神々の戦いから一夜明けた眞砂(まなご)の地の朝、藤原(ふじわら)邸の庭には昨晩の戦いの名残が見えた。なぎ倒された草花。焼けただれた地面。天津神たる天上春命(あめのうわはるのみこと)、天下春命(あめのしたはるのみこと)の2柱の襲撃は、決して夢の中の出来事ではなかったのだ。
一方で、それら以外の光景は、昨夜の出来事がまるで夢であったかのように錯覚させる。
朝食の刻限、朝寝坊をした藤原清(きよ)を教育係の鈴(すず)がしかりつけている。
「清様! いつまでお休みになっているおつもりですか! 朝餉のお時間です!」
「ふああぁあ。鈴ぅ、昨夜は大変だったのだから朝はゆっくりいたしましょうよぉ」
大きくあくびをしつつ、清は言った。
そのだらしのない顔を、鈴はキッと睨み付ける。
「何を甘えてお出でですか! 清様よりも大変であった安珍(あんちん)殿は既に起きておられますよ!」
天津神に追われていた当人、安珍こと瓊々杵尊(ににぎのみこと)は、昨夜の戦いにおいて大火傷を負った。藤原邸の主、藤原清次(きよつぐ)の力で幾分の癒やしは得られたが、完全に回復するには至っていない。とはいえ、安珍自身が強い力を有し、かつ、清次の処置もまた適切だったためか、傷の具合はかなりよい。快方に向かっているのは間違いないだろう。
そこで、何故か清は瞳を伏せた。
その様子を瞳に映し、鈴は嘆息する。
「元より安珍殿は長居せぬ予定の御方です。時を置かずに熊野本宮大社へと赴かれるでしょう。……前にも申し上げたはずですよ、清様。叶わぬ恋は忘れておしまいなさい」
「……わかって……おりますわ……」
藤原清次の部屋にて、部屋の主と客人が顔をつきあわせていた。
「もう発ちなさるとな? 火傷も完治されておりませんでしょうに、忙しいですな」
「天上春命(あめのうわはるのみこと)、天下春命(あめのしたはるのみこと)は何とか滅することが出来ました。彼らの霊気は山へと還り、数百年はそのままとなりましょう。既に目をつけられている私はともかく、貴方がたの裏切りが天津神たちに知られる可能性は低い」
昨日の戦いにより、天上春命と天下春命は安珍の放った四天王の力を総身に受け、灰燼と帰した。人としての体は消滅し、神としての霊気は本来在るべき山深き地へ返還された。他の天津神は、安珍が追っ手を打ち倒し逃れた、と判断するだろう。
「しかしそれでも、これ以上ご迷惑をおかけするわけには参りませぬ。既に新たな追っ手は放たれているでしょう。次も昨日のように上手く撃退できるわけがない」
天上春命と天下春命たちでさえ、それぞれが安珍――瓊々杵尊(ににぎのみこと)と同等の力を持っていた。勝利を得られたのは、罔象女神(みつはのめのかみ)である清や、天原の民である清次、鈴の協力があってこそ。しかし、次なる追っ手は更なる手練れが選ばれるのは疑いようがない。
熊野勢の首脳陣が集う熊野本宮大社へと至れば、天津神とてそうそう手を出せるものではない。しかし、眞砂に逗留していたのでは遠からず再び襲撃を受けることだろう。
ふぅ。
安珍が譲る気配を見せないでいると、相対している清次は嘆息した。
「清が寂しがりましょうな」
顔に苦笑を浮かべた清次へ、安珍もまた苦笑を向ける。そして、深く深く頭を下げた。
「お世話になりました」
がら。
安珍が荷物をまとめていると、ふすまの開く音がした。彼の背後からする気配は――
「……安珍様。出立なさるのですね?」
「はい。清姫殿にも大変お世話になりました。このご恩は生涯忘れませぬ」
丁寧に下げられた頭を、清は寂しげに見つめる。
「あの…… わたくし……」
すっ。
清の言葉の途中で安珍は立ち上がる。そして、荷を背に歩みを進める。
部屋の敷居を跨ぎ、清の脇を抜け、踵を返した。
「失礼いたします」
そうとだけ口にして彼は、再び歩みを進める。清から離れてゆき、数刻後には眞砂には居なくなる。
清は胸に痛みを覚え、考える前に駆けだした。
ばッ。
安珍の背に温もりが沿う。
想い人の背に顔をうずめ、清はきつく目を瞑った。
「……わたくしは……」
すっ。
安珍は表情を歪め、唇をキッと噛む。そして、清の腕を取った。振り返り――
「さらばです」
ただ、姫の御髪を撫で、みたび歩みを進めた。
清は視線を落とし、それ以上、追いすがることはなかった。
富田川の急流を見下ろし、清は瞳を伏せた。
安珍が眞砂を去って3日が経っていた。少し落ち着こうと水の流れを見にきたが、あまり効果はないようであった。気持ちは相も変わらず沈んでいる。
――安珍様は熊野本宮大社へ無事に辿り着いたでしょうか。もう眞砂にはお出でにならないのでしょうね……
ふぅ。
息をつき、清は再度視線を下へ移す。富田川の水の流れが、落ち葉を深淵へ誘っている。
ふらっ。
眩暈がした。弱った心に誘惑が襲う。
そして――
ばしゃあぁんッ!
