国天。4つの光――四天王の力が術場を形成し、光の正方形が神々に圧力を与える。
 ――に、瓊々杵尊め…… 我らと心中する気か……!
 焦りを含む瞳で、安珍を睨み付ける天上春命。彼の目に映るのは……
 ――? な、何を笑って……
 笑みを浮かべる裏切り者の姿を瞳に映し、神が戸惑っていると、
「祓給(はらひたま)ひ清給(きよめたま)ふ事を 諸(もろもろ)聞食(ききたま)へよと宣(のたま)ふ」
 詠唱が聞こえてきた。
「六月晦大祓(みなづきのつごもりのおおはらへ)だと!?」
 天上春命が叫んだ。
 六月晦大祓――高天原の神々の力を顕現させ、絶対防御壁を形成する祝詞である。神道に関わる者でも、この祝詞を口にすることが出来るものなど限られている。ましてや眞砂のような山奥の村落ともなれば――
「四国(よくに)の卜部等(うらべども) 大川道(おおかわぢ)に持ち退(まか)り出でて」
 身に宿る天原の民の力を集結させ、六月晦大祓を奏上する男が居た。彼は光の壁の外で視線を上げる。天津神2柱と目が合った。
「藤原清次かあああぁあッッ!!」
 叫ぶ顔は濃い光に包まれ消えてゆく。四天王の術場がいよいよ完成しようとしていた。
 一方で、清次の詠唱に伴い、安珍と清の周りに不可視の球場の防御壁ができあがる。
 そして――
「祓(はら)へ却(や)れと宣(の)る!」
 どんッッッッッ!!!!!
 守りと攻めの力が同時に完成した。

「あら。随分と大きなお方ですわね」
 清姫の意識が別に向いたことにより、みたび話が中断された。つい先頃までは着物をきっちりと着込んでいた彼女であるが、今は天笠(あまがさ)家二女、柑奈(かんな)の私服に身を包み、恥ずかしそうに毛布で足を隠している。上は白のブラウス、下は赤のミニスカートという出で立ちだ。
 そんな彼女の瞳は、ディジタルテレビに釘付けになっている。
 画面の中には、派手な衣装を着込んだ、身の丈4メートルはあろうかという巨人が居た。彼女の登場は、もはや日本の年末の風物詩となっている。
「あはっ。今年も凄いねー」
「そろそろいい年だろうに、頑張るな」
 柑奈と、父の櫂(かい)が反応した。母の瑠実音(るみね)はお茶の準備をしながら軽く相づちを打ち、長男の慎檎(しんご)は興味なさそうにちらりと見たのみであった。
 一方で、本来であれば天笠家の住人ではない阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)、黒絵(こくえ)は、先ほど慎檎の部屋からやって来たアナログテレビの付喪神、勘九郎(かんくろう)と共に一足早い正月の遊びに夢中になっている。
 そして、天笠家最後の1人、長女の天笠柚紀(ゆずき)はというと――
「ねえ? そこで区切られると、流石にすっごく気になるんだけど……」
 唯1人で正座し、聞く体勢を保っていた。
「わあぁあ。人の世はまっこと不可思議ですわ。いくら我ら鬼の世であっても、ここまでの巨人はおりませんことよ。土蜘蛛様のような妖怪様であればあの程度の大きさになれたりはいたしますが…… あら? 何やらあのお方、縮まれたような…… と思ったら! 別の巨人様がご登場あそばしましたわ! 何ですの! 凄いですわっ!」
 きゃっきゃっと楽しそうに騒ぐ清姫に柑奈が便乗して、天笠家の居間に嬌声が響き渡る。
 柚紀の意向に沿って清姫の意識が過去へ再び向くには、少なくとも派手な装いをした2者の決着がつく頃までは待たねばならぬだろう。
 はあぁあ。
 何度目になるか分からないため息をついて、柚紀は取り敢えず足を崩した。

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