第6章 憑き従う糸
溢れ出でたる力

 ……力じゃ。強き力じゃ。
 はかなき人の子が、ともし力を放っておる。
 あな、可惜(あたら)しや。

 龍ヶ崎町を覆う寒々しき冬の空を見上げながら、久万月薫(くまづきかおる)は帰路についていた。冷えた空気は澄み渡り、南の空にオリオン座が仰げる。肌を刺す寒さに、自身の体を両の腕で抱いて耐えながら、彼女は星見のひとときに心を温めていた。
 薫は、龍ヶ崎町にある総合大学、臥龍(がりゅう)大学の2回生である。講義は午後3時に終了したのだが、所属する昆虫愛好会に顔を出して雑談に興じた結果、帰宅時刻が午後8時を回ることとなってしまった。おかげで空は闇に染まり、こうして星見に興じることが出来ている。
 ちなみに、薫は昆虫全般が好きというわけではない。ただ一種、蜘蛛だけが異様な程に好きだった。幼少時より変わらぬその嗜好は、しばしば周りの不興を買う。昆虫愛好会の中でも、会員によっては拒否反応を示す。昆虫好きとはいっても、大抵は蝶やトンボ、カブト虫など、差し障りのない昆虫を好む者が多いのは当然だった。
 それでも、明かな差別意識を持たないだけマシだと、薫は思う。高等学校までの教育課程において、幾名ものクラスメイトに遠ざけられ、時には虐げられた記憶は遠い過去のものではない。
 ――?
 くるり。
 来た道を振り返り、薫は首を傾げた。後方に某かの気配を感じたのだが、目に入るのは闇に覆われた砂利道のみである。久万月家と他数軒が連なる地区へ向かうこの小道は一本道であり、隠れられる暗がりもない。
「気のせい、かな?」
 小さく呟いて向き直り、彼女は再び歩みを進めた。
 その時である。
 ずしッ!
「ひっ」
 薫の背に何かがのしかかった。
 恐れおののき、薫が引きつった顔だけを後方へ向ける。すると、彼女の視界に鬼面の女が映った。その女が身につけている着物は古めかしく、また、突然に姿を顕した所業からしても、この世の者とは思えなかった。
「……!! ……!?」
 ぱくぱくと口を動かす薫。どうやら口を利けないらしい。
『……ほぉ、蜘蛛憑きかえ? その力、欲しいのぅ』
 女はそうとだけ言うと、右手を薫の頭へと掲げた。そして、腕に力を込める。
 薫は口も利けず、動きも取れない。何も出来ない。しかし、せめてもの抗いにと、弱気になっている心を隠して、鬼面の女を睨み付けた。
 すると――
 ぱぁんッッ!!
「……え?」
 凄まじい勢いで吹き飛んだ女を瞳に映して、薫は小さく呟く。いつの間にやら口も利けるようになっている。更には、体も自由に動くよう。
 何が起きているのかは判ぜない。しかし、この機を逃す手はない。
 だっ!
 薫は振り返ることもなく駆ける。懸命に家路を急いだ。悪夢のような現実から逃れるために……

 ごそっ。
 地に転がったモノが起き上がる。
『これは、蜘蛛の糸かえ? 腐っても蜘蛛憑きよのぅ』
 額に突き刺さる幾本もの白い糸を抜き、鬼面の女は呟いた。よくよく目を凝らすと、小さな小さな蜘蛛が電信柱と木の間に巣を構えて居る。かの小さき虫が、蜘蛛憑きの無意識の命令を受けて護りの糸を放ったのだろう。
 彼女たちの世界において、蜘蛛は古より多くのモノを捕食する上位種である。しかし、女が未だ健在である事実からしても、今その牙は鈍っているよう。
 視界の端で遠ざかっていく少女を瞳に映して、女は小さく嗤う。
『戯れに逃すのも一興よ。そが力、いずれは妾のものとなろう』
 冬の夜半。月明かりの下、鬼面が不気味に微笑む。
 常なれば、のんびりとした時が流れる龍ヶ崎の町に、不穏な気配が漂った。

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