第6章 憑き従う糸
久万月家

 薄暗い路地を通り、柚紀たちは久万月家へと向かう。稲荷神社の在る小丘を左に見ながら十字路を右に折れると、そこから先は街灯が数十メートルおきにしか存在しない寂しい通りであった。
「来たのは夏のお祭り以来だけど、この道、暗くなってから通ると怖くない?」
「んー。別にそうでも。昔から通ってるからかなぁ。変質者が出たとか、お化けが出たとかいう話も聞かないし。……まあ、今は流石に怖いけどね」
 前日に正体不明の某かと遭遇したのだからして、当然の感情であった。もし柚紀や鬼子たちが一緒でなければ全力疾走で家路を急いだことだろう。
「こんな日に限ってお月様が大きすぎて不気味」
 空には煌々と大地を照らす大きな丸いお月様が在った。必要以上に大きく見えるそれは、化け物たちがこの世へ這い出す入り口のように見えた。
 ぶるっと小さく震えて、薫は両の手で自身の体を抱く。
「と、ところで、その……居る?」
 恐る恐るといった風に彼女が尋ねた。視線の向かう先は、阿鬼都と鬼沙羅である。
 彼らは青と赤のマフラーにそれぞれ顔をうずめて、大きな瞳を瞬かせていた。
「気配はするよ」
「結構近いよね」
 紡がれた短い言葉を耳にして、柚紀と薫が頬を引きつらせる。覚悟の上で来たとはいえ、近くに鬼面の妖怪だか幽霊だかが居る、というのは何とも言いがたい気分だった。
「……で? どうなの?」
 真剣な面持ちで柚紀が尋ねる。
 しかし、双子は首を傾げてきょとんとしている。
『何が?』
「だから! 倒せそうなのかって話!」
 柚紀が気も短く叫ぶと、ようやく阿鬼都と鬼沙羅は得心がいったよう。
「ああ、そっか。別に改めて倒すほどの奴じゃなさそうだから、うっかり」
「このまま薫んちでお茶飲んで帰るコースかと」
 がくっ。
 双子の言葉に柚紀と薫は力が抜けたようで、肩を落とす。気を張り詰めていた自分たちが馬鹿のようであった。
 すぅ。
 ――ん? あれ?
 その時、柚紀は妙な感覚を抱いて訝った。何かが消え去ったような、そんな感覚だ。
「ありゃ。居なくなったな」
「こっちが倒す気満々だって気づいちゃったのかもね」
 同時に、阿鬼都と鬼沙羅がそのようなことを言った。
 ともすると、先ほどの感覚こそが『感知』と呼ばれるものなのかもしれない。柚紀はそのように考え、本当に自分も天原の民なのだな、と苦笑する。
 一方で、薫は恐ろしいモノが居なくなったと聞いて、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあじゃあ、今日のところは安心なんだね! はぁ、よかったぁ……!」
 2日連続で恐ろしい化け物の姿を目にするのはゾッとしなかった。見事退治して永遠の安寧を手に入れられなかったのは残念だが、場当たり的な安心感を抱きしめられるのも幸福である。
 取り敢えずは安心と分かるや、薫は大きく伸びをして思い切り息を吸い込んだ。ゲンキンなもので、不安が消えると大きなお月様がとても綺麗に感じられた。はっきりとした月明かりは夜道を照らし、人の子に心安さを分け与えてくれる。
「じゃ、薫んちでポテチだな」
「わたしはプリン。えへへ」
「うん。いいよ、来て来て。コンビニで買ってきたおやつ以外にも、ジュースとかケーキとかあるし」
 薫の言葉に、双子は瞳を輝かせて歓声を上げる。
 しかし、
「駄目。ポテチとプリン食べたら、あとはジュースだけ。そもそもご飯まだなのよ」
 乱れた食生活は柚紀家に許されない。即座に注意が促された。
 ぶーぶーと鬼子たちが騒ぎ立てるなか、薫が苦笑する。
 ――口にすれば嫌な顔をされるだろうけど、親子みたいだなぁ
 そのようなことを考える。そして、朝に母から聞いていたことを思い出して、口を開く。
「ご飯なら食べてってよ」
「え? でも、こんな時間に急に行っても、私たちの分まで用意出来ないでしょ?」
 今はまさに夕飯時である。普通に考えれば、食事の用意は済んでいる。これから3人分を追加で作るというのは無茶な要求だろう。
「だいじょぶ。今日、カレーって言ってたもん。ひと晩寝かせたおいしさってやつを犠牲にすれば、今夜の1食を乗り切るくらいイケるよ。あ、ちょっと待って。一応電話しとくから」
「いや、でもご迷惑だから――」
 ぴっ。トルルルルル。
 柚紀の言葉など意に介さず、薫は携帯電話を操って自宅に電話をかける。
「あ、お母さん? 友だち3人つれて帰るけど、だいじょぶ? ご飯炊けばオッケー? うん。じゃあ、私と友だちの分は追加で。お願いね。それじゃあ」
 ぴっ。
 電源ボタンを押して通話を切り、薫がすまなそうにまなじりを下げた。
「カレーはともかく、さすがにご飯が足りないみたい。1時間くらいは我慢してね」
「いや、それはいいけど――」
 何だか悪いなと柚紀が困った顔を浮かべている一方で、子供たちは元気である。今や人の世の食べ物に慣れ親しんだ鬼子たちは、一般的な日本人の例に漏れず、カレーが大好きだった。
『カッレー! カッレー! わーいわーい!』
 純粋に喜ぶ2名を目にして、柚紀は苦笑した。
 ――今さら断るのも悪いかな。それに、私だってカレー好きだしね
「ありがとね、薫。お邪魔するわ」