川底へ沈んでいくなか光が見えた。水中を照らす陽光はキラキラと綺麗な空色をしている。
こぽこぽこぽこぽこぽ。
清の口から空気がこぼれ、水面へと向かった。ゆっくりと瞳を瞑る。ようよう気が遠くなり――
ぱああぁあっ!
水中が煌々と光り輝いた。強き神の霊気が、生存本能に従って目覚める。
そして、富田川が唐突に氾濫した。大容量の水が下流へ向かい、さながら猛り狂う龍のようであった。龍は漸う白く巨大な蛇と成り、西へと飛び立つ。そして、天台宗道成寺の敷地に降り立った。
「……んん……?」
むくり。
肌が焼け付く感覚を覚え、清は眠りから覚めた。視線を前へ向けると、なぜか大鐘が業火に包まれ、轟々と音を立てている。富田川へ身を沈めたはずであったのだが、なぜ大地の上に立ち、炎を目の前にしているのか。
ずぶ濡れとなっている着物が、目の前の業火によって乾いてゆく。
「あれは……なんですの……?」
呟いた清の鼻に、肉の焼ける臭いが届く。思わず口元を押さえ、眉をしかめた。そして、ふと視線を巡らす。鐘の側には見覚えのある物が在った。
炎の触手が迫る直前、清の瞳がそれを捕らえた。それから漂うは、彼女自身の気配。
「……安珍様へお渡しした……お守り……?」
呟いた刹那、炎は思い出の品を包み込んだ。想いが炎と共に空へ散る。
相変わらず鼻孔に届くのは肉の――生き物の焼ける臭い。
「…………あれ…………え…………?」
意味もなく呟き、ようよう彼女は最悪の予測を事実として採る。
びちゃあぁあっ。
吐瀉物が地を濡らす。
「うえっ、あっ。げほげほっ!」
えずき、清は激しく咳き込んだ。そうしてから、ポロポロと涙を零す。
そして――
「いやああああああああああああああああぁああああぁああああぁああああぁあああああぁあっっ!!」
そこまで話し、清姫はずずっとほうじ茶をすすった。
彼女の話をねだったはずの阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)、そして共に聞いていた黒絵(こくえ)は、床に寝転んですーすーと可愛らしい寝息を立てている。
いまだに聞いているのは、天笠(あまがさ)家長女、柚紀(ゆずき)ただ1人のみであった。他の天笠家の面々は初詣の準備やら休む準備やらで各々席を外している。
ごおおおおぉおんっ。
清が熱心に観ていた紅白歌合戦は先ほどトリが歌い終えて終了を迎えた。今やディジタルテレビには大きな大きな鐘と、それを突く僧が映し出されている。
ごおおおおぉおんっ。
1つの煩悩が荘厳な音色と共に天に消える。
「熊野本宮大社に赴いたはずの安珍様がなぜ道成寺の鐘の中で焼けたのか、それは分かりません。しかれども、あのお守りは世に1つしかないもの。なれば、鐘の中のアレが安珍様であったのは間違いございません。巷説にあるように、わたくしが罪を犯したことは――事実なのでしょう」
ごおおおおぉおんっ。
そろそろ100回目ほどになる音色。煩悩と共に悲しみも空に消えるのならば、目の前の女性の心は多少なりとも救われるのだろうか。柚希はそのようなことを思った。
「その後わたくしは鬼とされ、天津神様方に追われる身となりました。父や鈴のことも気にはなりましたが、眞砂へ戻ることなど勿論能わず、北へ、東へと逃れ、ある地で追い詰められたのです。そこを呉葉(くれは)お姉様に救われ、わたくしは鬼の世の鬼と成りました」
そう話を結んだ清姫は、にっこりと優しく微笑んだ。時が彼女の傷を癒やしたのだろうか。それとも、彼女が無理を通す強さを身につけたのだろうか。
ごおおおおぉおんっ。
107つ目の鐘の音。今年もあと数えるほどしかない。
「前鬼様、後鬼様が産み出した鬼の世――永劫の時は、わたくしにとっての罰です。わたくしはかの結末を迎え、まず安珍様を恨みました。安珍様がわたくしを受け入れて下されば。安珍様がわたくしを熊野へ連れて行って下されば。見当違いの恨み言を何度も何度も呟きました。わたくしは罪の上に幾重もの罪を塗り重ね、永劫の時を過ごしたのです。わたくしは幾度も、幾度でも――」
