第6章 憑き従う糸
頼るべくは異能

 青く澄み渡る空の下、天笠柚希(あまがさゆずき)は臥龍大学の構内をキビキビと歩いていた。本日の講義は2限目からであるため、ゆったりと10時30分の登校である。
 臥龍大学のキャンパスは広く、学部によっては校門から数キロメートル離れたところに講義棟が建っているが、幸い哉、柚紀の所属する文学部が利用する棟は、いずれも校門近くに集っている。10時40分からの講義に遅れることはないだろう。
 実際、校門を潜って数分で、古代文学史の講義が行われる『ゐ−203』室に至った。
「おはよう」
 ガラリと扉を開けて、柚紀が室内に入りつつ朝の挨拶を口にする。
 すると、同じく文学部の2回生である面々が視線を扉の方へ向けて、破顔した。
「天笠さん、おはー」
「おはよ、柚紀」
「おーっす。ユズキング――ぐはっ!」
 憐れ男子生徒の1人が、柚紀の重い拳をあごに受けて、沈んだ。
 ユズキングというのは、夏頃にとある事件がきっかけで流行った柚紀のあだ名である。しかし、柚紀自身はそのあだ名を許容する気が全くない。女子が口にすれば鋭い瞳で睨み付け、男子が口にすれば問答無用で殴り倒していた。結果、ここ最近はそのあだ名をとんと耳にしなくなっていたのだが……
「懲りないねー、男子は。まあ、柚紀は柚紀で容赦がないというか……」
「人の嫌がることする方が悪い。……あれ? 薫は?」
 毅然とした態度で正論を口にし、それから、柚紀は友の姿を探した。友人、久万月薫はたいていの場合、今目の前にいる女子グループと共に行動している。しかし、その姿がない。
 柚紀が休みだろうかと訝しむ一方で、女子たちもまた困った様子だ。
「? どうかしたの?」
 尋ねられると、1人がまなじりを下げながら講義室の後方を指さした。そちらには、見知ったクセっ毛の少女が机に突っ伏して座っていた。久万月薫である。
 ――あんな元気ない薫、珍しいわね
 そのような感想を抱きつつ、柚紀は部屋の後ろに向けて歩を進める。講義室というのは大抵後ろの席が埋まっているものだが、薫の周りの席は幸いながら空いていた。
 かたっ。
 柚紀が椅子を引いて腰を下ろすと、おもむろに薫が顔を上げた。
「……あ、おはよ。柚紀」
「おはよ。どうかしたわけ? 皆、心配してるわよ」
 そのように声をかけられると、薫は弱々しく笑った。
「寝不足なんだ。あと……」
 庶民的な理由を開示したあと、薫が逡巡する。その様子からして、言い淀んだ内容の方が主だった原因と思っていいだろう。
 彼女はしばし瞑目してから、柚紀を手招く。
 意図を察した柚紀は、椅子から腰を浮かして薫に近づいた。耳をそばだて、囁き声を拾う。
「柚紀と双子ちゃんに相談したいことがあるんだけど」
 柚紀宅には、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)という名の双子の兄妹がいる。齢は9歳程度といったところだろう。彼らは柚紀の弟や妹というわけでなく、当然ながら、息子や娘というわけでもない。血縁関係などは一切ない、ただの居候である。そして彼らは――鬼と呼ばれるモノである。
「あいつらに相談ってことは……」
 柚紀の呟きを受けて、薫は青い顔で小さく頷いた。