『ごっちそうさまー』
 満面の笑みで叫んだ双子を瞳に映し、久万月弥生(やよい)は瞳を細めた。
「おそまつさまでした。薫のお友達がこんな可愛い子たちだったなんてねぇ」
「1人は可愛くないけどなー」
「目つき悪いもんねー」
 即座に言ったのは、阿鬼都と鬼沙羅だ。
「あんたらね…… まあ、間違ってるわけじゃないけど……」
 こめかみに青い筋を作りながらも、柚紀は拳を強く握りしめて拳骨を落とさぬように、そして、怒声を轟かせないように耐える。さすがに他人様の家で怒り狂うわけにもいくまい。
「確かに、柚紀はどっちかというと『かっこいい』だよね。大学の女の子にもファン居るし。ちなみに私の嫁です」
「まあ、そうなの」
 薫の発言に柚紀は肩を落とす。その一方で、小さく笑む。心に暖かいものが生まれた。
 ――元気になったみたいでよかった
「……『天笠』柚紀さんでしたかな?」
「え? あ、はい」
 居間へと続く扉から顔を出して、老人が言った。
「お祖父ちゃん。どうしたの?」
 老人は薫の祖父、久万月朝璽(ともじ)であった。齢は70を越え、先月72歳となった。しかしながら、伸びた背筋としっかりとした足取りは、彼の佇まいを実際よりも若々しく見せる。
 朝璽は孫娘に柔和な笑みを向け、しかし、断固とした口調で言い放つ。
「居間でテレビでも観ていなさい。弥生も」
「え? でも……」
「ほれほれ、行きんさい。子供らもさあさあ」
 朝璽は薫、阿鬼都、鬼沙羅の背中を押して、ダイニングから追い出す。最後に弥生に視線を向けると、彼女は一礼して自主的に出て行った。
 先程まで賑わっていた部屋には、朝璽と柚紀だけが残される。
「えっと、あの?」
「薫に何かあったのですか? 天笠様」
 戸惑った顔の柚紀に、朝璽が真剣な瞳を向ける。体はよくよく見ると震えていた。
 柚紀はかつて友の口から聞いた言葉を思い出す。
 ――信心深い老人にとって、鬼流の名は穢れなの
 神の国日本を生きた老人にとって、鬼の末だと伝えられる鬼流は穢れであった。なれば逆に、神に通ずる天津(あまつ)や天津の配下にあたる天原の民は、神そのもののような扱いなのやもしれない。
 だとすれば、朝璽が柚紀を『天笠様』などと呼ぶのも頷けるというものだ。
「あの、私は確かに天原の民です。でも、最近までそれを知りませんでした。だから、別に特別な人間というわけではありません」
「では、薫に何かがあったわけではないのですね? 儂の孫娘は、まだ普通で居られるのですね?」
 ――『普通で居られる』?
 まるで、薫が本来は普通で居られないかのような物言いである。
「より子が願ったあの子の未来は――蜘蛛憑きとしてではない久万月の未来は、潰えてはいないのですね?」
「蜘蛛……憑き?」
 聞き慣れないけれど不安を誘う言葉が、柚紀の耳朶を刺激する。居間から聞こえてくる楽しげな声とは完全に異なる響き。幾百年も積み重ねられた痛みが伴う、悲しみの響きである。

PREV TOP NEXT