ごおおおおぉおんっ。
新たな1年が始まりを告げた。
「この音色を受け止め、罪を背負い続けるのです」
やはり清は笑みを浮かべていた。けれども、その顔は泣いているように、柚紀には見えた。
それゆえに――
すっ。
「柚紀様?」
目の前の女性に突然手を握られ、清姫は小首を傾げた。
そんな彼女に、柚紀は微笑みかける。
「これから慎檎(しんご)と柑奈(かんな)と初詣行くんだ。一緒に行かない?」
にこり。
優しさに、鬼はぱちくりと瞳を瞬かせた。
「……ですが」
「いいからいいから。さ、行こう」
鬼の背を、天原の民が押していく。途中、父の天笠櫂(かい)とすれ違った。
「あ、父さん。阿鬼都と鬼沙羅と黒絵ちゃん、きちんと布団で寝かせといてね」
「ん? ああ、初詣か。わかった。気をつけて行ってくるんだぞ」
「オッケー」
たたたッ!
「おっ姉ちゃんっ! あけおめーっっ!!」
がばっ。
駆けてきて勢いよく抱きついたのは、妹の天笠柑奈である。
柚紀はするりと彼女の腕を外し、出かける準備のためにさっさと自室を目指す。そして、
「柑奈。もっと厚着してきなさい」
行きがけに冷静に指摘した。
「えー。でもそれじゃ可愛くないしー」
「風邪引くよりマシだろ。ん? そっちの鬼も一緒に行くのか?」
ファー付きのジャケットを着込んだ天笠慎檎が横から妹へとコメントし、更に清姫へと尋ねた。
それに対し、清姫は身構えて目つきを鋭くする。
「安珍様以外の男の方は苦手でして。申し訳ございませんが、お近づきにならないで頂けますでしょうか?」
「……ま、いいけど」
慎檎も清姫の事情はおおまかに認識している。男というだけで拒絶されるのは気持ちがいいものではないが、仕方がないと諦めた。
「柑奈はこれ着なさい。清姫さんはこれね」
部屋から赤いプリンセスコートとブラウンのダッフルコートを抱え、柚紀が戻ってきた。それでいて、自身は男物の黒いジャケットを羽織っている。
「わー。お姉ちゃん、かっこいー」
嬉しそうな声を出した妹を軽く小突き、長女柚紀は弟と妹、そして鬼を引き連れて玄関へ向かう。
「姉ちゃんの友達も来るんだよな。幽華(ゆうか)さん?」
「幽華はまだ関西らしいわ。さっき年賀メールきてた。今日来るのは久万月薫(くまづきかおる)ってゆー子」
「あー、憑き物筋の――」
ごんっ。
慎檎の拳骨が柑奈を襲った。手加減はなされていたが、柑奈は当然不満顔である。
「何すんの!?」
「不用意な発言は控えろよ。まったく」
「だからって殴らないでよー!」
ぎゃーぎゃー!
「こらっ! 阿鬼都たちは寝てるし、何よりご近所迷惑だから騒がないっ!」
騒がしい兄妹を叱る姉。天笠家では常にある光景である。
清姫はその光景を瞳に映し、暗く淀んだ気持ちをすっかり忘れて――笑った。
「くすくす。ご一緒させていただきますわ。よろしくお願い申し上げます、柚紀様、柑奈様、慎吾様」
「えー、かったーい、姫ちゃん。柑奈は柑奈でいいよ」
「というか、『姫ちゃん』って柑奈。清姫さんはこれでも1000歳くらいなんだから、そんな呼び方は失礼なんじゃ……」
「変なとこで真面目だよな、姉ちゃんは」
ぎゃーぎゃー!
結局、騒がしく廊下を歩いて行く人の子と鬼の子。彼らはようよう玄関へと至り、ひと言挨拶を口にしてから月光の降り注ぐ寒空の下へ踏み出す。
その後ろ姿を見つめ、櫂は苦笑した。そうしながら彼は、床ですやすやと眠る子供たちを抱える。その重みも温もりも、かつて抱いたものと変わりない。人も鬼も違いなどないと、認識できた。
1年の始まりの日。これからの希望を願い、人は祈る。
そして鬼もまた、せめて未来は光満ち、楽しい時が過ごせんことを。