「――ということがあったんだ」
 昨夜の出来事を語り終えた薫は、柚紀家の面々――柚紀当人と阿鬼都、鬼沙羅を見回した。
 ここは柚紀が住まうアパートである。1LDKの部屋はシンプルな家具が配置され、柚紀のさっぱりとした性格を象徴しているかのようだ。築年数はそれほど経っておらず、欠陥と呼ばれる不備もないと言ってよい。敢えて悪いところを挙げるとすれば、3人が住まうには手狭なことくらいだが、そこは仕方が無いだろう。
「鬼面の女、なぁ。僕らじゃないと思うけど……」
 ポテトチップスうすしお味をぽりぽりと食しつつ、阿鬼都が言った。ここで言う『僕ら』とは、鬼全般を指すものと予想される。
「そんな、まさに鬼面、っていう人なんて居ないもんね」
 薫の買ってきた手土産のケーキにフォークを入れつつ、鬼沙羅が言葉を続けた。
「……そうなの? 確かに阿鬼都くんや鬼沙羅ちゃんを見てる限りだと、だけど」
 阿鬼都も鬼沙羅も、どこからどう見ても普通の子供である。艶やかな黒髪と可愛らしい顔立ちは注目を集めるだろうが、その注目は決して鬼ゆえではない。
 実際、彼ら以外の鬼――先日の事件にて姿を見せた紅葉御前(もみじごぜん)、酒呑童子(しゅてんどうじ)、清姫(きよひめ)などもまた、能力や性格が規格外なのは別として、そこかしこを歩いている人間と何ら変わらない外見をしていた。
 鬼面だからといって鬼と考えるのは短絡に過ぎるようである。
「薫。鬼面って、具体的にはどういう顔だったの? 恐ろしい顔って意味での鬼面なのか、事実般若の面みたいな顔だったのか」
 柚紀が尋ねた。
「般若の面のまんまって感じだったよ。後ろからのしかかられた時に少し見ただけだけど」
 素早い回答である。考え込むでもなく、即座に答えた。記憶が不明瞭ということはないらしい。なれば、事実と思ってよいだろう。しかし、事実とは得てして主観が入り込むものだ。
「恐怖心が記憶を塗り替えた可能性はない?」
「ないと思う。……言い切れないけど」
 否定をしながらも、自信なさげに言った。それも当然だろう。主観が入り込んだ可能性はどうあがいても0にできない。
「オッケ。ま、そこを疑うのはナンセンスね。なら、その般若の面が実際にお面だった可能性は?」
 再三の柚紀からの質問に、今度ばかりは薫も考え込んだ。こめかみに右手人差し指をあてがって瞑目しつつ、懸命に記憶を呼び起こす。
 数分の後、ようよう彼女は瞳を開いた。
「ごめん。わかんない。でも、変質者がお面を被って襲ってきたとか、そういうのもないと思う」
 常識的に考えれば最もあり得そうなシチュエーションではあるが……
「わたしもそれはないと思うなー」
 鬼沙羅が、薫の自信なさげな主張を支持した。
 柚紀と、薫自身が訝しげに首を傾げる。
「どうして?」
「薫の体にまとわりついてる気配ってその鬼面のだと思うけど、ふつーの人の気配じゃないもん。感知があんまり得意じゃないとはいえ、それくらいはわかるよ」
「だな。僕も同意見」
 ぱくぱく。ぽりぽり。
 ケーキを幸せそうに食している鬼沙羅に、ポテトチップスをひっきりなしに口に運んでいる阿鬼都が同意した。彼らは2人とも、柚紀や薫よりそういった事柄に詳しい。
「とすると――」
「鬼とは言わないまでも、幽霊とか妖怪とか」
「怪しい奴が起こした怪しい事件だね」
 そのように、鬼2名が言い切った。それぞれお菓子を頬張る様子は、まるで緊張感がない。あっけらかんとした表情でだらけきっている。平和そのものといった風情だ。
 一方で、柚紀と薫の顔は陰った。
 夜道で白い影を見た、といった程度の事件ならば寝て忘れればいい。しかし、今回は間違いなく襲われている。不思議と助かったからよかったものの、あのまま鬼面の女に掴まったままであったなら、どのような事態に陥っていたのか知れたものではない。
 しまいには、青い顔でブルブルと震え出す薫。普通の人間であれば恐怖を覚えない道理はなかった。
 彼女のそのような様子を瞳に映して、鬼子2名は首を傾げる。
『どうしたの?』
 声を揃えて尋ねた双子に向かって、柚紀が嘆息しながら、こういう場合に一般的な人の子がどのような感情を抱くかをとつとつと語って聞かせた。
 しかし、双子は相も変わらず訝しげにしている。
「……でも、なあ」
「うん。薫って……」
 頭を抱えて恐怖に震えている少女を見つめ、鬼たちはしきりに首を傾げる。この間は、とか、いつの間に、とかとぶつぶつ呟いている。
 流石に気になった柚紀は、双子の鬼に疑問をぶつけた。
「どうかしたの? 阿鬼都。鬼沙羅」
 尋ねられても、鬼子たちは珍しく歯切れの悪い様子を見せる。
「んー。ちょっと自信ないからなぁ」
「そーだねー。いったん感知が得意な人に見て貰った方が、かも」
 結局、明確な回答は為されなかった。
「ふぅ。ま、あんたらが言うならそうしましょうか。幽華(ゆうか)はしばらく龍ヶ崎町を離れるって聞いたし……」
 柚紀が腕を組みつつ、ごちた。
 幽華というのは、柚紀の友人であり、龍ヶ崎町に在る気龍寺(きりゅうじ)の住職木之下実明(きのしたさねあき)の1人娘である。姓名を木之下幽華と言った。彼女は鬼流(きりゅう)と呼ばれる異能者であり、龍ヶ崎町に住まう霊能関係者たちの中では1番の実力者と言われている。しかし、とある事件との関わりにより、しばらく龍ヶ崎町を留守にしている。
「感知っていうとアレでしょ? この間、黒羽(くろう)さんを探し当てた千里眼能力みたいなやつでしょ?」
 数ヶ月前に彼らは、とある虫が妖怪化した存在、黒絵(こくえ)という少女に協力して、彼女の兄である黒羽を探し出した。その時に活躍したのが『感知』と呼ばれる能力であったと、柚紀は記憶している。
 阿鬼都と鬼沙羅が首肯した。やはり、記憶に誤りは無かったようだ。
「じゃあまた――柑奈(かんな)に頼むとしましょうか」
 柚紀は妹の名を口にして、小さくため息をついた。
 天笠家は、天原(あまはら)の民(たみ)と呼ばれる強い霊的な力を有する家々の1つである。そして、柚紀の妹である天笠柑奈は、天原の民の強い資質を備えている。彼女は中でも感知能力に長けており、鬼沙羅の言う『感知が得意な人』に当てはまる。
 そんな柑奈は天笠家の近所にある洋菓子店『綺羅星堂』のフルーツケーキを好物にしている。頼み事をする以上、それを要求されるのは目に見えていた。月終わりにさしかかり、生活費が弱冠苦しい頃合いだ。そんな折の出費は痛い、が――
 柚紀はちらりと横目で薫を見やる。友は相変わらず青い顔で震えていた。
 ――あんな薫、放っとけないわよね
 平素であれば薫は、元気さしか取り柄がないと言っても過言では無いほどにはつらつとしている。そんな彼女の元気が無い姿を見ているのは辛かった。
 現状も何も判然としないなか、柚紀に出来ることは人を頼ることだけである。柑奈のもとへ赴けば、何かしらの進展は望めるだろう。
「柚紀ぃ……」
「何て声だしてるのよ、薫。大丈夫。何とかなるって。ほら、行くよ」
 すぅ。
 差し出された手。薫はしばし逡巡するが、柚紀の浮かべる微笑みを目にして少しばかり落ち着きを取り戻す。そして、ようよう彼女の右の手を取った。

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